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15 ottobre 2006

第38回 フィレンツェからローマへ

モーツァルトのイタリア旅行 (7)


牧野 宣彦
●ローマへの過酷な旅
1770年4月 6日 (叉は7日)、フィレンツェを出発したモーツァルト父子はローマへ向かった。
現在その道中は、世界遺産に認定されている中世の街シエナ、そしてシエナからモンタルチ―ノにかけて糸杉と丘陵の織り成す、イタリアでも最も美しい田園地帯、葡萄畑が広がっている。イタリア有数のワイン地帯で、キャンティもこの地方である。世界遺産に指定されているドルチャ渓谷のサン・クイリコ・ドルチャSan Quirico d‘Orcia、ピエンツァといった街が続き、高級ワイン、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノの街モンタルチ―ノなどの街も点在している。そして丘の上に聳える大聖堂のある街オルヴィエート、さらに南に下ると教皇庁の所在地が置かれていたヴィテルボなど、中世の趣きを残した美しい街をモーツァルト父子は通過して行った。

しかし今から230年以上前の旅行では、これらの街や風景を味わうどころではない過酷な試練が父子を待っていた。彼らは4月11日にローマへ到着しており、この約300キロの道のりを5日ないし6日かかって旅行しているが、旅の間はずっと雨に見舞われ、その上冷たい風の洗礼も受けた。街はほとんどが建物の影のないうら寂しい景色で、泊る宿といえば不潔で、汚物だらけ。食べるものもカリフラワーと卵くらいが出ればよい方という有様。美味しい食事にありつけ、安眠できたのはローマまで約80キロのヴィテルボに着いてからだった。父子はこの街の守護聖人サンタ・ローザの墓に詣で、「ミイラのままの聖女」を拝んだ。

私はこのヴィテルボの街を2回訪れている。一度は5月、2度目は9月に開催されるサンタ・ローザのお祭の時であった。というのも、私がサルデーニャのカリアリで開催された聖エフジェニオ祭に行った時、一人の警官がヴィテルボのサンタ・ローザの祭りは、聖エフジェニオ祭よりずっと美しいので、是非一度訪れるように薦めたからである。サンタ・ローザのお祭は、30メートル以上の高い蝋燭の山車を屈強な若者が担いで街を練り歩くという行事だった。ヴィテルボ滞在中、美味しい料理には会えなかったが、真っ暗な夜空に浮かぶ蝋燭の塔の山車の美しさは鮮明に記憶に残っている。

●聖ピエトロ寺院での「ミゼーレ」
モーツァルト父子がカッシア街道を急いでローマに来たのには大きな理由があった。4月11日の昼にローマに着くやいなやひとまず旅装をとき、父子はヴァティカンの聖ピエトロ寺院に出かけ、教皇庁のなかにあるシスティーナ礼拝堂に行き、17世紀にヴァティカンで活躍したグレゴーリオ・アッレーグリの門外不出の秘曲「ミゼーレMisere(憐れみたまへ)」を聞くためだった。この曲はイースターの聖木曜、聖金曜、聖土曜、そして聖日曜日早朝(聖務日課の第二時課)のみに、教皇の礼拝堂であるシスティーナ礼拝堂でしか歌われない。これは1640年頃から此処だけでしか歌われなかった。レオポルトが妻に送った手紙にもあるように決して楽譜を持ち出してはならない秘曲だった。持ち出しは禁止され、写譜も借本もしてはならず、もし違反をすると破門を持って罰せられたという。この曲は旧約聖書詩篇50篇(第51篇)、ダヴィテが聖歌隊の指揮者によって歌わせた歌に基き、5声の第一合唱と4声の第二合唱とが交互に歌い継ぐ二重合奏曲で、最終節だけが9声の合唱となって歌われていた。

レオポルトから妻への1770年4月14日付けの手紙によると「お前は恐らく、ローマの有名な「ミゼーレ」の事はしばしば耳にして知っているだろう。とても尊重されており、礼拝堂の歌手達は1つのパート譜を礼拝堂から持ち出したり、写譜したり、誰かに渡したりする事を破門宣告により禁じられています。しかし、とは言うものの私達はもうそれを持っているのです。ヴォルフガングがメモしてしまっており、これを演奏するのに立ち合う必要がなければ、私はこれを同封してザルツブルクに送ってしまうだろうが、この曲自体より音楽の作り方に重きをおかねばならないので、私達が家に持ち帰るだろう。それにローマの秘密だし、人の手に委ねる事は出来ません。」
モーツァルトはこの「ミゼーレ」をシスティーナ礼拝堂で一度聴いて宿に帰り、五線紙に書き写し、後日再びその曲を聴いて、訂正を加えてこの写譜を仕上げたと、後年モーツァルトの姉ナンネルが語った逸話で、信憑性には疑問がつくがモーツァルトの天才ぶりを示す逸話として伝わっている。

写真左:聖ピエトロ寺院
右:システィーナ礼拝堂

●パラヴィチーニ枢機卿
翌日4月12日聖金曜日にあたる洗足の儀式にモーツァルト父子は出席し、教皇クレメンス14世をまじかに見る事ができた。ヴァティカンの警備をしている美しい衣装を着たスイス衛兵達はヴォルフガングをドイツ人の貴族、または皇子と思い込み、レオポルトをその執事と思い込んでいたのではというのが、レオポルト自身の言葉である。この機会に父子はパッラヴィチーニ枢機卿に偶然出会う。ラザーロ・オピーツィオ・パラヴィチー二枢機卿は、ボローニャで彼らが世話になったルーカ・パラヴィチー二・チェントゥリオーニ伯爵の縁戚で教皇庁局長をしていた。

「この人はヴォルフガングに目くばせをして彼に話しかけました。”恐れ入りますが、貴方がどなたか打ち明けてくれませんか?” ヴォルフガングは全てを彼に話しました。枢機卿は不思議がられて答えられました。”えっー、私の元に沢山の手紙が来ている、あの有名な少年はあなたですか?”と。ヴォルフガングはこれに応じて尋ねました。”貴方はパラヴィチー二枢機卿ではありませんか?” 枢機卿は答えられた。”えっ!私だがどうして?” ヴォルフガングは”枢機卿閣下に手紙をお渡しし、御挨拶に伺いたいのです”と言うと、枢機卿はたいそう満足気な表情で、”君はイタリア語が上手だね”と言われました。」1770年4月14日レオポルトより妻へ ローマにて。

この枢機卿もモーツァルト父子に色々便宜をはかった。世界のカトリックの中心地ローマは、イースターの祝祭が終わるまでは活動はできない。レオポルトは紹介状を20通も用意していた。14日にはマルコブルー二師の紹介で宿を替える。現在のニコシア広場Piazza Nicosia 38番地の3階であった。主人は留守で夫人とクラヴィアを習い始めた娘がモーツァルトの世話をした。私は2004年ゲーテがローマで初めて宿泊した宿を探しにこの広場に来た。残念ながらゲーテの宿泊した宿は見つからなかったが、偶然このモーツァルトの滞在した家を見付けた。

父子は翌日の15日も聖ピエトロ寺院に行き、教皇クレメンス14世の盛儀のミサを参観する。「僕は光栄にサン・ピエトロ教会で聖ペテロの足にキスしました。でも残念ながら僕はあまりにも小さかったので、この相変わらずのお馬鹿さんはそこで高々と抱き上げてもらいました。」1770年4月14日モーツァルトの追伸の手紙より。
私もこの教会に行ったが、多くのカトリックと関係のない人たちが足に触り、記念写真を撮っていたのが印象に残っている。


●ローマでの多忙な日々
レオポルトの旅の覚書には、4月16日から5月8日にナポリへ出発するまでの約3週間、28名の有力者に面会した事が記されている。これは前述したパラヴィチー二枢機卿の力に負うところが大きい。19日にはナポリのサン・タンジェロ皇子Sant’Angelo、20日にはキージ侯爵Sigismondo Chigi邸に招待された。此処ではパラヴィチー二枢機卿はじめ、英国のチャールズ・エドワード・スチュアート公、トスカーナのヴァチカン大使サント・ディル男爵などの有力者が招かれていた。
現在このPalazzo Chigiは内閣官房が入っており、閣議などが開催される。

4月21日、天候が回復したので父子はイギリス人ベックフォードと共に、ヴィラ・メディチVilla Mediciの庭園を散策している。この頃多くの英国人がローマに住んでいた。1688年の名誉革命で清教徒に敗れたカトリックのスチュアート家は断絶し、英国を去ったために多くの英国系のカトリック教徒が、彼らを保護したローマ教皇の下のローマに集結していた。
父子はローマでは紹介状をもとに多くの貴族に会う多忙を極めた日々であったが、ミケランジェロの設計したカンピドリオ広場を訪れ、カピトリーノ博物館などを訪れた事をモーツァルトが姉ナンネルに報告している。現在この場所からはフォロローマノの遺跡が見えるが、モーツァルトの訪れた時代は、この場所はまだ完全に発掘されておらず、石切り場と牛の遊ぶ草原で、遺跡は僅かしか見えなかった。

4月29日、アルテンプス宮での音楽会が開催され、5月2日にはドイツ学院で演奏会があった。5月12日に父子はローマを出発するつもりだったが、4人のアウグスチーノ修道士の同行者と一緒にナポリへ行く事になり、5月8日の火曜日にローマを出発した。

ナポリを発って45日後、モーツァルト父子は再びローマへ戻って来る。ローマの直前で馬車の事故にあい、モーツァルトをかばったレオポルトが足を怪我した。ナポリでは期待した収穫はなかった。
「ナポリ王妃の言葉はお世辞ばかりで、何も出来はしない」と、レオポルトは嘆いている。(6月30付けの手紙)。
写真左:サンタンジェロ城
右:サンタ・マリア・マッジョーレ教会



●二度目のローマでの栄誉
7月4日、パラヴィチー二枢機卿の使者が訪れ、翌日クイリナーレ宮殿に出頭するようにとの命であった。現在はイタリア共和国大統領の公邸で、歴代の法王の住居として使われていた宮殿である。ここでモーツァルトは教皇クレメンス14世の命によりパラヴィチー二枢機卿から「黄金の軍騎士勲章」を授与された。レオポルトはグルックと同じ勲章と述べているが、実際はグルックの受賞したものと同じではない。グルックが受賞したのはカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフが授けられたものと同じであるが、モーツァルトが賜ったのはそれより上級のものであり、音楽家としては、ルネッサンス最大の作曲家といわれたオルランド・ディ・ラッソが受賞しているだけであった。

レオポルトはその時の状況を妻に書いている。「・・・明日は新情報を聞かされるはずで、それが事実としたら、お前達は吃驚するだろう。つまり、パラヴィチー二卿が教皇の命により、十字勲章と認定書をわたされるのです。まだ多くを喋ってはいけない。本当だろうか?・・・ そうなったら次の土曜日にお前に便りをします。この間、枢機卿の所で、2、3度ヴォルフガングに”シニョーレ・カヴァリエーレ”(騎士殿の意)と言われ、私達は冗談だと思っていました。だがそれが本当だと聞き、明日そのために招待されたのです。・・・」1770年7月4日レオポルトより妻へ ローマにて。

「前の手紙で、十字勲章の事を書いたが、事実でした。・・・それはグルック(Christoph Willibald Gluck)の持っているのと同じで、”テ・クレアームス・アウラタエ・ミリティアエ・エクイテム”(ラテン語訳で汝を黄金の軍騎士となす)といいます。ウォルフガングはこの美しい金の十字勲章を下げなければなりません。皆が彼に”騎士殿”と呼ぶのを聞いて、私がどんな風に笑っているか、お前は想像できるでしょう。」1770年7月7日レオポルトより妻へ ローマにて。

ボローニャの国立音楽資料博物館に十字勲章をつけたモーツァルトの肖像画が展示されているが、これは1777年ザルツブルクで描かれ、マルティーニ神父に寄贈したもので、モーツァルトはその時21歳、ヴェローナで描かれたような少年の容貌ではなかった。

大きな名誉を授けられたモーツァルトは7月8日、サンタ・マリア・マッジョーレ教会に行き、教皇クレメンス14世に拝謁した。この教会はローマ四大教会の一つで、ローマ市内にありながらヴァティカン領であり、5世紀のシクトゥス3世時代に創建された。「真夏にこの地で雪の積もっている所に教会を建てよ」という聖母からのお告げによって建てられたという伝説がある。外見はバロック様式だが内部はビザンチンの様式で、格子天井の金の装飾は新大陸発見後最初に採掘された金を使ったといわれている。イタリア音楽史上に名を残すドメ二コ・アレッグリ(1610〜1629)、A.スカルラッティ(1707〜1709)など偉大な音楽家がこの教会の楽長を務めている。

モーツァルトにとって栄光に包まれた2度目のローマ滞在は2週間の短いもので、1770年7月10日火曜日の午後6時、モーツァルト父子は永遠の都へ別れを告げた。


データ

ローマのお薦めホテル
★Starhotel Metropole 劇場に近く、設備も改装され快適、レストランも美味しい
Via Principe Amedeo 3
Tel:06 4774 Fax:06 4740413
E-mail:metropole.rm@starhotels.it


お薦めレストラン
★Campana 創業が15世紀に遡る。ゲーテ、カラヴァジョが訪れたといわれる。古代ローマ料理が味わえる。
Vicolo della Campana 18
Tel:06 6867820
E-mail:ristlacampana@genie.it


牧野宣彦さん連載記事の載った
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牧野宣彦氏より
2006年7月に行われたワールドカップでイタリアが世界制覇したが、日本にはイタリアのサッカーの事を満載した雑誌がある。フロムワンという会社から出しているその名も「カルチョ」という雑誌で、この雑誌に私は2006年10月より1年間連載をする事になりました。私の書くもの以外はサッカー一色ですが、私の連載のタイトルは「すべてはボローニャから始まった」。第1回目は、コモの劇場に行った体験を書いた「茸の王様ポルチー二」です。11月号は、二年に一度マロスティカで開催される中世の恋物語(チェスの試合)について書いています。 是非お読みください。


著者プロフィール

牧野宣彦(まきののぶひこ)


早大卒。1974年旅行会社にて日本初のニューイヤー・スカラ座オペラツァーを企画。その後コンピュータ会社を経て、1998年によりイタリア、ボローニャ在住。フリーのトラベルライターとして、旅行、音楽、グルメ関係の執筆、写真撮影をする。 2003年オーストリアのエリザベート皇妃、2004年ゲーテのイタリア紀行、2005年モーツァルトのイタリア旅行とオーストリア、2006年はイタリアの世界遺産など毎年テーマを決めて写真撮影を行っている。著書「イタリアの歴史的ホテル・レストラン・カフェ」(三修社)、「イタリアオペラツァー」(あんず堂)「イタリアのベストレストラン」(透土社)「音楽と美術の旅、イタリア」(共著、音楽之友社)などがある。
http://www.japanitalytravel.com
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