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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Luglio 2020

第6回

ヴィスコンティ家 
前編 シニョーリア制確立


 文と写真   大島 悦子 

1.ミラノ「シニョーリア制」へ
北イタリア各地でシニョーリア制導入

北イタリア・中部イタリア各地で11世紀後半以降、自由都市「コムーネ」が大きく花開いた後、13世紀後半から14世紀前半にかけて多くの都市の「コムーネ」機構は「シニョーリア制」に代替されていく。 シニョーリア制とは、都市の内部抗争の激化や外戦の類発など政治的・社会的危機に陥り、秩序維持が困難になった場合、コムーネが持つ権力を一人の手に集中させることで対応した制度であり、都市コムーネの全権を一人で掌握するに至った場合、それを「シニョーレ」と呼ぶ。

シニョーリア制へのプロセスは多岐にわたるが、コムーネの正規議決機関の通常手続きで「ポデスタ」や「カピターノ・デル・ポポロ」の任につきその後実力で全権を握る場合、あるいは市民の推挙を得て外部から招聘される場合、戦時の軍指揮官として就任する場合もあった。いずれも、当初は「臨時」「一定期間」の期限付き任務ながら、権力を掌握した「シニョーレ」はそれを長期化、終身職化、さらには「世襲化」をはかる場合が多かった。法的にはコムーネの制度的枠組みの内部から生まれるが、非常に広範囲な権限を委任されるため、事実上の「君主」に近い権力を持つことが多く見られた。

やがて、神聖ローマ皇帝あるいは教皇から任命されて終身職の皇帝代官や教皇代官になることが多かった。さらには14世紀末から15世紀を通じて、「公(Duca)」などの爵位を得ると、「シニョーレ」の地位より安定し世襲化し、「君主国(プリンチパート)」の段階に達する。

写真トップ@1277年の「デシオの戦い」を描くアンジェラ城大広間のフレスコ画から

●ミラノのシニョーリア制
ミラノでは1250年代以降、デッラ・トッレ家が「ポポロ」勢力首領としてのシニョーリア制を経験する。その後1277年、オットーネ・ヴイスコンティにより180年近く続くヴィスコンティ家のシニョーリアが始まり、1395年には当主ジャンガレアッツオに神聖ローマ皇帝より初代ミラノ公爵位が授与され「ミラノ公国」が誕生し、15世紀中頃にスフォルツア家に引き継がれることになる。
今号では、1250年から1350年にかけて、ミラノでシニョーリア制が確立し、北イタリアの乱立する中小シニョーリアを支配下におき、強力な領域国家が形成されていく過程を扱うことにする。 その前に、この時代の北・中部イタリアのおかれた政治環境を整理しておこう。

●「教皇党」と「皇帝党」の対立
13世紀中頃からは、神聖ローマ帝国と教皇庁の激しい対立にイタリア中が巻き込まれる時代となった。1250年の皇帝フリードリッヒ2世の死後、息子のコンラード4世が帝位とシチリア王位を継承するが、1254年急死し、父の庶子マンフレディが1258年シチリア国王に即位する。ローマ教皇はこの動きを不服とし、自己のイタリア政策を進めるため、1263年フランス国王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューにシチリア王位を授封した。シャルル・ダンジューは1266年、べネヴェントの戦いで皇帝派軍を破り、シチリア王カルロ1世となり、1268年にはドイツから遠征してきたコンラード4世の息子コーランディンをタリアコッツオの戦いで破り、ナポリで斬首する。これによりホーエンシュタウフェン朝は断絶した。

教皇とホーフェンシュタフエン家の皇帝・シチリア王との対立をめぐり、イタリアでは「グエルフ党(教皇党)」と「ギベリン党(皇帝党)」の二つの党派が出現した。シャルル・ダンジューによるシチリア王国征服の時代まではこの二つの名称はそれぞれ「教皇党」「皇帝党」という現実の意味を持っていたがその後は名称が独り歩きしはじめ、対立する二派の一方を「グエルフ党」他方を「ギベリン党」と呼ぶことが実態に近くなる。

●各都市内でも権力闘争は「二派」に収れん イタリア中部・北部は、これら党派抗争の舞台であり、以前からあった都市内の争いが皇帝派と教皇派の二党派に収れんする形で再編され、貴族を中心とする両派の権力闘争が展開された。闘争は都市内部にとどまらず、近隣一帯をまきこみ、都市を超えた党派同盟がおこなわれるようになった。勝利を得た党派は相手を都市から追放し、その家屋敷や資産を押収し、一方追放された党派は同盟党派の支配する都市に亡命し、その援助を得て母市復帰の機会をうかがった。

この時期、イタリアの都市国家内では、都市の職人・商店主など「平民層 ポポロ」が台頭し、コンソリ職を独占している貴族や大商人層に対抗し始めていた。各地でポポロ組織は政治団体を形成し、ポポロ組織の長である「カピターノ・デル・ポポロ」が出現し、コンソリによるコムーネ議会とは別個の議会を開催し、新興の「平民層」がコムーネの政治表舞台にも表れてくる。貴族の一部は、「平民層」の擁護者としてその支持を得ることで、政治的活動のベースを築く者も出現した。政治経験の乏しい平民層も、統治経験豊かな貴族出身者をリーダーとして味方につける意味は大きかったといえよう。

2.デッラ・トッレ家のシニョーリア                
●ポポロ組織の「長」に選出される

ミラノにおける最初の「シニョーリア」制はデッラ・トッレ家によるものだ。デッラ・トッレ家はミラノの「カピタネイ」(ミラノ大司教から封土を抱いた大封建領主層)の家系で、レッコ付近に封土を所有していた。1237年のコルテノーヴァの戦いでミラノをはじめとする第二次ロンバルディア同盟が神聖ローマ帝国軍に惨敗した際、デッラ・トッレ家のパガーノが多くのミラノ敗残兵を助けミラノへの帰還を支えたため、ミラノ住民に大きな感銘を与えた。

平民層は、この戦いで大きな犠牲を払ったにもかかわらず、税務負担の平等やコムーネの有償職務への参画を認めない貴族側と激しく対立し、1240年、ポポロ側の代表者として、人望と威信を持つパガーノ・デッラ・トッレを選出した。

写真上Aデッラ・トッレ家紋章のある石碑の一部、14世紀、キアラバッレ修道院 (ミラノ・スフォルツェスコ城博物館所蔵)

1247年、マルティーノ・デッラ・トッレが「長老Anziano」の名称でポポロ組織の長に選出されると、皇帝軍との戦いで増大する軍事費調達のため、聖職者、貴族、平民層平等に税負担を行う中世にしては革命的ともいえる税制導入をはかり、そのために全住民資産調査を行うことを発表した。反発する貴族や教会側と、平民側の争いはこれまでにも増して激化した。

●デッラ・トッレ家、ミラノを支配
1250年、皇帝フリードリッヒ2世の死去によりあらゆる抑制がなくなったことで、ミラノでも貴族側と平民側の争いはさらに激化し、その後、ミラノの貴族、すなわち、カピタネイ・バルヴァッソリなども、デッラ・トッレ側「平民側」につくものと、それに反対する側と二派にわかれた。
その後も、対立が激化し、1259年、貴族勢は総崩れとなり敗北。この年、マルディーノ・デッラ・トッレは「終身長老」の称号を得て、事実上、ミラノの「シニョーリア」を獲得する。1261年7月11日、ブリアンツア地方のタビアーゴで逃亡貴族たちが決起したが、ここでも平民側が大勝し、その結果翌年多数の貴族が逮捕された。半世紀前までは、市内で対立はあっても維持されていたある種のバランスが崩れ、今やポポロ側がミラノを支配し、その上にデッラ・トッレ家のシニョーレが君臨する状態となった。

●オットーネ・ヴイスコンティ、ミラノ大司教に任命
まさにこの時期、1262年7月22日、稲妻のような大ニュースがミラノを襲った。教皇ウルバーノ4世が、オットーネ・ヴイスコンティをミラノ大司教に任命したのだ。自らの家門を大司教にと画策していたデッラ・トッレ家はこの知らせに激怒し、オットーネのミラノ入場を拒み、オットーネの資産も押収した。そのため、オットーネ・ヴイスコンティは、後述するように大司教の座につくまで15年間の年月をまたねばならないことになる。

さて、デッラ・トッレ家は、1265年シャルル・アンジューのシチリア遠征を支持し、アンジュー保護下、教皇側につく。フランスからシャルル・アンジュー軍隊がロンバルディア地域を通過する際はデッラ・トッレ家が支援し、ベネヴェントまで同行し、アンジュ―側が勝利すると、ロンバルディアにおける勝利の「グエルフ」代表として振舞った。支配下の近隣都市にはデッラ・トッレ家メンバーを要職に赴任させた。さらに1273年にはナポ・デッラ・トッレが皇帝ルドルフ1世から皇帝代官の称号も授与され、君主的権力を持つようになる。このような権力志向の政策は住民の税負担も伴うようになり、「住民の保護者」としての立場からの乖離が目立ち始めた。      

3.オットーネ・ヴイスコンティ、シニョーレへ
●聖職者としてローマで業績をあげる

オットーネのヴイスコンティ家は、デッラ・トッレ家と同様にミラノの由緒ある「カピタネイ」の家系の一つであった。由緒正しさはその家名「ヴイスコンティ」が「副伯」を意味していることからも明らかであり、11世紀頃からミラノ大司教よりマッジョーレ湖畔地域に封土を与えられていた。公職や聖職界の役職にも家系メンバーを輩出していたが、オットーネのミラノ大司教選出までは、ミラノにおいてとりわけ豊かで大きな権力を持つ家門ではなかった。

オットーネは、ミラノで聖職者としての道に入り、その後ローマで当時大きな権力を持つ枢機卿オッタヴィアーノ・ウルバーニのもとで頭角を表す。同枢機卿は政治的・外交的に経験豊かな人物で、教皇の重要案件の特使として各地で大要件をうまくさばいた人物であり、オットーネが公私ともにそれを補佐したことで同枢機卿から厚い信頼を勝ち取り、政治外交の機微を学んだ。50歳を過ぎ、ミラノ大司教区で上級聖職位の任にあった時、上記したように突如大司教に任命されたのだ。なぜ彼が任命されたのか。一つには、ミラノの教会や聖職者からはデッラ・トッレ家の課税政策に対する不満がローマにも届いていたこと。一つには、ミラノ内部の対立とデッラ・トッレ家の君臨を懸念した教皇側が、いわば「アウトサイダー」の人物を望み、ローマでの業績、オッタビアーノ枢機卿の推薦、ミラノの有力貴族に属している点などが考慮され白羽の矢がたったようだ。

写真上Bオットーネ・ヴイスコンティ肖像の版画、1645年 (Wikipediaより) 

●1277年の「デジオの戦い」
ミラノ貴族の中でデッラ・トッレ家に追放されたり、要職からはずされたため自分たちの権威あるリーダーをさがしていた者たちがオットーネのもとに集まり、オットーネはデッラ・トッレ家指揮下のポポロ勢力に対抗する貴族側の党派のリーダ格となる。苦節15年間の間に、オット―ネも自ら武器をもち実力で闘わねば、大司教の座を獲得できないことを確信し、ミラノへの入場を準備した。
そして、1277年1月20日、ミラノの北約30キロの「デシオDesio」の戦いで、オットーネは自らの支持者を指揮し、ナポ・デッラ・トッレの統括するミラノ軍を打破した。デシオでの敗北はデッラ・トッレ家崩壊の印となるだけでなく、イタリア「グエルフ」にとっても深刻な大敗となった。 

  

「デシオの戦い」のフレスコ壁画

「デシオの戦い」におけるオットーネの勝利に関しては、ヴイスコンティ家ゆかりのマッジョーレ湖畔南岸にそびえる「アンジェラ城 Rocca di Angera」の「正義の広間Sala della Giustizia」に、この戦いの模様が4つのシーンに集約して描かれている。

写真上CD「「デシオの戦い」壁画」

馬上の英雄オット―ネが兵士たちに訓示を与える場面、捕らえられたナポ・デッラ・トッレがオットーネに慈悲を乞い、それに対し慈悲深い様子を示すシーン。オットーネを賞賛する市民が集まる中で馬上のオットーネ。ミラノに勝利の入場をする姿。しかし、実際には、ナポは、コモのパラデッロ城外側につるされた檻に閉じ込められたまま苦しい惨めな最期を迎えた。

写真上左Eアンジェラ城、正義の大広場の壁画 写真上右Fアンジェラ城からマッジョーレ湖を望む


●オットーネのミラノへの入場
ミラノ住民はトッレ側がオットーネに打破された報せをきくと、すぐに勝者側につきトッレ家の屋敷を破壊した。 1277年1月22日、オットーネ・ヴイスコンティは勝利を誇り、大司教の盛装着で頭に大司教帽、手には剣を持ち、「和平」「和平」と叫びながらミラノに入城した。同時に追放されていた貴族たちもミラノに戻った。まずサンタンブロージョ聖堂で大司教の座を獲得したことへの感謝を示し、次に、コムーネ館に向かい、そこでミラノのシニョーレとして任命された。
そしてコムーネの「評議会」については、様々な社会構成層から選出するそれまでの形を、上から、つまりオットーネが望んだ12名のメンバーより構成される組織に代替させ、コムーネ政治機構の形は残されるものの、政治、行政、税制、司法にいたる幅広い権限を自らのもとに集約させた。

さらにオットーネはミラノ大司教区改革として、ミラノとそのコンタード200の貴族家系のリストを作成し、その中から大司教区の上級聖職者に命ずることを決め、ポポロ出身者を排除することで貴族出身者の特権を守った。困難な時代に忠誠をちかってくれた貴族家門たちを要職に任命し、追放されていた時代の友人たちにも十分埋め合わせをした。その後、デッラ・トッレ家一門メンバーすべてに追放令が宣言された。

デッラ・トッレ家の生き残り組はローディ市周辺に集まり、その支持者とともに報復やミラノ挽回の機会を狙っていた。オットーネ側も、デッラ・トッレ家やその強力な連携相手である教皇派のシャルル・アンジュー、さらにはハプスブルグのロドルフォ皇帝などからの攻撃に対抗するため、1278年には、精鋭軍隊を持つ封建諸侯モンフェラート候を5年間契約で「ミラノのシニョーレ」として任命せざるをえなかった。1282年「シチリアの晩鐘」でトッレ家の連携していたシャルル・ダンジューの勢力が失墜すると同派の脅威が減少した。

●「カステルセルピオ」の全面破壊と後継者マッテオの指名
ところで、オットーネは大司教というプレステージ、本人の尊厳さゆえに、特別な権威を認められたのは確かであったが、その時点では、オットーネ支持派のトップですらオットーネ家だけにコムーネの政治の実権を委任する意向があったわけではなかった。しかし、まもなく、ヴィスコンティはこれまで支えてくれた有力貴族の活躍を抑制する方向にかじ取りをしていく。コムーネ機構を完全に掌握すると、当初の協力者たちからの強い要望や介入を避けるために、新しい政治方針に踏み切ったのだ。

オットーネの転換期は1287年にあるといえよう。オットーネに不満を持つ貴族勢力がデッラ・トッレ家側と合流し不穏な動きを始めたことで、オットーネは反ヴィスコンティ勢力の拠点「カステルセルピオ」を武力で全面破壊するという強硬手段をとったのだ。

写真上Gヴェローナの赤大理石でつくられたオットーネの記念碑的石棺 (ミラノ・ドウオーモ内)


この戦いでミラノ軍を指揮し功績をあげたのが、オットーネの弟の孫マッテオ・ヴイスコンティであり、オットーネはマッテオを後継者に選び、1287年には「カピターノ・デル・ポポロ」に、1288年には「ポデスタ」にも任命させ、ミラノの実権をすべてヴイスコンティ家の手に掌握させた。 その後、オットーネは政治生活からは引退しマッテオが事実上のミラノのシニョーレとなった。1294年にはマッテオ・ヴイスコンティはアドルフ皇帝から皇帝代官に任命される。オットーネは1295年に88歳で没す。ヴェローナ産赤大理石でつくられたオットーネの記念碑的石棺は、現在、ミラノのドウオーモ本陣右側に設置されている。

4.ミラノ社会を伝えるボンヴェジン著『ミラノの魅力』
ところでミラノは当時どのような社会だったのだろう。13世紀末のミラノ人口については研究者の推定は8万、10万、15万、20万人と幅があるが、ミラノがイタリア半島では最大規模の都市で、当時の西洋社会においてもパリに次ぐ第二の人口を有していた点は大半の研究者間で一致している。
この時代の記録は乏しいが、当時のミラノ社会や人々の生活を非常に具体的に紹介している貴重な書物がある。ミラノの「ボンヴェシン・ダ・ラ・リーヴァBonvesin da la Riva」が1288年に著した「ミラノの驚異 Le meraviglie di Milano」である。著者ボンヴェシンは、ウミリアーティ修道会の第三会員修道士であり、ポルタ・ティチネーゼの自宅でラテン語文法・詩を教える学校を開いていた。好奇心に満ちた人柄で多数の「データ」をもとに、生き生きとしたミラノ社会状況を提供し、ミラノの素晴らしさを賞賛している。

●具体的データでミラノの現状を紹介
ボンヴェシンの記載によれば、ミラノには家屋敷12500、教会数200、鐘楼が120、病院数10。人口20万人でそのうち1万人が聖職者、法律家が120名、公証人が1500名、コムーネ職員が600名、内科医28名、外科医150名、文法教師8名、アンブロジアーノ聖歌教師70名、書記者40名。ミラノには、パン屋400、千を超す店舗、肉屋440、コンタードから魚を運んでくる魚屋500名、宿屋150、蹄鉄工が80 馬の鈴製作者30。毛織物、麻、綿織物、皮革品、仕立て屋、鍛冶屋などの職人、商品をもって各地を駆け回る商人の数は無数。
本人はコムーネ職員などへ「取材」をして調査したと述べている。もちろんこれらの数値をそのまま信じるわけにはいかないが、当時の繁栄し活気あるミラノの生活に知る上のてがかりを与えてくれている。

●あらゆる面でミラノを絶賛
「ロンバルディア地方の都市の中でミラノは花にたとえれば、バラやユリ、樹木ならレバノン杉、動物ならライオン、鳥なら鷲のようなものだと、諸国の人々からもてはやされている。確かにミラノはあらゆる意味でほかのどんな都市よりも優れている。・・・ほかの都市と比較するならば、ミラノは天体のなかの太陽のようなものである」とミラノを絶賛している。特に、ミラノの空気が温和であり、水が豊かなことを誇っている。「どんなつましい家にもポッツオと呼ばれる井戸があり新鮮な水に恵まれている。実に6千個の井戸が市民に水を供給している。

さらに、町の美しさやミラノ人の善良さ、気品があり着るものも優雅であるとほめたたえている。そして、ミラノは美しく、繁栄しており、ミラノは豊かで、ミラノは宗教心が高く、そしてミラノは自由で、ミラノはその威信を誇っていると、具体的事例をあげながらその素晴らしさを強調している。
ミラノが素晴らしいのはその食の豊かさにあるとも述べ、まわりの農村からミラノに提供される農産物の豊富さ、穀物、豆類、果物、野菜の種類を並べあげ、さらに、川や湖からの魚類、肉にいたっては1日70頭の牛が屠畜されるほか、あらゆる種類の肉や野鳥類が出回り、そして年間荷車60万台分のワインが消費されているとのべている。

さらに、「ミラノは健康であればよっぽどろくでなしでなければ、それなりに立派に生活できる。とはいえおしゃべりで時間をつぶすことを許す町ではない。がんばって働く必要のある町だ」と働き者ミラノ人の心意気を強調している。

●ミラノの政治状況には沈黙
ところで、ボンヴェシンがこの本を書いたのは1288年。オットーネ・ヴイスコンティ統治11年目で、この年にはマッテオ・ヴイスコンティが「カピターノ・デル・ポポロ」に任命され、コムーネは少しずつ「シニョーリア制」へと移っていた時だ。ただ、ボンベジシン自身もまた多くのミラノ人も、社会変化の気配は感じても、これほど大きな「転換期」にあることは、認識していない時期だったようだ。ボンヴェシンは、同著ではミラノの政治状況に関してはほぼ「沈黙」を守っているが、ミラノ特有の欠点は「市民間の調和の欠如」であると告白している。この傾向が、自由で和平にみちた素晴らしい都市ミラノを脅かしていることを著者自身も案じている。「素晴らしいミラノ」を強調した本著は、それが今後も維持されるようにという著者のメッセージを込めているという解釈もできるかもしれない。

5.マッテオ・ヴイスコンティの治世
1295年の大司教オットーネの死去により大きな支えを失い、マッテオの統治に衝撃を与えた。従来からの内外の敵、あるいは味方陣営からもそれをうまく利用しようという傾向が生まれ、またまたデッラ・トッレ家のグイドの指揮で1299年5月には、各地の反対勢力や近隣の教皇派都市による「反ヴィスコンティ」勢力の集合が開かれた。 マッテオをその動きに対応するため、戦いに備え軍隊の補強整備にもつとめたが、もはや各市門から兵士を集めることはできず、有償で市民兵を徴用した。1300年には息子ガレアッツオをフェッラーラの名門貴族エステ候家のアッツオ・エステの妹ベアトリーチェ・デステと結婚を成約させることで外交関係を強化、家門としてのイメージアップもはかった。同時にガレアッツオを「カピターノ・デル・ポポロ」として共同統治者としたが、これは「世襲」にあたり、他の有力ミラノ貴族にとっても、ヴイスコンティの傍系親族にとっても耐え難いこととなった。

写真上Hマッテオ・ヴイスコンティ肖像の版画 (出典 Wikipedia)

●デッラ・トッレ家の再来
こうした、マッテオの野心や拡大政策軍事費負担に対する不満が広がっていったことに加えて、1302年は、北イタリアが大飢饉に苦しめられた年であり、穀物価格も急騰し、社会的に弱い立場の者は深刻な事態に陥った。こうした中、同年6月にマッテオが「反ヴィスコンティ」勢力と戦線を交えている最中、ミラノ市内でも反乱がおこった。この事態を前にマッテオはトッレ側の帰国と入れ違いに亡命した。

追放生活25年ぶりに、トッレ家はミラノに入城し、ミラノは再び「教皇派」都市となり、ヴイスコンティ側が追放生活をおくることとなった。ミラノの新指導者となったグイド・デッラ・トッレも、一族メンバーも「独裁者」というイメージをだすことを極力避け、コムーネ共和制を尊重する姿勢を示した。

●皇帝ハインリッヒ7世南下の機会にミラノへ復帰
一方、マッテオ・ヴイスコンティ側はその後も新政権に対する武力攻撃など続けたが成果は得られなかった。1310年、神聖ローマ帝国ハインリッヒ7世が、ミラノとローマで戴冠するとともに、混乱極めるイタリア半島に秩序と和平をもたらすことを宣言してイタリア南下を行った際、マッテオはこの機会にミラノの覇権を回復する可能性にかけた。実際、マッテオはハインリッヒ7世とともに、ミラノに再入場を実現し、その数ケ月後にはデッラ・トッレ家追放をかなえることとなる。さらにマッテオはハインリッヒ7世皇帝より、ミラノおよびコンタードに対する「皇帝代官」のタイトルを得るが、そのために代償として5万フローリン金貨を同皇帝に献上するが、その金をまかなうために、教会資産の没収も行った。

ところが1312年のローマで戴冠後、1313年にハインリッヒ7世がシエナ近郊で突然の死をとげたため、マッテオは皇帝代官の合法的基盤を失くすが、1314年ルードヴィッヒ4世新皇帝より認証を得たことで、ロンバルディア都市におけるミラノの権威を固めていった。そして、パヴィア、ピアチェンツア、トルトーナ、ベルガモ、コモ、アレッサンドリアそしてローディ、クレモナ、ノヴァーラ、ヴェルチェッリなど10都市のシニョーリアとなっていた。

写真上左Iメルカンテ広場にマッテオ・ヴイスコンティが建てた「オシイ家の回廊 Loggia degli Osii」
写真上右J法令や裁判結果が市民に向けて布告された同回廊の説教壇にあるヴィスコンティ家紋章

●ヨハネス22世による「破門」攻撃
こうしてマッテオは再び権力を掌握し領域覇権を広げ、北イタリア「皇帝派」の代表格として振舞ったために、教皇庁から、ヴィスコンティおよびその配下の全域に対する「破門」が繰り返し布告されるという高い代償を払うことになった。特に1316年にローマ教皇ヨハネス22世が就任すると、マッテオに対するすざましい攻撃が始まった。攻撃の理由は、一つにはマッテオによる教会資産攻撃や厳しい課税等に対する非難である。一つには、ヴィスコンティ家の拡大政策により、中部イタリアの教皇庁支配地も危機に陥いりかねないことを見抜いたためである。

教皇側は、宗教・信仰面でのあらゆる威嚇を用いて、「異端」告発を行い、ヴイスコンティ一門、そして都市ミラノに対する「破門」と「聖務停止」にいたった。ミラノでは宗教的危機が政治的危機と複雑化し、秩序は失われ混乱が激化した。民衆の感情や意識の上では、特に果てしない戦いや権力闘争の続く中で宗教や教会に心の平穏を求めていた。民衆は戦いに疲れ、「平和を!」「平和を!」と叫んでいた。 ヨハネス22世により破門され異端と非難されたマッテオは、1322年長男のガレアッツオにシニョーリアを譲り、自分は引退し、1322年6月22日死去した。72歳だった。

写真下K聖エウストルジョ聖堂外側壁面にあるマッテオ・ヴイスコンティの浮彫胸像

マッテオ没後、ガレアッツオは、ヨハネス22世による教皇軍、フィレンツエ軍、ナポリ王国ロベルト王などからなる「グエルフ」による「反ヴィスコンティ十字軍」派遣の前に窮地に陥った。もう終わりというところで、新皇帝ルードヴィヒ4世が補強軍をミラノに派遣してくれたことで救われ、十字軍は終了した。その後、1327年、ルードヴィヒ4世がサンタブロージョ聖堂でイタリア王戴冠を受けるためミラノに寄った際、同皇帝から嫌疑をかけられたガレアッツオ一家は牢獄にいれられる。翌年解放されるが同年、ガレアッツオは死去した。その前に、皇帝はガレアッツオの長男アッツオーネ・ヴィスコンティに対し、12万5千フローリン金貨で皇帝代官称号を譲与した。

6.アッツオーネ・ヴイスコンティによる統治
●治世10年間をバランスよく乗り切る

イタリアはこの時期、大・中・小の「シニョーレ」が互いに争いあっている時代であった。ヨハネス22世教皇とルードヴィヒ4世皇帝間の「戦い」も継続し、その陰にはイタリア半島への影響力強化を狙うフランス国王の影もちらつき、さらには、ハインリッヒ7世全皇帝の息子、ボヘミア王の中世騎士道的なイタリア遠征という案件もからむ、複雑な政治環境の真中にあった。その中でアッツオーネは治世10年間、大波小波を政治的バランスをとりながら巧みな舵取りで乗り切り、「ロンバルディア」の統一という事業を事実上到達させた。

●法制面再編・整備し、シニョーレ制強化
アッツオーネは、オットーネが手掛けた制度の再規定・強化をはかった。まず「ミラノ市定款集」再編成させ、アッツオーネを「dominus gereralis et erpetus civitatis ed districtus Medialani」のタイトルでシニョーレに任命させた。これによりアツオーネに、行政執行権、司法権、政治交渉妥結権が託されることになり、シニョーレ側で法律修正などすべてが可能となった。足元を固めたところで、アヴィニオンのヨハネス22世との関係回復に積極的に動き、一方では、1330年、サヴォイア家のルドヴィコ・ディ・サヴォイア・ヴァウドの娘、カテリーナと結婚し、ピエモンテ地方でのポジションの強化を図った。

写真上Lアッゾーネ・ヴイスコンティ肖像の版画 (出典 Wikipedia)

●ミラノ、国家の首都としての中心性高める
そして、ミラノ勢力圏に以前から属していたローディやコモなどの都市群に加えて、短期間のうちに、ベルガモとノヴァーラ(1332年)クレモナ(1334年)、ピアチェンツア(1336年)ブレーシャ(1337年)などがアッツオーネをシニョーレとして認めることになる。こうしてミラノはこれまで以上に広大なテリトリーの中心となっていき、支配する都市の寄せ集めではなく、一つの国家の首都としての中心性を高めていく。

当時、ヴェローナのスカラ家マスティーノは絶頂期にあり、北イタリア東側を支配しておりミラノも、ヴェローナとの全面対決が避けられなくなった。ヴェローナ側は、ヴイスコンティ家傍系でアッツオーネと敵対し、1336年以来ヴェローナに亡命していたロドジリオ・ヴイスコンティを、反ヴイスコンティ戦線の矢面に置いて活用した。

●1339年の「パラビアーゴ」の戦い
1339年2月2日、ミラノの南西25キロのバラビアーゴ Parabiagoで決定的な戦いが繰り広げられた。ロドジリオは強力なドイツ人傭兵軍団を伴い、アッダ川を越えミラノ方面に向かった。ミラノ軍は当初は不利であったが、援軍にかけつけたサヴォイア家の騎馬軍の介入で逆転し、ミラノ側が勝利した。これによりミラノのヴェローナに対する優位性、ひいては北イタリアにおける中心的位置が決定的になり、すでに支配下においていたブレーシャをロンバルディア側に属させることが承認された。
その半年後、1339年8月16日、やつれ果てたアッツオーネはわずか37歳で夭折する。                                  

●都市美化や芸術事業を振興
アッツーネは有益な公共事業も好んだ。フェッラーラのエステ家出身の母親からは貴族的な立ち振る舞いや趣味を継いだおり、ヴイスコンティ家で初めて芸術や都市美観に対し具体的関与をした人物である。アッツオーネは橋を建設し、都市間の交通路を改良した。ミラノ市内の道路も石畳化され、古代ローマ時代の下水道と統合され下水道網も整備した。

現在のパラッツオ・レアーレ(王宮)や「ノヴェチェント美術館」などのあるエリアのすでにマッテオ・ヴイスコンティの時代に建てられていた館を、アッツオーネは壮大な宮殿に再建させた。宮殿にはライオンやダチョウなどの珍しい動物や様々な地域の鳥類などを集めた庭園を造らせた。1336年頃、宮殿裏手に設置させた「サン・ゴッタルド・イン・コルテ礼拝堂」脇にはクレモナの建築家フランチェスコ・ペコラーリ作との美しい八角形ゴシック式鐘楼がそびえている。宮殿内部の装飾には、美術史家ヴァザーリによれば当時最大の巨匠ジョットを招いたともいわれているが、具体的な印は残されていない。現在のVia Rastelli通りには、当時の宮殿の赤レンガを用いたゴシック様式尖頭アーチの二連窓が残されている。

写真上MVia Rastelli通りに残される、赤レンガを用いたゴシック様式尖頭アーチの二連窓

アッツオーネは、ピサ出身のジョヴァンニ・ディ・バルドウッチョ Giovanni di Balduccioも招き、ミラノで活躍していたカンピオーネ地方の工人と呼ばれる地方工房との興味深い出会いが記録されている。トスカーナの彫刻家バルドウッチョとロンバルディア彫刻の伝統との共同作業により、1339年にはサン・エウストルジョ聖堂所蔵の大理石の「殉教者ピエトロの記念碑的墓碑」という傑作が生まれた。

写真上Nジョヴァンニ・ヴァルドウッチョ作「サン・エウストルジョ聖堂の殉教者ピエトロの記念碑」
写真上O同記念碑の石棺を支える、カトリックの四つの枢要徳の一つ、「賢明」を表す女性像

また、バルバロッサの時代に建立した市壁や市門の全面補修・再建を行った際は、主要市門に、群像彫刻を収めた壁龕(へきがん)群をバルドウッチョと地元工人の協力により制作させた。聖母子と、象徴的にミラノの町を聖母子に捧げる聖アンブロージョと天使や聖人たちをあらわす群像彫刻は、現在もポルタ・ティチネーゼ門等に当時の姿が残されているが、オリジナル群像彫刻はスフォルツエスコ城博物館に所蔵され、これらの門には複製が設置されている。

写真上左Pポルタ・ティチネーゼ門  
写真上右Q同門の群像彫刻を収めた壁龕(へきがん)群 (オリジナルはスフォルツエスコ城博物館所蔵)

1339年にアッツオーネが死去すると、サン・ゴッタルド・イン・コルテ礼拝堂に、アッツオーネの記念墓碑がバルドウッチョにより制作された。アッツオーネは、支配下においた10都市の守護聖人に囲まれて休んでいる。

写真上Rサン・ゴッタルド・イン・コルテ礼拝堂内のアッゾーネ・ヴイスコンティ記念墓碑(ジョヴァンニ・バルドウッチョ作) 写真上Sサン・ゴッタルド・イン・コルテ教会隣接のゴシック式鐘楼 (フランチェスコ・ペコラーリ作)

都市建築物への誇りはミラノへの誇りとつながった。商業も製造業も栄え、発展した。「パラビアーゴ」の戦いでは、伝説ではアッツオーネ軍を勇気づけるため、サンタンブロージョの姿も出現したとされ、それゆえ人民からの人望も高かった。アッツオーネが亡くなった際、民衆は優れた「シニョーレ」でミラノの誇りを高めたアツオーネの死を悼んだ。

7.ルッキーノとジョヴァンニの統治
●「プステッラの謀反」発覚で有力貴族を徹底弾圧

アッツオーネは相続人なしで逝去したため、アッツオーネの叔父で、マッテオの子供であるルキーノとジョヴァンニ兄弟にシニョーレのタイトルが授けられた。アッツオーネ逝去の直前に当時の大司教が死去しその後任にノヴァーラの司教であったジョヴァンニ・ヴイスコンティが就いたため、実際のところはルキーノがシニョーレとなりジョヴァンニはミラノ大司教として役割に専念するという役割分担が行われた。

ルキーノは人格が残酷とされミラノ人から共感を得ることはできなかったが、厳しい規律と司法の公正さを追求するとともに、治安の安定をはかった。すでに政治的影響力を心配する必要のなくなっていたポポロ層を支援し職人も商店主も安心して仕事に専念できる体制をすすめた。その一つは「市民軍」の廃止であり、市門や教区ごとの兵隊組織は、非常時の際に限定して残されたが、軍隊組織は、シニョーレが雇う傭兵によるものだけとなる。これにより市民は店や畑を放棄して出兵する必要がなくなった。

一方で、ルキーノの厳格な方針に反目する貴族社会に対してルッキーノは締め付けを強化したため、1341年、有力貴族プステッラら貴族の一部が謀反を企てたが実現前に発覚し、関係者は徹底的な弾圧を受けた。この「プステッラの謀反」が、ヴイスコンティ家シニョーリアに対抗するミラノ貴族社会の最後の抵抗となった。
内政統治を固めたルキーノは積極的な外交政策をとりはじめた。まずは、最大課題である教皇との和平に成功し、1341年には長年の「聖務停止」を取り下げさせ、ペンディングになっていたミラノ大司教ジョヴァンニの正式批准も獲得した。
領土拡張政策も極めて強硬であり、南側、トスカーナ方面にターゲットを向け、反フィレンツエ政策をすすめた。一方、西側ピエモンテ地域に対しては、トルトーナ、アレッサンドリア、ブラ、アルバ、モンドヴィなどを占領し、1348年にはクネオも征服した。さらに驚くべき進撃でプロヴァンス地域にまで侵入したため、アヴィニオンの教皇庁を心配させた。
西側への浸透はジェノヴァ方向にも向けられ、ガーヴィなど占有し、イタリアの17都市を支配下にしたところで1349年1月21日に死去した。イタリア各都市はミラノのヴイスコンティ家パワーに警戒を強めた。

●大司教ジョヴァンニ・ヴイスコンティの「和平」政策
ルキーノの死後、大司教ジョヴァンニがミラノのシニョーレとなった。ルキーノによりミラノから追放されていた甥のガレアッツオ、ベルナボ兄弟をミラノによび、将来の後継者として育てた。 外交政策では「和平」をモットーとし、西でも東でも各地で続いていた戦争の終結を働きかけた。まずはロンバルディアの和平をめざし、その一環の婚姻政策として1350年には、ガレアッツオはサヴォイア家のビアンカ・ディ・マリアと結婚させ西側を固め、ほぼ同時期に、ベルナボは、スカラ家のマスティーノ2世の娘、ベアトリーチェ・レジナ・ディ・スカラとの結婚をまとめあげ、東側の安定をはかった。

写真上(21)ジョヴァンニ・ヴイスコンティ肖像の版画(出典 Wikipedia)

●ボローニャやジェノヴァも統治下に
トスカーナ方面への侵入は継続し、教皇の勢力地域であるボローニャ地域に進入しフィレンツエの勢力地域も威嚇し、アペニーニのトスカーナ・エミリア地域にも到達した。1350年にはボローニャの支配権も獲得した。ボローニャはトスカーナへと続く扉であり、フィレンツエをおびやかす中心拠点となった。
1252年にローマ教皇に就任したインノケンティウス6世の怒りは大変なもので、中部イタリアは自らの支配下と考えている教皇は、ジョヴァンニがボローニャでとどまることはなく、教皇国家自体が危険に陥ることを予見し、ジョヴァンニに聖務停止、破門と責めこんできた。しかし、ジョヴァンニはこの種の問題を政治的にさばく術を心得ていた。教皇特使がやってくるとうまくあしらい、次にクレメンテス6世がアヴィニオン出頭を命じると、即座に、アヴィニオン滞在の準備として、12000名の騎士と6000名の歩兵用にアヴィニオン中の全宿舎を予約させ、その食糧確保をさせたため、アヴィニオンでは食糧危機となり大さわぎとなった。あわてたアヴィニオン側はミラノから動くなという依頼が届いた。

結局、1353年3月31日、リグーリアとトスカーナの境界にあるサルツアーラSarzaraの大聖堂で、ミラノはアペニーニ山脈の南側領土は決して占有しない、一方、フィレンツエはボローニャおよびロンバルディアへの侵入は行わないという条件で、ミラノとフィレンツエの間の和平が妥結した。これが「サルツアーラの和約」である。
ジョヴァンニはトスカーナへの侵入はかなわなかったが、ジェノヴァの併合に成功した。ジェノヴァは1353年8月末、サルデーニャの自領アルゲーロ沖の海戦でヴェネツイアとアラゴン連合軍により壊滅的敗北を喫すると、同年10月にミラノに保護を求め、ジェノヴァの終身シニョーレをヴィスコンティ大司教に与えたのである。これは、ヴイスコンティの圧力がトスカーナに入り込みピサやルッカに影響を与えるとして、サルツアーラの和平に反するとフィレンツエに大きな懸念を与えた。

1354年10月5日、権力の頂点にあったジョヴァンニが死去。ミラノの領土とその統治は、二人の甥、ガレアッツオ2世とベルナボが相続した。ジョヴァンニは、ヴィスコンティ一族の創立者オットーネの赤大理石記念墓碑の中に一緒の埋葬を望み実現された。
このようにミラノの支配領域は、西はピエモンテ地方に深く広がり、東はボローニャの統治権を取得してロマーニャに進出、そして南ではジェノヴァ共和国の統治権も手中にしていた。

8.ペトラルカのミラノ滞在
ジョヴァンニ・ヴイスコンティは、中世イタリア最大の詩人・学者・人文主義者として知られるフランチェスコ・ペトラルカをミラノに客として招き、ペトラルカは1353年から1361年にわたりミラノに8年間滞在する。

ペトラルカは1304年トスカーナのアレッツオで誕生。ペトラルカの父ペトラッコはダンテとも政治的に繋がりのある人物で、グェルフィ党(教皇党)白派に属したが、黒派との政争に敗れ、フィレンツェを追放された亡命者であった。一家は1309年にアヴィニョンに居を移した。

ペトラルカ、ミラノ滞在中の住まい


1353年ミラノに移ったペトラルカは、聖アンブロージョ聖堂そばの静かな住居をあたえられる。それでも町中すぎるということで、1359年には市壁外にあるサン・シンプリチャーノ修道院そばの家に移る。

写真上左(22)サンタンブロージョ聖堂   写真上右(23)同聖堂前の建物にある「ここにペトラルカが住んだ」ことを伝える「プレート」

また、夏には、ミラノ西4キロの「ガレニャーノ僧院 Certosa di Garegnano」そばの山荘にも好んで滞在した。この僧院は1349年にジョヴァンニ大司教が創立したものである。  

写真上左(24)「ガレニャーノの僧院 Certosa di Garegnano」のファサード 
写真上右(25)同僧院ファサードの「ジョヴァンニ・ヴイスコンティ胸像」

●フィレンツエの友人から驚きと困惑
1353年6月下旬からのペトラルカのミラノ居住は、多くの人を驚かせ、中でもフィレンツエの友人たちの驚きと困惑は大きかった。特に、ペトラルカを師と仰ぐジョヴァンニ・ボッカッチョのショックは大きく、ペトラルカを非難せざるをえなかった。彼はトスカーナへのペトラルカ招聘運動の中心人物であっただけでなく、フィレンツエ共和国の公務にも熱心にたずさわり、外交使節としての活動はミラノの膨張政策に対抗するものであったためだ。

確かに、1353年3月の「サルザーラの和」は成立していたが、フィレンツエはミラノに対して警戒を怠ることができなかった。ボッカッチョは「こともあろうがフィレンツエ出身のペトラルカが母国フィレンツエの宿敵のもとに走るとは」とペトラルカの行動を強く批判する手紙を出している。ペトラルカとボッカッチョの友情が危機に陥ることになる。
一方で、ペトラルカの側としては、母国イタリアへの愛着とアヴィニン嫌悪からイタリア帰国の決意は固かった。ペトラルカにとって居住地選択の基準は、閉暇と自由のうちに研究・著作活動に専念できるかが重要であり、そのためには、政治的安定と平和が必要であった。そんなペトラルカに対し、ジョヴァンニ大司教は孤独生活を保障し厚遇し、時には当時ヨーロッパ中でい文化的権威を得ていたペトラルカを政治的にも活用する才覚と裁量を備えていたことは確かなようだ。   

写真上(26)アンドレア・デル・カスターニョ作「フランチェスコ・ペトラルカ」1450年、フィレンツエ・ウッフィツイ美術館所蔵(出典 Wikipedia)

●ペトラルカとボッカッチョとの交流
ペトラルカはミラノに居を構えると、フィレンツエの友人たちを安心させるために、1353年6月、ボッカッチョにではなく、共通の友人宛てにミラノ選択の理由について次のような手紙を送っている。

「わたしはかって教皇たちやフランス王やシチリア王の招きは固辞してきたのに、イタリア人たちのうちでもっとも偉大なこの人物の懇望には抗しきれなかったのです。かれの思いがけない突然の懇願にびっくりし、その人間としての威厳にうたれました。人間のもくろみのはかなさよ。かれの熱意に負けて、友人たちのためにもできないと思っていたことに同意し、われとわが首を慣れぬ桎梏にゆだねたのです。自由と閑暇の名はかくも貴重で、わたしをとりこにしようと決めた者はだれでも、快楽でも富でも栄誉でもなく、ただこの二つだけをいわば好餌としてその罠につけるべきでしょう。わたしがこの二つをどれほど熱望しているかは周知のことですが、かの人の統治下にあっては二つとも約束されているのです・・」(雜纂書簡集7) (出典:「ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡 近藤恒一編訳 岩波文庫」より抜粋)

ペトラルカとボッカッチョはその後和解し、頻繁な文通を交わすが、久しぶりの再会は、聖アンブロージョ聖堂そばの住居に、1359年3月にボッカッチョがミラノを訪れての3週間の滞在となる。その後で、ボッカッチョに充てたペトラルカの手紙には、下記のような部分がある。
「わたしたちが昨年、このまちで、拙宅で一緒に過ごしたとき、おおいに論じ合いました。・・・最後には、つぎのような合意に達しました。すなわち、イタリアとヨーロッパの状況が現状のままであるなら、ミラノほど安全でわたくしの仕事に適した場所はほかにないばかりか、わたしの居住に打ってつけの場所はミラノ以外どこにもないと」 (出典同上)

●ヴイスコンティ家の外政を支援
ペトラルカのミラノ移住の翌年、1354年10月5日、ジョヴァンニ大司教が亡くなる。葬儀でペトラルカは大司教の遺徳をたたえる「告別の辞」を行い、甥たちが新たに「シニョーレ」につくことを宣言する挨拶もしている。
ジョヴァンニの後は、あとを継いた甥たちが支配領域を分割して統治にあたったが、彼ら兄弟も、叔父の約束をまもってペトラルカの自由と閑暇を尊重した。同時に、当代最高の文化的権威で雄弁家を政治的に利用しないはずがない。外政面で難局に合うと、ペトラルカの力を借りた。もともと、ペトラルカは祖国イタリアの現状を深く憂慮し、ミラノ移住の前にも、諸都市や諸侯に、あるいは神聖ローマ皇帝に平和回復の努力を訴えていた。ペトラルカは、ミラノ当主たちから懇願されると外交使節や政治的書簡の作成もひきうける。1354年にはヴェネツイア共和国への外交使節、56年、神聖ローマ帝国皇帝カール4世とミラノの関係が悪くなった際は、プラハまで足をのばしている。61年にはフランス王への使節も引き受けている。

なお、ペトラルカのいた頃のミラノは、1348年におけるイタリアのペスト大流行による被害は比較的軽微だったが、60年秋、ペストがふたたびミラノをおびやかしはじめた。61年春には、次第に勢力を増し夏には猛威を振るいはじめる。ヴイスコンティ家の当主たちはミラノを去り、領内の城に避難。ペトラルカもミラノを去りパドヴァに移る。ヴイスコンティ家との親交はその後も長く続いた。

9.ミラノ商業の発展・繁栄
●大商人の活躍を進めたヴィスコンティの政策

ミラノは、ヴィスコンティ家が政治舞台の主役に台頭する以前から、消費、生産ともに最大級の重要性を持つ中心地であった。ミラノは神聖ローマ皇帝との戦いにおいてもロンバルディアにおける覇権を確立しており、政治だけでなく、製造業、商業の中心として発達してきた。1200年代後半は、大商人側と、頭角を表してきた職人・商店主層など「ポポロ」側との対立は非常に明確となり、当初はポポロ側が優勢であり、まさにこれを基盤にトッレ家は自らの権力基盤を築いた。

その構造は、1277年、オットーネによる新しい政治フェーズの開始により、大商人勢力の成長を支える経済政策に変容した。それにより大商人は企業家精神を加速させ、ミラノ経済を牽引する主役として活躍していく。実際、ヴイスコンティ家は、テリトリ―の発展、軍事面での拡大戦略によりロンバルディアの統一を果たしすことで、その経済、製造業、商業の発展にも多大な恩恵をもたらし、その財力を背景にミラノはさらに領土拡張をはかり、歴史上最も繁栄した時代を築くことになる。

●ポポロ層のニーズにも一定の理解
一方で、オットーネはミラノの「ポポロ層」のニーズにも理解を示し対応した。職人・商店主層の政治的参加は厳格に禁止し、政策決定から排除したが、「ポポロ層」の一定の利益も保護し、「和平の保証人」として「スーパ・パルテ(偏らない、公平な)」立場を維持したのも事実である。

●ミラノの商人、国際商業ネットワークの主役に
経済的・政治的に重要な大商人たちの組織「Universita’ Mercanti」を、ヴスコンティ家は優遇し、利益を保護するための施策を進めた。たとえば、13世紀末にヴィスコンティ家が「サン・ゴッタルド」や「ルコマーニョ」等の新しいアルプス超え峠の整備に貢献したことで、ミラノ大商人は、「ライン地方」やフランドル地方につながる交易ルートを意欲的に開発し、新たな国際商業ネットワークの中心拠点の一つとしてミラノを位置付けるよう再編成した。一方、「Via Francigena」をベースとする古くからの「シャンパーニュ市」に依存していたパヴィアやピアチェンツアなどの商人は、同市衰退とともにミラノの戦闘的な商人勢の前に総崩れとなった。

交易の活発化にともないミラノでは銀行家の活躍が顕著となっていった。メルカンティ広場のレジョーネ館には「ビジネスマン」が集まり、銀行家が拠点を持った。銀行家はヴィスコンティの行政にとって最も重要な機関となり多くの利益を得ていた。シニョーリアの財務は特定の銀行に委嘱されており、シニョーリア政府の歳入・歳出をすべて記帳管理し、報告し、緊急な軍事費など必要な場合は銀行が前払いも行った。

●ジェノヴァとの関係を軸に北ヨーロッパとの交易拡大
ミラノは長年にわたり、ヴェネツイアとの交易関係を重視してきてが、戦争でヴェネツイアとの関係が悪化すると、その代わりにジェノヴァに接近した。ジェノヴァは1277年以来、ロンドン、ブルージュなど北ヨーロッパ都市と結ぶ巨大ガレイ船大西洋ルートの定期運航を開始し、イタリア、フランドル、英国間の交易量を飛躍的に高めていたためだ。1300年代初頭からミラノ大商人はこのルートを用いて巨大な資金でロンドンの羊毛中心に各商品を買い付けるなど海洋交易に参加した。同時にジェノヴァはミラノの製造業商品を輸出する主要販路となった。こうしてミラノとジェノヴァの間に産業軸も形成され、ジェノヴァは急速にミラノの輸出・輸入の重要な扉口の一つとなっていった。したがって、ヴイスコンティ家が1300年代の拡大政策のターゲットにジェノヴァを置いたことは決して偶然ではない。

このように、新たなアルプス越え陸路ルートの発展、ジェノヴァを基点とした太西洋ルート、そして従来からのミラノとヴェネツイアを結ぶパダーナ平原内陸ルートも継続して発展し、ミラノの商業の黄金の時代を迎えていた。

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ヴィスコンティ家が、多くの他都市を支配下におく領域国家として確立していくこの時期は、党派の対立、四辺の外敵との戦争、和平、戦争にあけくれた時代というイメージが強い。一方で、この時期をミラノで生きた『ミラノの魅力』著者ボンヴェジンや、その60年後にヴィスコンティ客人としてミラノに8年間滞在したペトラルカからは、むしろ「ミラノの平和」に対する称賛が伝わってきて、そのギャップに戸惑いを感じてしまう。この時代、「平和」とはどのような意味を持っていたのだろうか。

1277年オットーネ大司教がミラノに入城した際も、14世紀半ばにジョヴァンニ大司教がミラノのシニョーレとなった際も、そのモットーは「平和」であった。事実、「平和」の名のもとに、ミラノ内部では、対立勢力や、不和な有力貴族をすべて追放弾圧し、対外的にも、敵対勢力を征服統治する形で、「平和」を乱す要素を排除していった。

同時にコムーネ時代のキーワード「自由」は過去のものとなっていった。
こうした変化の背景には、活力あるコムーネ社会の基本要素であった社会階層間の流動性が13世紀後半以降硬直化していったことがあげられている。大半の製造業職種において「マエストロ」のステータスに昇格するには大きな制限が設けられ、実質的には「世襲制」で外部や新来者は参入できなくなった。商業においても、新たな参入は難しくなっていった。一方で、農村部から大量の農民が市内に流入し人口の拡大がみられ、安い労働源となった。大量の民衆にとって公共の活動に参加することは、その日の仕事や収入を失うことになり、実質的にはむずかしくなり、市民集会で物事の決定に関与するよりは、安心して毎日の仕事ができること、秩序と規律を保障してくれるリーダーがいることの方に関心が移り民衆はそれに従う体制になっていった。
また1300年代は、気候不全、大飢餓もあり、食糧の一定コストの供給が多くの民衆にとっては最大課題となっていたようだ。「シニョーレ」が庶民層の支援を受けたのも、これらシニョーレが非常時でも最低の生活と秩序を保障してくれたからなのだろう。

こうして、「自由」よりも「平和」と「秩序」を保障するヴイスコンティ家の政策が上首尾に進んでいったといえよう。それはミラノ内だけでなく、ヴィスコンティ支配下に入ることで「平和」の保障される多くの都市にとっても同じであった。「自由」と「平和」、何世紀もたった現在も、現代性のある課題をヴイスコンティ家は投げかけていたといえよう。  


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■スフォルツェスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00-17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■ミラノ大聖堂  Duomo di Milano
所在地: Via Palestro 16
開館時間:9:00-17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
http://www.gam-milano.com/it/home/

■サン・ゴッタルド・イン・コルテ教会 Chiesa di San Gottardo in Corte
所在地:Via Pecorari
同教会の見学は、「ドウオーモ博物館Il Museo del Duomo」見学コース内に組み込まれているため、ドウオーモ博物館(パラッツオ・レアーレ内 Piazza del Duomo 12)への入館が必要。
開館時間:10.00 - 18.00 
https://www.duomomilano.it/it/infopage/museo-del-duomo-di-milano/5/ 

■ラジョーネ宮  Palazzo della Ragione
所在地:Piazza Mercanti
(現在修復工事中)

■聖アンブロージョ聖堂  Basilica di Sant’Ambrogio
所在地:Piazza S.Ambrogio
開館時間:7:30-12:30 14:30-19:00
http://www.basilicasantambrogio.it/ 

■聖シンプリチャーノ教会  Chiesa di San Simpliciano
所在地:P.zza S. Simpliciano, 7
開館時間:7:00−12:00、15:00−19:00
http://www.sansimpliciano.it/ 

■ガレニャーノ僧院 Certosa di Garegnano   
Parrocchia Santa Maria Assunta in Certosa
所在地:Via Garegnano 28
開館時間:8.00 - 17.30
Tel: 02.38006301
E-mail: certosamilano@gmail.com 
https://www.certosadimilano.com 

■アンジェラ城 Rocca di Angera
所在地:Via Rocca Castello, 2 - 21021 Angera (VA)
電話: 0323 933478
開館時間:10.00 - 17.30 (2020年11月1日まで)
入館料:10ユーロ
Tel: 02.38006301
https://www.isoleborromee.it/rocca-di-angera/ 

注:上記の開館時間・入館料金などは変更になる場合があります。訪問にあたっては事前にご確認ください。




知ってほしい「ミラノの歴史」
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