ミラノに住居を決め、まだ観光気分も抜けきらないある時期、日参していた場所のひとつに『アンブロジアーナ絵画館Pinacoteca Ambrogiana』がある。
初めてをそこを訪ねた時,なんらインフォメーションも持たず、ぷらぷらとその絵画館を見てまわっていた。と、ある作品の前で小さな感動を覚える。「あの作品がこれか、、、、。」
当時も今も好きな作家にカラヴァッジョがある。美術大学に席を於き、西洋美術史なるものも、授業にあった。うる覚えに作家と作品、時代背景が増える中、その当時から好きな画家、もしくは、好きだと感じる絵画の多くにカラヴァッジョ作があった。写真家となり東京在の頃、カラヴァッジョの自伝的フィルムを見る機会もあり、そのまた彼の激しい人生に、感動を覚えた。
イタリアに来て、事如く感じていたのは、『イタリア文化の深さ』である。とは、我々誰もが百も承知、今さらなのだが、イタリア人にすると、その深さがあまりにも深すぎてなのか、もしくは日常過ぎて有り難みに欠けるのか、「あの本で読んだ、その美術書で感銘した」作品らが、そこここかしこと放置されているのであった。放置とは乱暴な言い方ではあるが、例えば日本に来賓?された有名絵画を一目しようものなら、1日がかりで謁見数秒如しの事もまま無い。それら有名絵画の鑑賞に比べると、ここはまさに放置されているとしか言いようが無い。
私は、それからせっせとそこへ日参したのであった。その当時、絵画館前の通りは、人け無い、いつ終わるとも計り知れない、放置された工事現場が広がっていた。入り口もうっかりすると見失う様相、現に初回は探すのに一苦労した記憶がある。今にして思うと、粉塵うっとうしく、あの横目でやり過ごしていた、ないがしろにされた瓦礫の山も、実は工事作業中に、学術的重要文化財なるものの出現によりストップがかかっていたかもしれない、、、。イタリアの地下鉄工事に時間がかかる理由の一つとして、それも挙げられる。やはりイタリア文化は日常的に奥深しなのだ。
ひっそり静かな『Pinacoteca Ambrogiana』。 2回目からは、当然、目的の部屋へと迷わず進んだ。
「Canestra di frutta olio su tela di 31 x 47cm 1599 Michelangelo Merisi da Caravaggio (果物籠 油絵31 x 47cm 、1599年 カラヴァッジョ作)」。後に知った事であるが、彼はミラノ生まれだ。
その作品は今日もそこにあった。好きなだけその作品と対話ができた。400年という歳月をかけてそれは存在していた。思いのほか小さく(かと言って、ではどのくらいの大きさを想像していたかと問われると具体的なディメンションは無いのだが。)、だが見るだにますます、引きつけられた。激情がキャンバスに塗り込められている訳ではない。その緻密な描写、その背景の簡素な表現 にも関わらずわたしを魅了した。
ある時、彼の眼の視点はどの位置にあったのか、という疑問がわいた。三点の違なる高さと水平線上三点の異なる視点、彼の視点は合計すると五点もしくは九点のポイントから見てひとつの果物籠に集約され表現されているのではないかと推察した。 果たして、私の場合、カメラという一点のファインダーを通しどれだけそのニュアンスに近づくことができるのであろうか、、、それがきっかけとなり、ひとつの写真を撮る事となった。果物を盛ったコンポート。
カラヴァッジョの視点とわたしの視点。どの位置から見ると安定感があり、1次元の紙の上に、彼が描写したように、どれだけ奥行きを感じさせられるか。それから、数ヶ月同じ題材に向かう事となった。作業を続けていくうちに、次ぎの疑問がうまれる。
概に具象の絵を見た時、そこには物質は存在していないにも関わらず、私たちはそこにものがあるかのように確信して鑑賞する。果たして「フォーカス」が合っていない写真を見た時、なにを感じるか。そもそも、「フォーカス」とは何だろうか。 私は「フォーカス」とは便宜上の共通言語であり、万人が共有するに必要なひとつの目安だと定義つけ、この静物写真を撮り続けた。便宜上の共通言語を使わず自分の感性をたよりにピントを合わせた。果物を盛ったコンポートが一番美しく感じられるところに私にとっての焦点があった。多くの人は、「ピントがぼけた写真」と呼んだ。だが、自分にとって写真が絵画に近くなり得る境界線の発見でもあった。先入観を持たずに見る、感じるという作業がいかに重要かと認識をしたのもその時だろう。
わたしたち人間が物を見た時に、それがなにかと描写できる知覚知識はいかに曖昧で個人差が大きいのか、その感覚の幅があるからこそ、個々にクリエイトをすることが可能なのではないだろうか。人間の個々の感覚、デジタルの数値表示、どちらも莫大なキャパティシーが存在するが、両者は全く別のものなのだと思う。人間のアイデンティティーを失わないようにしたい。
世の中は、まさにデジタル社会の幕開けを迎えていた。