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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Maggio 2020

第5回

自治都市「コムーネ」の時代


 文と写真   大島 悦子 

1.ミラノの「コムーネ」成立へ
●北イタリア各地でコムーネ誕生

11世紀後半、北イタリアと中部イタリア各地で、次々と「コムーネComune」が形成された。コムーネとは、「コンソリ」と呼ばれる住民代表者が都市全体の意思を決定する都市共同体であり、「自治都市」とも呼ばれる。
コムーネの誕生は、突然発生した動きでも、また一つの決定の結果でもない。コムーネ初期の発展については史料が乏しいためはっきりしたことはわかっていない。またその形成プロセスは都市ごとに異なるが、コムーネ成立には、11世紀の様々な社会的問題、すなわち、商業活動の発展と商人層の成長、都市人口の増大、教会改革や叙任権闘争下の政治的混乱などが関係しているとされている。

北イタリアと中部イタリアでコムーネが多数誕生した地域は、いわゆる「イタリア王国Regno d’Italia」を形成しており、ドイツ王国とブルグント王国(現在のフランス南東部)とともに「神聖ローマ帝国」を構成していた。イタリア王国は、962年皇帝に戴冠されたオット―1世に、翌963年に征服され、それ以降、常にドイツ王がイタリア王も兼任することになる。そのためドイツ王がイタリアを不在とする時期が長いため、イタリア王国は事実上中央権力から放置され、形の上では侯爵や伯爵が王権を代表していたものの実際は都市に対して力が弱く、次第に都市の司教に政治的権限が移行していくことになる。これが都市の中心性維持にとり重要な要因となり、コムーネ発生の土壌をつくることにつながる。さらに、後で詳しく述べるが、11世紀末の叙任権闘争で、皇帝のイタリア都市に対する介入の力が弱まり、公的権力の不在がさらに進む中で、都市はコムーネと呼ばれる自治政府を形成していくことになる。 

写真トップ@1167年「ミラノへの帰還」を描く「「ポルタ・ロマーナの帯状造形浅浮彫」 
(ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)

●「コムーネ」時代、ミラノは広域で「主役」の役割
ミラノで「コンソリ」の存在が史料で確認されるのは1097年のことだが、実際にはそれ以前からコンソリによる都市政策決定の仕組みが機能し始めていたとされている。なお、ミラノの「コムーネ体制」は、13世紀後半に「シニョーリア(君主)制」へと移行するため、その期間は約150年間と、他のイタリア都市と比べ短いが、この時期、イタリアの都市の中で、ミラノほど広域で「主役」の役割を果たした都市は他にない。すなわち、神聖ローマ帝国皇帝に対し自治権を求めてロンバルディア同盟を指揮して戦い、ミラノ周辺地域や近隣都市を配下に「領域国家」に向けた覇権政策を推進した。

写真上左Aミラノのメルカンテイ広場に今も残るコムーネ時代を象徴する 「ラジョーネ宮」(1228年建立)  写真上右Bメルカンティ広場 

したがってミラノの「コムーネの時代」を理解するためには、「ミラノ内部の出来事」を追うだけでなく、ミラノと北イタリア全域との関係、そして当時の政治舞台の二人の立役者, ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝とミラノとの関係にまで視野を広げることが必要だろう。

●教会改革と叙任権闘争と「パタリア運動」
11世紀後半の北イタリアは、司教や修道院長を任命する権利である聖職叙任権をめぐって神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇が対立した叙任権闘争の時代となった。聖職叙任という宗教行為への世俗権力の介入を排除しようとする教皇側は、「教会改革」の運動を起こし、教皇側の正当性を人々に訴えかけた。聖職売買(シモーニア)と僧侶の妻帯、俗人による聖職録の横奪などが厳しく糾弾された。

教会改革運動は民衆の間にも広がってきた。ミラノ大司教は長期にわたり神聖ローマ皇帝によって聖職叙任されており、宗教的資質よりも政治的経済的な絆で高位聖職者が選出されていたため、ミラノではそれに反対する「パタリア Pataria」という住民運動が発生し、皇帝側に任命された大司教を強く批判し、抵抗した。この運動体は、ローマ教会による教会改革運動と呼応して1057年以降、ミラノを二分する激しい政治的・宗教的運動に発展した。「パタリア」は「ボロキレ」という意味であり下層を示す言葉に由来しているが、人民のあらゆる層に浸透した。

そして1073年教皇グレゴリウス7世の即位、特に1077年に皇帝が教皇に許しを請うた「カノッサ事件」以来、ローマ教皇と神聖ローマ帝国の間の衝突はその頂点をむかえ、ミラノはこの大きな枠組みに組み込まれ、ミラノ内部の緊張関係を刺激した。何よりも不道徳性や聖職者の不適切な行動に対する弱さで大司教が非難された。さらに、ミラノの場合は、聖アンブロージョ時代から継承されるミラノの伝統的自治権に執着するミラノ教会と、中央集権化強化をはかるローマ教皇庁の対立もありさらに複雑なものとなった。この結果ミラノ大司教はローマ教皇との関係で相対的に権力を低下させ、次第にローマ教会の優先性を認めざるをえなくなっていった。

●大司教の支配実務者グループが、次第に「代替え」
前号で述べたように、ミラノでは、11世紀前半に、大司教アリベルト・ダ・インティミアーノがヨーロッパレベルの政治力を駆使しており、ミラノは事実上、大司教による統治が実施されていた。そして大司教から封土を抱く大封建領主層「カピタネイ」とその陪臣である中小領主層「ヴァルヴァッソーリ」が権力を持っていた。それに対し、封臣関係ではなく、経済的繁栄から恩恵を受け頭角を現した「市民層Cives」との間で対立が起こり、市民戦争まで勃発した。

写真上C「福音書著者のシンボルのある板」(12世紀前半)
 (ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)    

ところで、大司教が担ってきた公的機能は、本来の宗教的任務とは明確に分けられ、都市にまつわる重要案件は、大司教の指揮のもと上記「カピタネイ」や「ヴァルヴァッソーリ」など町の有力者との集まりで検討・実行されてきた。この集まりに次第に、司教の側からの要請によって単発あるいは継続的に、経済や司法の「プロ」として「市民層Cives」の人々がメンバーに加えられていった。すなわち、物資供給や商業活動の規則制定などでは大商人や交易に従事する者が重要な役割を果たし、司教の側近として司法行政面法律の実践を担っていた判事や公証人など専門能力を持つ人物などが、重責を担うようになっていった。

ところで、これら三つの社会層は、互いに対立し多くの紛争も展開してきたが、同時に、市内でも、田園部でも個人的にも経済的にも多重な絆で結びついていた。そのため、社会的宗教的対立に脅かされてきた関係から、内部和平への強い要望、そしてより安定した政府を持つ要望も強く、次第に、秩序と正常化を回復する力のある自治政府の形態を試みることを目的に、一致点を探すようになった。ミラノのコムーネ形成においては、このように、当初は大司教に寄り添う形で実務を体験していく中で次第に都市統治に取り組む「支配階層」が形成され、その後、次第に大司教に代替えするものになっていったとされている。そしてこれら都市エリートのメンバー間で「合意」が形成され、「コンソリ」が選ばれ、市民共通の利益を守るという特定の任務が与えられた。

2.コムーネの組織と特色
●「住民総会アレンゴ」と「コンソリ」制度

コムーネの自治の基本は、市内に家屋を持ち納税者である「自由市民(男性)」すべてが参加する権利を持つ「アレンゴArrengo」「コンチョConcio」と呼ばれる総会であり、ここで「コンソリ」が選出され、住民の前で「誓約」を行い、それに対し、市民たちは、彼らの代表者の行動に対し協力し支持することを誓約した。総会は重要案件を議論する際にコンソリの招集により開催された。その後、12世紀には一般市民が公的案件に対し直接参加する機会は少しずつ減り、案件の重要性に応じて、400名、300名、あるいは200名等、市民代表の有力者が集合する「コンシリオConsiglio」の優位性が増加していった。

コンソリは、コムーネの行政執行権を持つ自治政府最高の役職である。ミラノのコンソリの数は常に多数であり、1117年に18名、1130年に23名という数が確認されている。1130年の証書に記載された23名のコンソリの所属階層は、10名が「カピタネイ」7名が「ヴァルヴァッソーリ」そして「市民層Cives」が5名で、少なくとも17名のコンソリは、上層封建貴族出身であり、ミラノのコムーネ初期における実効的な権力分布を示している。しかし、出身階層にかかわらず、コンソリは個人的威信や卓越した資質を備え、政治的名声を博した人物であったようだ。

●教会は常にミラノの威信の拠り所
注目すべきは、コムーネと大司教との関係だ。大司教が次第に市の実質的統治から遠ざかり、コムーネの発展にともないコンソリが都市を代表することになるが、コムーネと大司教との関係は決して対立するものではなく友好的な共存関係を維持した。ミラノにおいて「コムーネ」組織は、それ以前の政治組織を断絶する革命的行為としてではなく、新時代により適応した統治組織として少しずつ出現したとみるべきであろう。

写真上D「聖イデアの行進の板」12世紀後半 (ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)

そしてミラノの威信の拠り所としてもミラノ教会の伝統に対し、コムーネの忠誠心が低下することはなかった。1100年9月には、ウルバーノ教皇とパスクワレ2世教皇の懇願に応じて、ミラノでは大司教アンセルモ4世が自ら大掛かりな十字軍派遣隊を結成し聖地に向かっている。この史実をもとに、ジュゼッペ・ヴェルデはオペラ「十字軍のロンバルディア人 I Lombardi alla prima crociata」(1843年初演)を発表している。

●ロマネスク様式の聖堂
ミラノでは、11世紀末に幾度か大火が発生し、木造建物だけでなく多くの石造り教会も、ほぼ全焼する被害にあった。その結果、ローマ時代遺跡から再利用していた大理石や石に代わり、建築資材として深い赤色が特徴的なレンガが用いられるようになり、主要聖堂がロマネスク様式に改修された。中でも重要なのは聖アンブロージョ聖堂である。11-12世紀に、左右に二つの鐘楼を備え、水切り傾斜付きファサードが周囲を圧倒するほぼ現在の形に再建され、北イタリアのロマネスク様式の代表とされている。

写真上左E聖アンブロージョ聖堂 写真上右F同聖堂正面の扉口にあるロマネスク様式の「牛」の浮彫。11世紀末

●ミラノ拡大覇権政策の推進
ミラノは当時、人口5万人以上を誇る西洋社会で最も人口の多い大都市のひとつであった。一方、イタリアの他都市は、せいぜい人口1万人前後であった。ミラノではコムーネ政府が多大な権力や自治を獲得するのにしたがってコンタード(周辺地域)や近隣都市を管轄下におく拡大政策を推進させたため近隣諸都市との衝突が始まった。1107年から1111年にはローディを攻撃破壊し、1118年にはコモとの対立が勃発し、10年も続く長期戦となった。ローディはポー川へのアクセスにとり重要で、コモはアルプス彼方へとつながる交易路につながる拠点であり、この二つの都市への勝利は、ミラノの交易拡大を保障するものとなった。12世紀前半には、ポー川沿岸交易を支配していたクレモナの権力が増大したことで、パダーナ平原から発する主要交易ルート、アルプス超え峠などの重要拠点や地域経済資源の支配権をめぐって、ミラノとクレモナの両都市間の敵対関係が激しくなり、度重なる衝突が繰り返された。 

写真上左G1095年献堂のコモの聖アッポンディオ聖堂
写真上右Hクレモナの聖堂より「ララモーネ(男像柱)」1107-1115年、
(ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)


ミラノの「領土」は北イタリアでも最大規模となり、広大なミラノ大司教区の境界を越えるところまでに達していた。このためミラノは近隣都市だけでなく国外からも賛美と疑惑や憎悪の混じった目で眺められていた。

3.神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世との対立
●皇帝権の完全回復を最大の使命に

ホーヘンシュタイン家のバルバロッサ(赤髭王)と呼ばれたフリードリッヒが1152年3月、ドイツ王に選出されたことは、イタリアのコムーネの歴史において大きな転換期を形成することとなった。フリードリッヒが王位に就くとき、叔父であり年代記作者のフライジングのオットーは、ミラノ近郊でのシト―派修道生活の経験をもとに、コムーネ進展状況について評価を行っている。ロンバルディア都市の豊かさとパワーを認めつつも、その自立志向に対し君主の威厳さえ恐れていないと厳しく非難した。特に、オットーの「ミラノはその広大さや有能な人間が大勢いることだけでなく、近隣都市のローディやコモを服従させることによっても他の都市よりも優位にたっている」という記述はよく知られている。

フリードリッヒは皇帝権の絶対的な至上性と尊厳性を完全に回復することを自分の最大の使命と信じており、法的に神聖ローマ帝国領にある北イタリアに皇帝の支配権を確立する決意を固めていた。

写真上I「フリードリッヒ1世を描いた細密画」、1189年頃 (ヴァチカン図書館所蔵)

●全6回、38年間におよぶイタリア遠征
事実、フリードリッヒ1世は、在任中6度までイタリア遠征をおこなっている。フリードリッヒの最初のイタリア南下は1154年10月である。ドイツ王となった今、教皇の手で皇帝戴冠をうけるためローマにむかうことが主目的であった。それに先立ち、11月にピアツエンツアに近い、ポ―川岸平原ロンカリアRoncagliaで、各コムーネのコンソリや大規模封建諸侯を召集し帝国議会を開催した。そして今後の行動指針となる政治的原理を発表した。すなわち、コムーネが事実上掌握している「王権特権=レガリエ(裁判権、官職選出権、徴税権、徴兵権、貨幣造幣権など)」を取り戻すため、コムーネに強い措置をとることを明言した。

●皇帝による「反ミラノ」路線
皇帝は、北イタリアの他都市を服従させるために、「反ミラノ」路線を強く示し、軍事面、外交面、経済面、心理面などあらゆるツールを用いてのミラノへの攻撃がその後行われることになる。
1154年から55年にはミラノ周辺地域の城塞等の破壊、ミラノの友好都市・連携都市への攻撃等が行われた。 1155年春、イタリア王国首都のパヴィアでイタリア王に選出された後、フリードリッヒ1世はローマに向かい、1155年6月15日教皇ハドリアヌス4世により帝冠され、ドイツに戻った。 1155年9月には、ミラノに対し「帝国追放令」が発布され、税収の徴収や貨幣鋳造権から派生する恩恵を取り上げた。ミラノは、これに対し皇帝貨幣とは別の貨幣鋳造を試みるが、皇帝側はその流通も禁止した。

●ロンカリアの帝国議会
1158年6月、フリードリッヒ1世は、今回は大勢の皇帝軍を伴い第2回イタリア遠征をおこなった。7月にミラノに対する追放令を確認し、8月初旬にはミラノを軍事包囲した。ミラノは1ケ月間の抵抗後降伏し、「国王特権(レガリエ)」の喪失、特に造幣と通行税の徴収権などを失った。

このようにミラノをいったん抑え込んだ上で、同年11月第2回ロンカリア帝国議会が開催された。この議会は非常に重要性を持つこととなる。誕生まもないボローニャ大学から4人のローマ法教師が招かれ「君主の要望はその中に法律としての価値を持つ」というローマ法を根拠とした皇帝の権利、「レガリア憲章」を定義し、皇帝はコムーネに対し、前任の皇帝により特に譲与された権限を除き、コムーネが勝手に横取りしている権利の返還要求権を持つと主張したためだ。さらに、都市間の紛争や都市間連携も禁止することを目的とした「和平の法」に対し、誓約することをコムーネ側に課した。

これはコムーネの自治に対する決定的な挑戦であり、この帝国議会に集合したコムーネは、コムーネ誕生時からコムーネが慣習的に行使してきた諸権利を皇帝に返還し、皇帝への忠誠を誓うこととなった。多くのコムーネは、一定の貢納を行うことで既得権を皇帝に認めさせることも可能と考えあえて反対はしなかった。しかし、ミラノと他のいくつかの都市はこれを拒否した。コンソリを皇帝が任命する等の条件は何よりも屈辱的な性格であると判断したためである。

皇帝直轄権が確立されると、1159年1月から4月にかけて、皇帝に忠誠な都市には、皇帝が指名した人物が行政と軍事と司法を担当する長官として就任し、税制も皇帝が決めるようになる。このようなフリードリヒ1世のイタリア支配の動きに対し、1159年に教皇に選出されたアレクサンドル3世は公然と抵抗した。

●フリードリッヒ1世によるミラノの徹底破壊
この状況下、ミラノでは、行政官を押し付けるために派遣された「皇帝代理」に対し暴力的反抗が発生した。激怒したフリードリッヒは、1161年夏、改めてミラノに対する大掛かりな軍事包囲を行った。皇帝派のパヴィア、クレモナ、ローディ、コモの軍勢に強化されたフリードリッヒ1世の皇帝軍によるミラノへの軍事包囲は極めて厳しいもので、徹底した食糧攻めで住民は飢餓状況に陥り、翌年1162年2月末、約7ケ月の抵抗の後、ミラノは、無条件降伏をした。 

写真上左Jフリードリッヒ1世と称される男性像  写真上右Kフリードリッヒ皇帝妃とされる女性像  
(両者ともミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)

皇帝は、住民は自らの家を捨てて市外にでるよう命じた。その上で、皇帝側の各都市軍に対し、各都市ごとに地域を分け、宗教的建築物を除き町全体を徹底破壊することを指揮した。

ミラノは4つの農村集落に分散させられ、コムーネおよび都市自体の存続が中断した。1167年までの5年間ミラノのテリトリーはコンソリに代わり、モンツアを本拠とするドイツ人行政官に統治された。

ミラノでの圧勝後、皇帝が、1158年のロンカリア国会で課した条件をはるかに超えて、イタリア都市を皇帝の完全管轄下におくために官僚機構の構築を試み、ドイツ人官吏による支配網、過酷な徴税などを進めたことは、イタリア都市とフリードリッヒ1世との間の関係を決定的な変えることになった。1162年まで皇帝支持都市であった大半の都市が、60年代後半には皇帝に反抗する態度をとるようになった。一方、皇帝による統治機構はその官吏の汚職や横暴などが原因で、各地で反乱や衝突を繰り返し事実上破綻していった。この中で、ヴェネトの都市は、皇帝官吏による悪政に反抗し、1163年対皇帝同盟であるヴェローナ都市同盟を秘密裏に成立した。

●「ポンティーダの誓約」とミラノへの帰還
1167年3月8日。ベルガモ、クレモナ、ブレーシャ、マントヴァのコンソリたちは、長期に相互助け合う誓約を行った。亡命中のミラノのコンソリたちは、すでにこれらの都市とコンタクトを取り始めていた。4月7日、有名な「ポンティーダの誓約」は、ベルガモとミラノの間にある修道院でコムーネの代表者達により実現されたといわれている。

写真上L「ポンティーダの誓約」 ジュセッペ・ディオッティ作1836年頃 (ミラノ近代絵画館所蔵) 

1167年4月、ミラノはこれら同盟都市と正式な和平と友好な誓約を行う。そのためミラノは覇権主義を捨てて領土的に多大な譲与を行うという高い代償を払ったが、その甲斐はあったことになる。なぜなら、4月27日、これらベルガモ、ブレーシャ、クレモナなど同盟都市から軍旗をなびかせ武装した戦列がやってきて、ミラノの難民市民たちを防御し、荒廃したミラノへの帰還という大胆な行動が実現されたのだ。

写真下Mミラノの帰還を表現する「ポルタ・ロマーナの帯状造形浅浮彫」
(ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)
写真上左N「ポルタ・ロマーナの帯状造形浅浮彫」当時の構造を再現配置したもの   
写真上右O「ポルタ・ロマーナの帯状造形浅浮彫」の一場面  (ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)

このミラノへの帰還は、「ポルタ・ロマーナの帯状造形浅浮彫」に表現され、現在、スフォルツェスコ城博物館に所蔵されている。1171年に選出されたミラノのコンソリにより建立されたこの作品は、中世の旧ポルタ・ロマーナ門の上に配置されたもので、後期ロマネスク様式の素朴なラインの中に、ミラノの破壊そして市外追放のあと、ミラノ人がミラノに戻る最も印象的な瞬間を描いている。 ミラノ帰還後、ミラノは信じられないエネルギーとスピードで再建に取り組むことになる。なお、ミラノ再建にあたっては、当時、神聖ローマ帝国と抗争中の東ローマ帝国皇帝マヌエル1世コムネノス(在位1143−1180年)からも財政的支援を受けたとされている。

ミラノ「中世の市壁」の建設

コムーネ時代初期、ミラノ中心部は帝政ローマ後期に構築された市壁で囲まれていた。都市への人口集中が進み、市壁外にいくつもボルゴ(集落)が集積したため、1130年代以降、市壁を広げる試みが一部で始まっていた。1156年に「帝国追放令」を受けると、フリードリッヒ1世の攻撃からの防御を目的に、ミラノのコンソリは、これら「ボルゴ」を取り込む大規模な市壁拡張事業に取り組むことを決めた。新しい市壁には、ローマ時代の門と呼応する大きな市門が6つに加え、12〜13の小門や「プステッラ(通用門)」が設けられ、門の上には塔が築かれた。市壁に沿って幅広の掘りが掘られ、その土を盛り上げて強力な攻囲土塁を築き市壁が補強された。掘にはニローニ川やセヴェーソ川の水が注がれた。

この試みは功を奏し、皇帝軍からの二度の軍事包囲に対して市壁は頑固に対抗することができた。ミラノの降伏は、破滅的な飢餓のためで軍事的攻撃によるものではなかった。1162年第2回目の降伏後、上述したように皇帝の命で都市内部がほぼ完全破壊され、堀も埋められ市門も破壊されたが、市壁自体は多少の破損はあったものの残ったと記録されている。

写真上P「皇帝フリードリッヒ時代のミラノ地図(1168年頃)」 このころ整備された楕円形の市壁が表示されている(出典 Wikipedia 「Milano all'epoca di Federico Barbarossa」)

ミラノ帰還後、コムーネがまず手掛けたのが堀をやり直し、改めて攻囲土塁を築き、架設ながら市壁を城塞化することであった。そして1171年には、石とレンガを用いた市門やその上の塔が再建された。堀の水の流れを制御する水門も設けられた。当時の市壁や市門の記憶は、現在も、中世ポルタ・ヌオーヴオ門やサンタブロージョのプステッラ(通用門)などに残されている。

4.ロンバルディア同盟の結成
●北イタリア17都市が参加

1167年12月1日、ヴェローナ都市同盟と合流して反皇帝同盟「ロンバルディア同盟」が結成される。フリードリッヒ一世皇帝の政策に疑心をいだいていたローマ教皇アレクサンドル3世の支持も得ることとなった。なお、当時「ロンバルディア」という用語は、現在のロンバルディア州だけでなく、ピエモンテ州東部からエミリア・ロマーニャ州のレッジョエミリアやモデナまでの広がりをもつ「地域」として定義されている。

1168年にローディで開催された第一回大会には北イタリア17都市が参加し、都市相互間の軍事的協力に加えて、加盟都市間の領土問題紛争の解決にも尽力することとした。重要なのはコムーネ都市と帝国との関係を明確にしたことだ。すなわち、皇帝が神聖ローマ帝国皇帝として認められている権利や枠組みを議論することはしない。また、皇帝への忠誠心を否定する意図もない。しかし、フリードリッヒ皇帝が第2回ロンカリア国会で定め北イタリアのコムーネに押し付けた中央集権的体制を拒否し、コムーネが自ら決定する権利を守ることを共通目標として確認したのだ。新職務として「レットーレ」が設けられ、各都市から一人ずつ選出され、連盟都市全体の行動をコーディネートする任務を持った。 さらに1168年には、反皇帝象徴のシンボルとしてピエモンテに教皇アレクサンドル3世の名前にちなんで新都市「アレッサンドリア」を建立した。本来皇帝に属す「都市建立」の権利をコムーネ側が行使するという象徴的意味も持つ行為であった。  

フリードリッヒ1世は、その後数年間はドイツ国内問題等に専念したため、ロンバルディア同盟都市は、各自の自治を再び掌握した。

●1176年の「レニャーノの戦い」
1173年にフリードリッヒ1世は第5回イタリア遠征をおこなう。北イタリア各地で、皇帝側と都市との間でいくつかの戦いが繰り広げられるが、1176年5月19日、ミラノ近郊の北西約26キロのレニャーノLegnanoの野で、両者対決のクライマックス「レニャーノの戦い」が開幕する。ミラノ軍を中心とする「ロンバルディア同盟」と皇帝フリードリッヒ1世率いる皇帝軍が対峙し、ロンバルディア側が大勝利をおさめることになる。   

写真上Q「レニャーノの戦い」 マッシモ・ダゼーリオ作、1831年 (Wikipediaより)

ここで注目すべきは両者の軍構成の大きな違いだろう。皇帝側は、アルプスを越えてきた重装備騎士軍が主力で、彼らは戦うことに自らの価値とステータスを持つ「プロ」の騎士だった。一方、ミラノ側は「市民軍」であった。騎馬隊は36個師団に分かれ、6つある市門ごとにさらに6グループにわかれていたとされるが、騎士文化に生きる貴族や城主もいたが、大半は土地所有者や商人、裕福な手工業者など様々な市民が必要な際に出馬していた。コムーネ側の陣容の特色は、地区教会ごとに組織化され、訓練をされていた多数の歩兵隊により形成されていたことだ。このように、ミラノの騎兵隊はドイツ軍と比べ軍事面の訓練は劣るものの、コムーネを守るため、騎兵の脇でともに戦う大量の歩兵隊の存在で大きく補完されていた。

5月29日の衝突では、最初の段階では帝国の騎士勢が同盟の騎士勢に比べ優勢となるが、その後、まさにミラノ軍歩兵隊による抵抗でこの日の運命を決めることになったといわれている。すなわち、ミラノ軍歩兵がミラノを代表する「カロッチョ」(下記囲み参照)を拠り所に、皇帝軍騎馬隊の攻撃にもちこたえたため、ロンバルディア側騎士勢が再び体制を整え、新しい補充軍と合流することを可能となった。ついにはロンバルディア側の放った槍の一撃がフリードリッヒ皇帝の靴底にあたり皇帝が転倒したことで、皇帝の騎兵軍は総崩れとなり退去となった。

 「カロッチョ」

「カロッチョCarroccio」とは、中世のコムーネで用いられた牛に引かせた戦車。レニャーノの戦いのシンボルともなったミラノのカロッチョは、コムーネの旗印である白字に赤十字の旗をかかげ、祭壇と十字架、鐘などを乗せた車で、その周囲を兵士が固めていた。

写真上左R「ミラノのカッロッチョ」をあらわした細密画、11世紀(wikipedia より) 
写真上右S聖シンプリチャーノ聖堂ファサード(扉口は12世紀後半) 

ミラノのカロッチョは、1037年頃、神聖ローマ帝国皇帝コンラード2世がミラノに軍事干渉した際、それに対抗しミラノ人が団結することを目的に、ミラノ大司教アリベルト・ダ・インティミアーノが創ったとされている。聖シンプリチアーノ聖堂はミラノの「カロッチョ」の聖堂とも呼ばれ、レニャーノの勝利と強く結びつくとされてきた。レニャーノの戦いの後、ロマネスク様式に改装された。その後も改修がされたが現在も当時の大きな扉口のある正面ファサードが残されている。

1177年7月24日、ヴェネツイアで皇帝とロンバルディア同盟と6年間の休戦条約が結ばれ、1178年皇帝はドイツに撤退した。                            

●コスタンツアの和義
1183年、皇帝側とロンバルディア同盟との間で「コスタンツアの和義」が妥結された。これは双務条約ではなく、皇帝からロンバルディア都市に対し、一連の司法的、経済的、政治的、行政的な「認可」を譲与するという形態はとったものの、その自治が実際上公認される内容となった。すなわち、1154年のロンカリア帝国議会で「王権(レガリエ)」と定義された権利について、それ以前コムーネが実践していた権利が公認された。またコンソリ制度も、皇帝によるコンソリ叙任権は維持されたものの公認された。

一方皇帝のイタリア南下の際は、皇帝軍の食糧・弾薬・馬用飼料等を負担する「慣習」は、今後も都市側が継続することが義務づけられた。このように、コムーネの求める自治が合法化されたが、同時に、コムーネ側は神聖ローマ帝国の公的構造に組み込まれ、あらゆる公的権力の基盤として皇帝権威を尊重することを受け入れた。

写真上(21)「コスタンツアの和義」(ジュセッペ・ボッシ作 1813年頃)の作品複写 (Wikipediaより)

●ミラノと皇帝との妥協関係の進展
コスタンツア和約の条文は、ロンバルディア同盟の全加盟都市に区別なく適用されたものの、ミラノは実質的に特別優遇され、コムーネのコンタード支配という重要案件に関し、明確な記載を得た唯一の都市であった。1184年、フリードリッヒ皇帝は、最後となる6回目のイタリア遠征を行う。ミラノはコスタンツア和義後、皇帝に近づき、1185年2月11日、皇帝は、レッジョエミリアで、従来、ミラノの大司教に与えられていた、ミラノ周辺の広大な地域の「国王特権(レガリエ)」を、大司教でなくミラノのコムーネに譲渡する公文書を与えた。

1186年、皇帝との妥協政策でミラノはさらなる特別の地位を得ることになる。フリードリッヒ1世は、息子ハインリッヒ6世を、シチリア・ノルマン王朝の相続人アルタヴィッラのコスタンツアとミラノで結婚させることにした。1186年1月27日の結婚式は、ミラノの聖アンブロージョ聖堂で、ミラノのコムーネ代表出席のもとで行われた。なお、このハインリッヒ6世とコスタンツアの間に1194年に生まれる長子が、後の皇帝フリードリッヒ2世である。さらに、同年6月9日には、ミラノに対し皇帝から、過去ミラノがアッダ川およびオリオ川の間で所有していた全領土の所有権を認める新公文書が譲与された。

皇帝は、このような形で、何十年にもわたって戦ってきた都市ミラノとの間の特別の関係を強化し、北イタリアにおけるミラノの第一位のポジションを事実上認めた。コスタンツア和義に始まるこれら3つの公文書が、ミラノでは法制上基本根拠となり、その後のさらなる覇権政策・領域国家成立を支えていく。
なおフリードリッヒ1世は第三次十字軍に出発し、1190年小アジアのサレフ川で溺死し、68年の生涯を終えた。

5.繁栄しインフラ整備の進むミラノ
●シトー派修道会による灌漑・農業活性化

ミラノの人口はさらに増加し、生産・消費の中心地として活況を呈し、周辺の平原では肥沃な土地の活用が進んでいた。特に、1135年シトー派修道会のサン・ベルナルドによりミラノ南部に「キアラバッレ修道院Abbazia di Chiaravalle」が建立されると、各地から多くの修道士を集め、灌漑と土地改良に大きく貢献した。大量の穀物が収穫され、畜産用飼料も増産させ、農業活性化の先駆地域となり、これらミラノ南部の農業の繁栄はミラノ経済の基本を築いた。

写真上左(22)キアラヴァッレ修道院(1135年)  写真上右(23)キアラヴァッレ修道院 回廊

ウミリアーテ派修道会による「毛織物」生産など繊維産業に加え様々な手工業も発達し始めた。同修道会は、アルプス北ゴシック様式アーチ等を特色とする新テーストを典型的なロマネスク様式の要素と融和・混合させた「ヴィヴォルドーネ修道院Abbazia di Viboldone di San Pietro」を1176年に建設した。

写真上(24)ヴィヴォルドーネ修道院(1176年)   

●水路および陸路の整備・発達
コムーネの時代は、水路や陸路のインフラ整備に対する関心がまり、コンソリ達が地域活性化の企画・実行力を競う大切な分野となった。

同時にミラノでは特に湖地帯への道路網が整備され、アルプスを越えの馬車が通れない場所には「ラバなど家畜専用の山道」補修整備や山賊対策が行われた。技術的にも難しく、莫大な投資や継続的な補修を必要とするアッダ川やティチーノ川の橋の整備も行われた。

 「ナヴィーリオ・グランデ」

ミラノは市内に運航可能な大河川をもたない。ローマ時代から多数の人工用水路により一応の水路は確保・活用がされてはいたが、ポー川水系のティチーノ川やアッダ川とミラノ市内を運航可能な水路で連結することは長い間実現かなわない夢であった。ミラノの本格的水路整備は、上述した、フリードリッヒ1世との戦いの際に、防御のために拡張した市壁の回りに掘った堀へ、ニローニ川やセヴェーソ川などの水を注いだものから始まる。

1167年ミラノへの帰還後、その再建の過程でコムーネは本格的な運河建設政策を決定し、1179年、ティチーノ川とミラノを結ぶため「ティチネッロTicinello」掘削を着手し、1268年、大運河「ナヴィーリオ・グランデNaviglio Grande」が整備される。これにより、ミラノ市内からティチーノ川を経てマッジョーレ湖に到達する運航可能な水路が誕生し、アルプス以北へのアクセスを容易にすることになった。  

写真上(25)現在の「ナヴィーリオ・グランデ」

なお当時の市壁に張り巡らせた「堀」はその後「環状型運河(Naviglio Cerchia)」として整備され、ミラノ市内の水利交通上、何世紀にもわたって重要な役割を果たしたが、自動車交通の発展や衛生問題などで1930年代に閉鎖が決定され、「環状型道路」に変貌した。現在もトラム94番がほぼこの旧「環状型運河」上を走行している。

運河、水路、灌漑用水、あるいは堀など主要水路網の拡充によって、周辺地域には大量の水を必要とする繊維産業、染色産業や皮革・なめし業など、機械動力源として水力を使う産業や、様々な手工業を営む職人工房など活発な活動を展開した。水量の大きな水路では水車が整備され、穀物が粉にされ、布地や紙の攪拌、金属製品を磨く石臼などに活用された。

●交易の発展と大商人の活発な活動
こうした交通網確保にあたって、ミラノのコムーネ政府は、他のコムーネとの間の道路・交易・商品運輸・通行税などの分野に関する外交協約調印など外交政策を推進した。大商人たちは、アルプス北など国際市場で存在感を高め、コムーネ内政にも強い影響力を行使した。
そして、輸出入の商いの管理統制、度量衡検査等商業活動の監督、市場や道路安全の警備などを管轄する「商人コンソリ」と呼ばれる職務が設けられ、訴訟を受ける裁判所も設置された。1197年の高利貸抑制・貸付の公式金利の制定、1204年の貨幣流通規制の記録もある。商人コンソリは、貴族政治的な大商人の手にあり、コムーネ支配層と強く結びつき、経済活動を手中に収めていた。

6.ミラノ内部の対立激化とポデスタ制
●「ポポロ」組織の台頭

一方、レニャーノの戦いで多大な貢献をしたものの、コムーネ政府の要職から除外されている「ポポロPopolo」と呼ばれる「庶民層」は、活発な製造活動のおかげで経済的重みを増し、大商人層やコンソリ層に対抗を始めたことで、都市内部勢力の対立が顕在化することになった。
そして、1198年に、肉屋、鍛冶屋、靴屋、パン屋、仕立屋などの職人層、薬草商や小商人たちを結集する組織「クレデンツア・ディ・サンタンブロージョ Credenza di S.Ambrogio」が結成され、コムーネの政治的役職への参加権を得ることで公平な税務負担を強く求めた。自己防衛のために武力組織を形成し、反対運動はついに反乱に発展した。

一方、富裕な大商人たちは「モッタMotta」を結成し、土地所有者の貴族たちからも、小規模商人たちとも袂を分けた。ポポロの組織に対抗するために、コンソリを輩出してきた貴族家門も独自の組織を結成した。

●ポデスタ制への移行
北イタリアの多くの都市と同様、ミラノでも、コムーネの混乱と動揺を克服するために、複数のコンソリの集合体が行使してきた権力を一人の執行者に集中させ任務を与える新しい官職「ポデスタ Podesta」が現れ始めた。ポデスタは都市内の利害の対立を超えて公正な統治を行うため、他都市出身から選ばれ、コムーネの評議会が決議した政治路線の執行者で、司法や行政面の高度の知識と実務能力が求められた。任期は半年から2年程度と短く限定され、任期終了時には、評議会による審査を受けた。

ミラノで選出された最初のポデスタは、1186年であるが、コンソリ制からポデスタ制への代替がすんなり運んだわけではなく、30年もの間、ポデスタ制とコンソリ制が交替しながら行われた。ミラノでポデスタ制が確立するのは1215年のことである。1215年には、ポデスタにより「ミラノ法規集Liber Consuetuedinum Mediolani」が発布され、立法権を持つ主権国家としてのコムーネを象徴するものとなった。このころ、ミラノではロンバルディアにおける決定的覇権を目指していたが、この「法規集」は、コンタードや征服した領土に対しても体系的法規として適用されることになった。

●1228年、「ラジョーネ宮」の建設
コムーネの活動拠点で住民総会等の開催された場は、長い間ドゥオーモ脇司教館にあった。1183年のコスタンツア和議でコムーネ制度が公認されると、それに適した場所を整備する必要があり、ようやく1228年に「ラジョーネ宮Palazzo della Ragione」(写真A)が完成した。ドゥオーモ広場から少しの距離にあるメルカンティ広場Piazza Mercanti(写真B)に今も残るこの建物は、ミラノ大司教区所有地内ではなく、コムーネがその組織として成熟期に達し、完全な自治と宗教権力からの離脱を示しているようだ。この建物はポデスタのオルドラド・ダ・トレッセーノの時代のもので、その貢献を記念して、建物ファサードには彼の騎馬像姿(1233年)が設置されている。

写真上(26)ラジョーネ宮に設置されているポデスタのオルドラド・ダ・トレッセーノ騎馬像

建物は現在二階建てだがコムーネ時代のものは地上階のみで上部階は18世紀に追加された。骨太の柱で支えられた極度に簡素なこの建物は、北イタリアの中世文民建築物の最も特徴的な建物の一つである。ラジョーネ宮内にはポデスタ本部、法律家、公証人、銀行家の事務所や拘置所も置かれ、「メルカンティ(商人)広場周囲に6つの門が整備され、ミラノ心臓部を示す広場として、大規模集会、商人の集まり、セレモニーや騎馬競技までこのスペースで繰り広げられた。

7.フリードリッヒ2世と第二次ロンバルディア同盟
●ミラノ勢、コルテヌオーヴォで大敗北

1211年、教皇インノケンティウス3世は、シチリア王国の国王フリードリッヒをドイツ王に選出し、1212年、ドイツ王として皇帝オットー4世の対立王として戴冠する。その後フリードリッヒはドイツでの勢力を確立し、1220年にローマで神聖ローマ帝国フリードリッヒ2世として戴冠された。フリードリッヒ2世は、祖父の1世とは異なり、神聖ローマ帝国皇帝であるとともに、シチリア国王で中央集権化した政治機構を持っていた。1226年に北イタリアに大規模軍隊を連れて到達し、1183年の「コスタンツア和議」で承認されたコムーネの公的権利を撤回し、帝国直轄下におく決意を表明したため、フリードリッヒ2世と北・中部イタリア都市との間の抗争が始まる。2世は古きバルバロッサの再現にも見えたが、実際はより深い知見と卓越した統治能力を備えた人物であった。

写真上(27)「フリードリッヒ2世とされる胸像」1189年頃 (プーリア州バルレッタ市立博物館所蔵)

ミラノは再び神聖ローマ皇帝と対決することになる。1226年にはミラノを中心とする第二次ロンバルディア同盟が形成されるが、クレモナなど伝統的なミラノ敵対都市は皇帝支持を掲げた別の連盟を構築した。1237年11月、皇帝軍は、ベルガモ郊外のコルテヌオーヴォで、ミラノ勢を主力とするロンバルディア同盟軍・教皇派軍と対決し、圧倒的優勢を誇る皇帝軍は同盟軍を打破した。ミラノ側は死者および捕虜多数となり、ミラノ軍のシンボル「カロッチョ」も略奪された。1338年初頭から、皇帝はイタリア北部・中部の再組織化を行い皇帝に最終決定権のある中央集権国家に変えようとした。

●フリードリッヒ2世の不慮の死
コルテヌオーヴォにおける大敗の後、コムーネ側同盟は事実上解体し、ミラノに忠誠な都市は、ブレーシャとピアチェンツアとボローニャのみとなり、ミラノは事実上孤立し深刻な危機に陥りながらも、反皇帝路線を貫いた。南イタリアと北イタリアを支配下におく勢いの皇帝パワーに危機感をいだいた教皇庁側は1239年、ミラノ支援のため教皇代理グレゴリオ・ダ・モンテロンゴを送り込み、ミラノの「レットーレ」に就任させた。モンテロンゴは、戦争のプロで同時に有能な外交官であり、彼の政治手腕により、都市間対立や都市内部党派間の不和を抑制し、反皇帝の共通戦線を築き直し、この結果、多くの都市が教皇側に蔵返したため、フリードリッヒ2世皇帝導入の中央集権行政機構も危機に陥った。
1248年、フリードリッヒ2世軍は、ロンバルディア同盟の奇襲を受けてパルマで敗北。その後も軍事的不運が続いた後、1250年12月13日、フリードリッヒ2世はプーリアの地で不慮の死をとげる。こうして皇帝によるイタリアのコムーネ支配再編成という目標は失敗で終わることになる。

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ミラノのコムーネ時代を貫く最大の課題は神聖ローマ帝国のフリードリッヒ皇帝との戦いであった。

皇帝にとっては、神聖ローマ帝国領土内の「イタリア王国」の中に、皇帝にとって耐えがたい独自の空間を創造するミラノに対する戦いであり、ミラノを制することで他のロンバルディア都市を制することをはかったのだろう。皇帝側の中央集権型政治とミラノの「自治」が両立できないことは明確で、ミラノにとっては、自らが築きあげた自治を守り、さらに近隣都市も配下に拡大戦略を進めるためには、皇帝との戦いは避けることができなかった。

そして、1176年の「レニャーノの戦い」での大勝利、特に、皇帝軍の大勢の重装備陣容に対し、ミラノを中心とするコムーネ側が、市民による歩兵隊が守りを固めて勝利したことは、北イタリアのみならず、当時の西洋社会に大きな反響を与えた。そしてミラノの中世史上「栄光の瞬間」として今でもミラノ人の自負と誇りの裏付けにもなっている。

それにしても、レニャーノの戦いでコムーネ側がなぜ大勝利できたのだろうか。ミラノ市民は、フリードリッヒ1世により町を徹底破壊され、5年間の難民生活を余儀なくされた。そして1167年にミラノへ帰還してからレニャーノの戦いはわずか9年後の出来事である。自らの住まい都市の再建に取り組み、一息ついた頃だったのだろう。何千名にもおよぶ歩兵たちは、ミラノから26キロ先のレニャーノに行進し、この偉業をやりとげた。ミラノの住民にとって、コムーネの保障する自治や自らの資産を所有する権利、これらの価値を守り、ミラノ破壊という悪夢の再現を止めるためには、すべてを投げ捨てても戦う用意があったのだろう。

そして、ミラノは、フリードリッヒ1世に抵抗する道程において、防御のための新しい市壁も設け、市民の集団的意識、他方ではその政治組織を固めることになった。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■スフォルツェスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00-17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■ミラノ近代美術絵画館  GAM - Galleria d'Arte Moderna Milano
所在地: Via Palestro 16
開館時間:9:00-17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
http://www.gam-milano.com/it/home/

■ラジョーネ宮  Palazzo della Ragione
所在地:Piazza Mercanti
(現在修復工事中)

■聖シンプリチャーノ教会  Chiesa di San Simpliciano
所在地:P.zza S. Simpliciano, 7
開館時間:7:00-12:00、15:00-19:00
http://www.sansimpliciano.it/ 

■キアラヴァッレ修道院 Abbazia di Chiaravalle 
所在地:Via Sant’Arialdo, 102 - 20139 Milano
Tel: 02.84.93.04.32
E-mail:infopoint@monasterochiaravalle.it 
https://www.monasterochiaravalle.it/ 

注:上記は、2020年5月15日現在、対コロナ関連対策のため、開館および開館時間・開館方法など制約を受けています。訪問にあたっては、開館の有無、開館時間などをお確かめください。




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