19 April 2001
第3回 ポルトフェッライオの"ナポレオンの別邸"国立博物館 (エルバ島 〜トスカーナ州)
Musei Nazionali delle Residenze Napoleoniche di Portoferraio (Isola d'Elba 〜Toscana)
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デミドフ・ギャラリーの内部
イタリア文化財省 編集協力記事
Con la collaborazione del Ministero per i Beni Culturali e le Attivita' Culturali

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ポルトフェッライオPortoferraioのナポレオンの別邸・国立博物館は、ナポレオン・ボナパルトNapoleon Bonaparteが、退位およびフォンテーヌブロー条約に続いて、1814年5月3日から1815年2月26日にかけてエルバ島に亡命を余儀なくされた際の短い滞在を記念する、彼の2つの別邸を見学者に公開するために設立された。
一方では、歴史家や小説家の関心をたえず呼んでいることからもわかるように、現在なお相反する感情(賞賛と軽蔑、尊敬と恐怖といった)を人々の間に喚起することのできる歴史的人物から発する紛れもない魅力があくまでも存在しているということ、他方では、エルバ島を久しく国の観光事業の第一線におこうとする状況があり、この2つの要素はときに難しいバランスをとりながら共存し、その結果ポルトフェッライオの2つの美術館はトスカーナで、ひいては全国で最も観光客のよく訪れる場所のひとつとなっている。
こうした種類の美術館――そこで留められ保存されるべきものは、「物理的に」はっきり目にすることのできる美術品というよりは、ある触知できない形而上的雰囲気である――にはよくあることだが、そのような雰囲気の器としての性格を自然な形で常に快く保ち、かつ時代に合わせたものにするために、今も絶えまない修理・修復活動がなされている。
16世紀の都市構造をもつ市街を見下ろすたかだいにあるパラッツィ−ナ・デイ・ムリーニPalazzina dei Mulini(風車の館)の名で知られる邸宅について言えば、博物館としての歴史は最終的に国の管理下(教育省および記念建造物保護局)に入った1928年に始まる。
海からの都市への出入りを監視できる戦略的な立地と、ステッラ城塞Forte Stellaの駐屯隊と隣接しているとの理由から、ボナパルトによって主要な邸宅として建てられたこの家は、ナポレオン自らの積極的な監視のもとで数回にわたる増築や改築を経た。彼は、その質素な建築を、亡命中の宮廷として、住みかつ人を迎える上での新たな必要に沿ったものにすることを忘れなかった。こうして、建物の中心の2階に宴会用の大広間が作られ、厩舎と小劇場を含む一翼の改築や妹パオリーナPaolinaのための小さな住居の一角の整備がなされたほか、ピエモンテ出身のアントニオ・ヴィチェンツォ・レヴェッリAntonio Vincenzo Revelliに委嘱された建物全体の内装は、その場にふさわしく抑えた調子で仕上げられた。
現在、このムリーニ館で目を引くのは、ナポレオンの個人図書室である。ナポレオン出発後、時とともに欠落したとはいえ、今もなお人文学のみならず技術や科学に及ぶ彼の百科全書的な教養の複雑さと近代性を見る者に示している。
「啓蒙主義時代の落とし子」ともいえるナポレオンは、その書物の選択にあたって知識に境界線を引くことはなく、知識とは、彼の場合、「天才」軍人としての技術的能力を高めるための支えであり、かつ鋭く深い感性――もはや完全にロマン主義的な――を磨く力でもあった。
さらに現存する遺品の中で特に注目に値するのは、パオリーナ・ボナパルトの貴重な儀式用マントで、緑のビロードに金の刺繍をほどこした優雅なものである。
第2の家は、市街から7キロの距離にある緑陰の心地よいサン・マルティーノ地区località di San Martinoにある。これは、ある地元の名士のの所有地だった農園をパオリーナへの贈り物として購入したことに始まり、ナポレオンは適当な改修を行った後にそれを夏の別荘として利用する予定だった。おそらくナポレオンはそこに貴重な平安のひとときを夢見ており、その頃にはまだ、愛着が芽生えていた土地で平穏かつ愛情の通った生活を送るというはかない希望は、やがて相次いで起こる事件や最終的な運命に追い立てられて消え去ってはいなかった。
そのごく短い期間に、改築のためのさまざまな案がまとめられたほかは、ここでもレヴェッリの手で壁面装飾は目を引く。それというのも、まさしくボナパルトによる「軍事=文化的」エジプト遠征(1798−1799)のおかげでヨーロッパ中に広まったエジプト趣味の繊細かつ歴史的な好例がこの場で目の当たりにできるからである。さらに重要なのは、その後この土地を相続したアナトリオ・デミドフAnatolio Demidoff伯爵(1840年にジェロラモGerolamo・ボナパルトの娘マティルデMatildeと結婚している)による増改築である。1859年には、その名を冠した新古典主義様式のギャラリーが竣工された。フィレンツェの建築家ニッコロー・マタスNiccolò Matas――フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂のネオ・ルネサンス様式のファサードを設計した重要な建築家である――の設計によるそのギャラリーは、現在、その壮大かつ厳格な「外階段」とともに、見学コースの中でも最も興味深い場所となっており、宿命ともいえるが年間を通じてナポレオン関係の常設展示会場となっている。
サン・マルティーノの別荘に保管されているものの中でも特筆すべきは、ナポレオンとエルバ島を主題とした2つの重要な版画コレクション――オルシュキOlschkiおよびトゥリーニ‐デ・ミケーリTurini-De Micheli のコレクション――である。あわせて約400枚に及ぶそれらの版画は、美術的にも興味深いとはいえ、その資料的価値においていっそう関心を引く図画集(ナポレオンやその家族の肖像、歴史的・軍事的その他のエピソードを描いたもの、エルバ島の景観図や地図など)となっている。資料的価値という意味では、風刺画やカリカチュアの性格を持つ作例が挙げられていることは間違いない。これらの版画は、ときに激しいほどに冒涜的なまなざしを通して、伝統的な礼賛の図像に代わる見方を伝えてくれる。
もうひとつ、サン・マルティーノにある(もっともムリーニの館の庭の噴水にもその複製がある)興味深い作品は、久しくカノーヴァCanova作と伝えられていた“ガラテアGalatea”の大理石像である。民間伝承によればこの像はパオリーナに似せて作られたとされ、このポッサーニョPossagnoの彫刻家(カノーヴァ)のきわめて名高い“皇帝のヴィーナスVenere imperiale”の起源に回帰するものとも言われている。
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翻訳:小林 もり子 東京都出身。東京芸術大学大学院修士課程修了(イタリア・ルネサンス美術史)。 1992年よりイタリア在住。 共訳書:「ボッティチェッリ」(西村書店) |
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