●マリブラン劇場 Teatro Malibran
Cannaregio 5870
1678年グリマルディ家の3番目の劇場としてオープンしたのがテアトロ・ディ・サン・ジョヴァンニ・グリソストモで、それが後にマリブラン劇場と呼ばれるようになる。グリマルディ家のお抱えだった建築家、技師、画家であったトマーゾ・ベッツィが新しい劇場の建設にサインした。そしてカルロ・パラヴィチーノの音楽で開場した。ヘンデルの「アグリピーナ」やスカルラッティの作品などが上演されたが、1819年グリマルディ家はこの劇場をルイージ・ファッキーニとジョヴァンニ・ガッロに売り渡す。新しいオーナーは劇場を改装し、1819年にロッシーニの「泥棒かささぎ」を上演。その10年数年後に古くなった建物をガッロは再び改装し、劇場の名前をエメロニッティオ劇場とした。1834年にはドニゼッティの「愛の妙薬」が上演され、1835年ガッロが単独のオーナーになり、当時の名歌手マリア・ガルチア・マリブランを呼ぶ事にした。この年の4月8日マリブランはテアトロ・エメロニッティオで「夢遊病の娘」を歌い素晴らしい成功を収めた。ガッロはマリブランへの感謝の印としてこの劇場をマリブラン劇場と改名した。その後ヴェネツィアのオペラ上演はフェニーチェ劇場が主流になるが、1996年フェニーチェ焼失後、再びこの劇場でオペラの上演が行われる様になった。座席数は900。2002年から2003年のシーズンには、「タイース」、「ラ・トラヴィアータ」、「愛の妙薬」、「ナクソス島のアリアドネ」、「マリノ・ファリエーロ」などが上演される予定。
●サン・マルコ大聖堂 Basilica di San Marco
Piazza San Marco
828年にエジプトのアレキサンドリアから奪った、福音史家聖マルコの遺骸を安置する為に、11世紀から15世紀にかけて建設されたロマネスク・ビザンチン様式の教会。聖マルコはその後ヴェネツィアの守護聖人として崇められ、その象徴のライオンがヴェネツィア共和国の紋章になっている。サン・マルコ寺院では楽長よりもオルガニストが高く評価され、ガブリエーリ、メルローなどの優れたオルガニストの音楽家がいたが、1613年にはモンテヴェルディはこの教会の楽長になった。後ヴィヴァルディもこの教会の聖職者を一時していた。ロシアの作曲家ストラヴィンスキーは、1956年に自作カンティクム・サクルム(サン・マルコを称えて)初演の指揮をしている。そして1971年に死去した時は、サン・マルコ大聖堂で告別式が行われた。入り口上部には、4頭の青銅馬像(コピー)があり、これは13世紀にコンスタンティノーブルから持ち帰った戦利品で、紀元前400年から200年位前に製作された作品といわれる。円天井のモザイクは旧約聖書の物語りがテーマになっている。中央祭壇にはパラ・ドーロがあり、寺院で最も重要な作品といわれる。寺院の右側には宝物館がある。前は大きな広場になっていてカフェやガラス工芸の店などが軒を連ねる。ヴェルディのヴェネツィアを舞台としたオペラ「2人のフォスカリ」、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「ヴェネツィアの一夜」はこの広場に隣接するサン・マルコ小広場が舞台となっている。
●ドゥカーレ宮殿 Plazzo Ducale
Piazza San Marco
ヴェネツィア共和国の元首ドージェの住居、共和国政府が設置されいた場所。1309年から1442年に建設された。2階のロッジャから黄金の階段を上がると、ティッツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、カルパッチョなどヴェネツィア派の巨匠たちの絵画で埋め尽くされている。その中にあるティントレットが描いた世界最大のキャンヴァス画「天国」(22m x 7m)がある大評議会の間 Sala del Maggior consiglio は凄い迫力で迫って来る。14世紀の半ば裏切りの罪で処刑されたマリノ・ファリエーロの史実に基づいたドニゼッティのオペラ「マリノ・ファリエーロ」には、この大評議会の間やドージェの間が舞台となっている。また、ヴェルディのヴェネツィアを舞台としたオペラ「2人のフォスカリ」は、フォスカリ家出身のドージェとその息子達が政争に巻き込まれて破滅する悲劇であるが、オペラの舞台はこの壮麗な宮殿である。さらにこの中には1471年に製作されたフォスカリ家の凱旋門 Arco Foscari といわれる場所がある。今シーズンヴェネツィアでこのオペラが上記の様に上演されるので、舞台になった場所を見てオペラを鑑賞したらより実感が湧くにちがいない。
●サンタ・マリア・グローリオ・ディ・フラーリ教会 Chiesa di S.Maria Gloiosa dei Frari
Campo dei Frari,San Polo
1338年から1443年にフランシスコ会によって建てられた教会で、主祭壇の奥にティッツィアーノが1518年描いた「被昇天」があり、ワーグナーはこの絵に描かれている両手を広げて天に昇るマリアの姿を見て感動し、「マイスタージンガー」を完成させる決意をしたといわれている。また1830年にヴェネツィアを訪れたフェリックス・メンデルスゾーンもこの作品に大きなインスピレーションを得た一人だった。他にティッツィアーノの「ペーザロ家の聖母子」、ベッリーニの「聖母子と諸聖人」、ブレーニョ兄弟による「ドージェ、フォスカリの墓」、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したヴェネツィア出身の有名な彫刻家カノーヴァが自分でデザインして、弟子達が製作した「A.カノーヴァの墓碑」、作曲家モンテヴェルディの墓もこの中にあり、ヴェネツィアで最も大切な音楽史跡なっている。
●サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会 Chiesa dei S.Giovanni e Paolo
Campo S.S.Giovanni e Paolo
1246年から1430年に建設されたゴシック様式の聖堂。内部のファサードの内側にはロンバルトの傑作「ドージェ、モチュニューゴ墓」、サン・ドメニコ礼拝堂にはピアツェッタの天井画「聖ドミクスの栄光」があり、またピサーノ作の「ドージェ、M・コルネールの墓」などもある。17世紀にはモンテヴェルディの弟子であったフランチェスコ・カヴァッリが、この教会のオルガニストとして活躍した。教会前の広場にはヴェロッキオの名作「コッレオーニ騎馬像」がある。またこの広場はドニゼッティのオペラ「マリノ・ファリエーロ」の第2幕の舞台でもあり、ここでフェルナンドはステーノと決闘し、命を落とすのである。2003年4月4日この歴史的教会で、素晴らしいコンサートが予定されている。ロッシーニの「スタバトマーテル」、指揮がマルチェロ・ヴィオッティ、マリエッラ・デヴィア、ソニア・ガナッシ、マッシモ・ジョルダーノ、ミケーレ・ぺルトゥージという現代望み得る最高のキャストでの上演である。
●カ・ドーロ Ca d'Oro
Galleria Franchetti
15世紀にヴェネツィアの建築家B.ボンとM.ラヴェルティによって建設されたヴェネツィア・ゴシックを代表する建物。1階はポーチ、3階はロッジァになっている。この建物は最後の所有者G・フランケッティ男爵の寄贈により、現在はフランケッティ美術館 Galleria Franchetti として公開されている。マンテーニャが1506年に描いた傑作「聖セバスティアーノ」、グアルディの「サン・マルコのピアツェッタ」などの作品が展示されている。ポンキエッリの唯一歴史に残ったオペラ「ジョコンダ」の第3幕はこのカ・ドーロが舞台で、第2場では賓客達が大勢招かれ、美しいバレエ「時の踊り」が繰り広げられる。カ・ドーロという通称は、カナル・グランデに面したファサードが、鍍金され、黄金に輝いていた事から来ている。
●モチェニーゴ舘 Palazzi Mocenigo
1816年にヴェネツィアを訪れた英国の詩人ロード・バイロンは、最初フレッツェリーア通りに住み、家主の22歳の妻と早速不倫の情事を始めた。その後1818年ニューステッドの邸宅を売り払い大金を手にし、このモチェニーゴ舘に住んだ。彼はヴェルディのオペラ「海賊」と「2人のフォスカリ」の二つの原作を書いている。またこの舘で、パン屋の娘に恋をしたり、テレーザ・グイッチョリ夫人と真剣な恋をした。また「ドン・ジュアン」の最初の2篇の歌も書いている。しかし生活は乱れたもので、この広い邸で40人程の召し使いと数多くの犬や鳥、そして一匹の狐と共に暮していた。
●ヴェンドラミン・カレルジー Palazzo Vendramin-Calergi
心臓病の持病にあったワーグナーは1883年2月13日午後3時半頃、愛妻コジマに看取られて70歳で世を去った。妻コジマは夫の亡骸に語りかけ、25時間も夫と離れようとしなかったといわれている。その後コジマはワーグナーのお気に入りだった自分の髪を切り落とし、夫の胸に置いた。3日後ワーグナーの遺体はカナル・グランデを運ばれ、バイロイトに送られた。ワーグナーがこの舘に滞在したのは、彼の最後のイタリアへの旅(1882年9月〜1883年2月)で、この舘の中2階に妻と家族と共に生活をしていた。ワーグナーはこの建物を気に入り、その庭を眺めたり、流れ行くゴンドラに大変魅力を感じていたという。
●リアルト橋 Ponte di Rialto
1592年にアントニオ・ダ・ポンテによって建てられたカナル・グランデは町で最も美しい橋。長さ48m、幅22.1mで、大きなアーチが弧を描き、両側を工芸の店などが軒を連ねる。シェクスピアの有名なヴェニスの商人もここが舞台である。またオフェンバックの最後のオペラ「ホフマン物語り」の第2幕はこの周辺の大運河を見晴らす宮殿が舞台になっており、この橋もヴェネツィアの象徴として度々オペラの場面に使われる。場面に流れる旋律はホフマンの舟歌、娼婦ジュリエッタがまんまとホフマンを欺き、この橋のたもとからゴンドラで逃げる。
●コンタリーニ・ファザン館 Palazzo Contarini‐Fasan
1475年頃建設されたといわれるゴシック様式の館。ヴェルディのオペラ「オテッロ」は、15世紀末のキプロスとヴェネツィアが舞台だが、この館も同時期に建設された。オペラでは、第4幕でデズデモーナは、エミーリアに髪を梳かせながら「柳の歌」を歌い、彼女を退かせ、静かに「アベ・マリーア」を歌い床に就く。いつからこの館がデズデモーナの館といわれているのかはわかないが、この館は通称デズデモーナの館と呼ばれている。
●ピエタ教会 S.Maria della Pieta
18世紀になると宗教音楽から世俗音楽へと世間の関心が移ると、救済院がヴェネツィアの音楽の中心となった。ピエタ、インクラービリ、メンディカンティ、オスぺダレットという4つの救済院では各自が合唱隊とオーケストラを持ち、優れた音楽を雇用していた。1678年に生れたアントニオ・ヴィヴァルディはヴェネツィアで最も有名な音楽家になった。サン・マルコ寺院のバイオリンニストを父に持ったヴィヴァルディは、ヴェネツィアの高名な音楽家ジョヴァンニ・レグレンツィに師事し、その後1703年に司祭職とバイオリンを両立させる職を見つけ、救済院の付属音楽院にバイオリン教師として雇用された。日本ではバイオリン協奏曲「四季」の作曲者として有名な彼は、ヴェネツィアの東端のサン・ジュゼッぺ広場近辺で暮していた。サン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴラ教会にはヴィヴァルディの洗礼を示す記念碑がある。現在見られるピエタ教会は、ジョルジョ・マッサーリが設計し、1754年から1760年にかけて建てられた。ヴィヴァルディの記念碑があり、演奏会も行われている。
●ジュスティニアン館 Palazzo Giustinian
ワーグナーは1858年から1859年にかけての7ヶ月間をヴェネツィアに住み、ジュスティニアン館に滞在し、楽劇「トリスタンとイゾルデ」の第2幕を作曲した。この建物は、フォスカリ館の隣りにある。
●フォスカリ館 Palazzo Foscari
1452年に彫刻家のジョヴァンニとバルトロメオ・ボンによって建設され、ヴェネツィア共和国のドージェ、フランチェスコ・フォスカリが住んでいた。バイロンの原作のヴェルディのオペラ「2人のフォスカリ」は、このドージェが主人公の物語である。このオペラの第一幕第2場はフォスカリ宮殿の広間が舞台である。
●ジュスティニアン館 Palazzo Giustinian
カナル・グランデには同じ名前の建物があり、これは前述の館とは異なる、サン・モイゼ教会の隣りにあるもの。ここは19世紀にはホテルヨーロッパになり、ヴェルディ、プルースト、ゴーチェなどが宿泊した。
●サン・ミケーレ島の墓地 Cimitero di S.Michele
ヴェネツィアの中心部から少し離れたサン・ミケーレ島は墓地であり、外国人の為の一画ギリシャ区(第14区)にはギリシャの王妃、ロシア皇女などと並んで、ロシアを代表する舞踏家ディアギレフ、傑作「春の祭典」「火の鳥」などを作曲したストラヴィンスキー、作家のブロスキー、アメリカの詩人エズラ・パウンド(第15区に葬られている)などヴェネツィアを愛した著名人達の墓がある。