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15 dicembre 2006

第40回 ローマからナポリへ

モーツァルトのイタリア旅行 (9)


牧野 宣彦
●田園地帯を行くモーツァルト父子
1770年7月10日午後6時、モーツァルト父子はローマを発った。父子の目的地は最終的にはボローニャであったが、父子はその前にカトリックの巡礼地として名高いロレートLoretoを目指した。

モーツァルトはローマの宿泊先の女主人ウスレンギ夫人Signora Uslenghiよりお土産として「千一夜物語」の本をもらう。午後6時に出発した馬車を夜通し走らせて、父子はローマから54キロ北に位置するチヴィタ・カステラーナCivita Castellanaへ朝5時に着いた。この日は7月にもかかわらず、異常な寒さだったといわれている。
「・・そして誰でもが驚く事ですが、いまだに朝と晩は、涼しいというよりはとても寒いのです。私達がローマからチヴィタ・カステラーナへ走った夜などは、外套の上から毛皮をはおって冷え込みを防いだものでした。そしてセニガッリアSenigalliaでは朝8時に毛皮のまま街に入りました。毛皮を鞄の中に入れる事が出来なかった事が幸いしたのです。イタリア全土がこの気候に吃驚しています。この2日ようやく暖かくなってきました。」1770年7月21日レオポルトより妻へ ボローニャにて。

モーツァルトはこのチヴィタ・カステラーナからウンブリア、マルケ州を横断して、アドリア海に抜けて行くルートを取るが、ゲーテが1786年にイタリアへ来た時は、モーツァルトの反対のルート、アッシジAssisiからフォリーニョFoligno、スポレートSpoleto、テル二Terni、ナルニNarni、チヴィタ・カステラーナというルートで旅行している。ゲーテもモーツァルトもチヴィタ・カステラーナに立ち寄っているのだ。
チヴィタ・カステラーナは、現在人口約15000人位。テヴェレ川に注ぐトレイア川Treiaの二筋の支流の間にある街で、1494年に教皇アレクサンドル6世が建築家のジュリアーノ・サンガロに依頼して建設させた城塞がある。古い町並みが残っている場所には、1210年に建設されたドゥオーモとその鐘楼が高く聳える。
モーツァルト父子は朝5時に到着し、熱いチョコレートを飲み体を温め、10時まで睡眠を取った。その後父子はドゥオーモで開催されたミサに参列し、モーツァルトはこの大聖堂のオルガンを弾いたといわれている。
私は一度この街を訪れた事がある。バスや鉄道などもあるが不便な場所で、オルテOrteからタクシーで行った。私がこの街に行ったのは、モーツァルトやゲーテの足跡を訪ねる為でなく、この街に美味しい料理を作る女性シェフがいたからだった。レストランの名前はAltra Bottiglia。店内は優雅な雰囲気、料理も美味しく満足した。

その日の午後、つまり7月11日の16時半頃、父子は再び旅を続けた。それ以後「いつも朝3時か4時には出発し、8時から9時ごろまで走り、その地に夕方4時ごろまで留まり、更に夜の8時か9時まで夜に走る。」7月21日付け
この様なパターンを繰り返してモーツァルト父子は、緑豊かな丘陵とオリーブの木が茂る田園地帯を走って行った。モーツァルトと同じ18世紀にスポレートを旅行したフランスの啓蒙思想家モンテスキューは「スポレートの近くまで来ると、田園の様子ががらりと変わる。そこに広がるのは、人々が多く住み、作物を栽培する肥沃な大地と、豊かな丘陵であり、とりわけオリーブ畑が沢山見られる。」と述べている。スポレートは現在モンテスキューの言う程特別オリーブの木が多いという印象はないが、夏には2つの世界を結ぶ音楽祭が開催され、城壁に囲まれた街には由緒ある建物が多く魅力的な街である。


特にイタリアの街はペストを避けるためか丘の上に建てられている古い街が多い。今でこそここにも高速道路が通っているが、モーツァルトの時代にはレオポルトの言葉を借りると「自分が経験した一番辛い旅の一つ」(7月21日付けの手紙)。眠りは変則的な移動のために中断され、ダニ、蚤や南京虫に刺され、足の傷口はパックリとあいたまま、馬車の振動は足の傷を益々悪化させ、腫れもひどいものであった。しかし点在するイタリアの街は魅力的で、スポレートからフォリーニョに行く街道沿いにあるトレヴィTreviの街など好天の時は絵のように美しい。きっとこれらの美しい風景が父子の苦難の旅をいくらか癒したことだろう。

トレヴィを過ぎるとフォリーニョに着く。現在この街は人口約53000人、近代的な産業の街だが、1472年ダンテの「新曲」がこの町で300部印刷された。これがイタリアにおいて自国語で印刷された初めての本だった。その印刷所は1470年に創設され、イタリアで最も古い印刷所に数えられる。
私がこの街を訪れたのは2004年の夏、ドゥオーモやレプブリカ広場を訪れた。広場には13世紀に建設された市庁舎などもあり、1800年に創業されたAntico Caffe della Piazzaという古い素敵なパスティチェリアもあった。
写真トップ:ロレートのパラッツォ・アポストリコ
下:モーツァルトが演奏したチヴィタ・カステラーナの教会とモーツァルト

●ロレートの聖なる家
モーツァルト父子がローマを発ってから7日目の1770年7月16日、2人はロレートに着いた。ロレートを巡礼したいという希望は恐らくザルツブルクにいた時から心に決めていたのだろう。レオポルトの3月13日付けのミラノからの手紙にも書かれているのをみても、彼がかなり前からロレート詣を計画していた事がわかる。
モーツァルト家と親しかったザルツブルクの名家、ハフナー家のためにモーツァルトは「ハフナーセレナード、ニ長調K250」を1776年に作曲している。これは、ハフナー家の庭園で初演されたが、そのハフナー家の隣にロレート教会があり、一家はよく礼拝に出掛けていた。そしてロレート巡礼を決定的にしたのは、ナポリからローマでレオポルトが足の負傷をした事だった。

ロレートはマルケ州にあり、アンコーナAnconaから30キロ南東にある。伝説では1291年5月、マリアの生家であり、エジプトから帰った後13歳までキリストが過ごしたナザレの家が、フィウーメFiume近くのテルサットの丘Colle di Tersattoまで天使によって空を運ばれて来たとされている。ムゾーネ川Musoneの右側にある素晴らしい眺望のマルケ州の丘の上に、それから数年後、簡素な建物が建設された。その建物はジュリアーノ・サンガッロが制作したクーポラの下にあたる。
その後十字軍によって小さな移転が3回行われたといわれる。1294年の12月10日の深夜には月桂樹の森に据えられた。この月桂樹をラテン語でLaurentumといい、ロレートの地名はこの言葉に語源を発すると言われている。

小高い丘の上にあった質素な建物を守るようにサンタ・カーザ聖所記念堂が1468年にゴシック様式で建設された。建設には当時の一流の建築家が多数参加した。ジュリアーノ・ダ・マイアーノ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、ブラマンテ、アンドレア・サンソヴィーノなどがいる。3つの後陣を持つ聖堂内陣があり、チェザーレ・マッカ―リの絵(1907年)が一面に描かれたクーポラの下に、聖なる家Santa Casaがある。表面は彫像と浮き彫りで装飾され、大理石の美しい表面仕上げになっている。これらの装飾は16世紀にG.C.ロマーノ、アンドレア・サンソヴィーノ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネの指導の下に制作された。ブロンズの扉が開かれた内部には聖母マリアとキリストの像が安置されている。
この聖母マリアは足の悪い人を癒すといわれ、この教会の周辺には足の悪い人たちの為の病院がある。毎日ミサのあと人々は膝まづいたり、這うようにしながらこのマリアの家の周囲を回る。
足の傷が治らず苦労していたレオポルトも聖母マリアの祝日7月16日に訪れ、土産物屋で鈴や聖遺物などを買ったという記録がある。人一倍信仰心の厚かったレオポルトも足の治癒を祈願して聖なる家の周りを回った事はほぼ間違いないであろう。

私はこのロレートに2回行っている。1999年と2004年、いずれもロッシーニ音楽祭を聴きにペーザロPesaroを訪れた時だった。私が行った時も、沢山の車椅子の人たちや松葉杖をついた人、義足の人などが熱心にお祈りしていた。また団体で来たのか数百名で記念写真を撮っているグループもあった。
12月の聖母マリアの祝日などでは、ヨーロッパ各地から巡礼者が訪れ、人口約1万人くらいのこの街に20万人の人が訪れるという。

モーツァルト父子の旅はその後も続いてゆく。アドリア海沿岸の町セニガッリア、ロッシーニ生地で、夏のロッシーニ音楽祭で賑わうペーザロ、高級な海水浴場リミニRiminiなどを通った。 レオポルトの7月21日付けの手紙によればロレートからリミニへのおよそ110qの道の「至る所に兵士や警官が配属されていた」という。そのリミニから再び内陸部に入り、エミリア街道Via Emiliaを走ると、もうボローニャには近い。残りは132qで、フォルリForli、イーモラImora(7月19日)を経由して、1770年7月20日朝8時父子は再びボローニャに戻った。



牧野宣彦さん連載記事の載った
月刊サッカー専門誌『CALCIO2002』

イタリアサッカー界の話題が満載の月刊サッカー専門誌『CALCIO2002』(カルチョ2002)に、現在、牧野宣彦さんが連載記事をご執筆中です。

牧野宣彦氏より
今月号では、究極の珍味といわれるトリュフを食べに、トリュフの祭りの開催されていたアルバに行き、バルバレスコを飲みながらトリュフ料理を楽しみました。

著者プロフィール

牧野宣彦(まきののぶひこ)


早大卒。1974年旅行会社にて日本初のニューイヤー・スカラ座オペラツァーを企画。その後コンピュータ会社を経て、1998年によりイタリア、ボローニャ在住。フリーのトラベルライターとして、旅行、音楽、グルメ関係の執筆、写真撮影をする。 2003年オーストリアのエリザベート皇妃、2004年ゲーテのイタリア紀行、2005年モーツァルトのイタリア旅行とオーストリア、2006年はイタリアの世界遺産など毎年テーマを決めて写真撮影を行っている。著書「イタリアの歴史的ホテル・レストラン・カフェ」(三修社)、「イタリアオペラツァー」(あんず堂)「イタリアのベストレストラン」(透土社)「音楽と美術の旅、イタリア」(共著、音楽之友社)などがある。





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