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20 November 2001


第10回
ヴィート・カピアルビ考古学博物館

(カラーブリア州 − ヴィーボ・ヴァレンツィア)

Museo Archeologico Vito Capialbi
(Calabria - Vibo Valentia)




コリント−カルキス型のブロンズ製兜(スクリンビアScrimbia地区の奉納物の堆積より出土−前6世紀末)


イタリア文化財省 編集協力記事
Con la collaborazione del Ministero per i Beni Culturali e le Attività Culturali


ヴィーボ・ヴァレンツィアVibo Valentia(カラーブリア州)の考古学博物館は、ヴィーボ・ヴァレンツィア・ライオンズ・クラブの後援により1969年に創設された。19世紀の高名な学者ヴィート・カピアルビVito Capialbiの名が冠せられている。ヴィーボの文学者で著名な考古学者であった彼は、きわめて豊富な古代コレクションを収集した最初の人であった。近年、博物館はノルマンノ・ズヴェーヴォ城Castello Normanno-Svevoに移転した。

城の歴史
1070年にノルマン人ルッジェーロRuggero il Normannoは、ヴィーボ・ヴァレンツィアの丘の上の、領土を見渡すことのできる戦略的に有利な場所に塔をつくらせた。これに他の構造的要素を付け加え、築城をさらに推し進めて現在の城の形に整えたのは、ノルマン人に続いたフリードリヒ2世FedericoIIをはじめとするホーエンシュタウフェン家の人々であった。13世紀末、アンジュー家による支配の時代に、城の北側に大きな門をそなえた三角の控え壁が設けられ、防御設備が強化された。おそらくこの時代に、城の中庭に井戸と聖ミカエルに捧げられた教会――今もその後陣の遺構を見ることができる――がつくられたものと思われる。その後、16世紀のアラゴン王家の時代とピニャテッリPignatelliの支配下においてさらなる改築がなされた。貴族のピニャテッリ家の紋章が中央の門に今でも残っている。1783年の地震で城がほとんど全壊したために、ピニャテッリ一族は城を放棄せざるをえなかった。やっと1858年に、ブルボン王家によって多少の修復がなされ、牢獄として使用された。1860年、民衆の暴動の折にさらに損傷を受け、ついに放置されるにいたった。

展示
本博物館の陳列用ガラスケースは、この種の陳列ケースのもつ問題を考慮したうえで考案された。支え用の骨組みがなく、前面がガラスなので非常に見やすい。部屋の中央の上部を切り取った角錐形の陳列ケースは底面が広いため陳列のスペースを多く取ることができるのに加えて、照明は幅の狭い上の限定された面からなされているため、全体にすっきりとした印象を与える(なお、壁際の陳列ケースはそれをアレンジしたものである)。ケース内の棚はほとんどがガラスではなく明るい色で着色された木製の四角い台に置き換えられている。その色の選択や陳列品の並べ方は、それぞれの品に自然な感じをいくらか与えつつ、発見されたときの様子を再現するという基準に従っている。一つ一つの台に集められているのは、分類上もしくは年代上の特徴を同じくする出土品である。こうして、聖域に関する展示では、同じ陳列ケースの中にさまざまな素材の集積や、素材の異なるさまざまな品の雑多な山が再現されているが、これは多数の奉納物(陶器、ブロンズ製品、小彫像など)を地面に掘った穴の中に積み重ねるギリシアの風習を表したものである。

ギリシア都市(ヒッポニオン)
現在のヴィーボ・ヴァレンツィアをかつての都市ヒッポニオンHipponionと同定したのは、考古学者のパオロ・オルシPaolo Orsiである。彼は1916年に行われた一連の調査を通じて、ギリシアの植民都市の位置を確認することに成功した。ヒッポニオンが紀元前7世紀末にロクリLocriによって建設されたことは、古代の典拠(トゥキディデス、偽スキュムノス、ストラボン)からも、西のネクロポリス(墳墓遺跡)やいくつかの聖域の発掘からも確認される。考古学資料によれば、紀元前6世紀末から5世紀いっぱいにかけては、同都市のもっとも大きな発展の時期だったらしく、ロクリの別の植民都市であったメドマMedmaとともに、前422年には母国のロクリに対して戦争を仕掛けたほどであった。ヒッポニオンの繁栄と、その手工芸品だけでなく宗教および経済生活に及ぶロクリの影響は、展示品の多くによって裏付けられている。地元で作られた数々の小彫像、仮面、建築用テラコッタ(建築の装飾部分)は、分類上ロクリのものとよく似ている。多数出土しているピナケス(奉納用レリーフ陶板)も、ロクリで一般的だったもっとも有名なタイプを採用しており、同植民都市にもコレー=ペルセポネ信仰が存在したことを明らかにしている。この神への信仰との密接な宗教=文化的関係から、ヒッポニオンでも間違いなく流布していたオルフェウス信仰との結びつきが示唆される。そのことは、西のネクロポリスで発掘された第19墓の小銘板によっても裏付けられる。この金の銘板は、カラーブリア地方で発見されたものの中で最も完全な文をそなえ、最も古く、かつ確実な発掘を通して発見され科学的な方法で調査された唯一のものである。ロクリとの文化的共通性と並んで、ヒッポニオンの手工芸品には当時流行していた主題や構図を独自に解釈したものもしばしば見られる。

紀元前388年に、シラクーサSiracusaの僭主ディオニシウス(父)Dionisio il Vecchioは、ヒッポニオンを倒し、その住民をシラクーサに護送した後、領土をロクリに引き渡した。ディオドロスによれば、前379-378年にカルタゴ人が都市を再建し、そのおかげで亡命者たちは母国に戻ることが容易になったという。このときのヒッポニオンの破壊については考古学資料による裏付けはないが、古代の典拠によれば前356年にあったとされるブレッティBretti族による同都市の征服については、記録にもはっきりと表れている。この都市にブレッティの要素が広く存在したことは、ブレッティ人が鋳造した貨幣からなる豊かな財宝の出土や、構造的な細部や調度品の特徴のいずれにおいても、明らかにブレッティ族起源の墓室が西のネクロポリスで発掘されたことからも明らかである。 モロッス人アレクサンドロスAlessandro il MolossoとアガトクレスAgatocleがヒッポニオンをブレッティ族から解放した短い二つの期間を除けば、都市を奪回したブレッティ人はローマ人が来るまで同地を支配し続けた。

植民都市の住居、公共施設および道路は発掘されておらず、4つの聖域、西のネクロポリス(前7世紀末−3世紀)と市壁の一部(前6−3世紀)のほかは、ヒッポニオンの都市機構についてはあまりわかっていない。

古代ローマ都市(ヴァレンツィア)
古代ローマの植民都市ヴァレンツィアが建設されたのは紀元前194年であったことが今では一般に認められている。89年より同都市は自治都市となり、四者による統治がなされた。ローマ人による植民都市建設は必ずしも平和的なものではなく、古くからの住民を物理的に排除したことが推測される。こうした考えは、西ネクロポリスから発掘された墓室が前2世紀に共同の墓穴として再利用されたことに基づいている。ローマ植民市の建設当初、経済的な困難が伴ったらしいことは、造幣の研究から推定される――そこには、都市が当面必要としていた建設費用や軍事資金などの大きな負担に見合うだけの経済的基盤が不足していた。ブルツィオBruzio地方を通ってローマとシチリアを結ぶアンニア・ポピリアAnnia Popilia街道の建設が、自治都市の発展に大いに拍車をかけた。この重要な幹線道路がヴァレンツィアを通っていたことは、市の近くのサントノーフリオS.Onofrioから出土したマイル標石によって裏付けられる。ヴァレンツィアは、内戦の際に対ポンペイウスPompeo戦で、メッシーナ海峡上の作戦の基地として、その港を提供したことでユリウス・カエサルCesareとオクタウィアヌスOttavianoの保護を得、重要な役割を演じるようになった。もちろん、この時期にはその直後の世紀を特徴づける壮大な事業はまだ遠いものに思われた。実際、まだ十分に調査のなされていない円形劇場や、サンタロエS.Aloe地区で発見された豪華な邸宅――その多くに多色モザイクの床をもつ部屋があり、そのうちのひとつには浴場の施設すら見られる――は、帝国時代にさかのぼるものである。



MUSEO ARCHEOLOGICO "VITO CAPIALBI" (ヴィート・カピアルビ考古学博物館)

住所:Castello Normanno-Svevo, Viale Accademie Vibonesi, Vibo Valentia
電話&Fax:(国番号39) 0963-43350
開館時間:9:00〜19:00
休館日:1月1日、5月1日、12月25日
入館料:4000リラ
その他のサービス:見学ガイド、ブックショップ (問い合わせおよび電話予約):0965-810381



 翻訳:小林 もり子
 東京都出身。東京芸術大学大学院修士課程修了(イタリア・ルネサンス美術史)。
 1992年よりイタリア在住。 共訳書:「ボッティチェッリ」(西村書店)


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