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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Marzo 2019

第2回

聖アンブロージョとキリスト教都市ミラノ

  
 文と写真   大島 悦子 

1.ミラノのシンボル「聖アンブロージョ」
聖アンブロージョは、紀元374年から397年まで23年間にわたってミラノ司教の座についた人物であり、没後にはその功績によって聖人となり、聖アンブロージョと呼ばれている。その遺骸は、自らの建立した「聖アンブロージョ聖堂」に現在に至るまで1600年以上にわたって安置されている。

写真トップ@聖アンブロージョ聖堂内小礼拝堂に描かれたモザイク画の聖アンブロージョ像(5世紀)
写真上A「聖アンブロージョ聖堂」

イタリアではどの町にも「守護聖人」がいて、イタリア特有の「カンパニリズモ」もあり、「我らの町の守護聖人」が大切にされているが、アンブロージョの場合は、その影響力は地元ミラノにとどまらない。紀元370年頃から州知事としてミラノに赴任していたアンブロージョは、劇的な成り行きで「司教の座」についた。そして、アンブロージョは、多神教や異端、特にアリウス派に対抗し、キリスト教の政治的宗教的闘争をカトリックに有利な形で解決し、さらにはその強い人格で事実上、皇帝自身の権力に対してもその優越性を示し、ローマ帝国のキリスト教の国教化、カトリック推進、という皇帝の宗教政策の上で決定的な役割を果たした人物であるからだ。

ミラノは、286年にマクシミアヌス帝により西ローマ帝国首都に選ばれて以降、帝国首都として必要な皇宮、チルコ、壮大なテルメなどが整備された。その後、次第に城壁外の各方面への主要道路沿いにキリスト教徒共同墓地が広がり、アンブロージョ司教の時代に、城壁の外に、各市門に対応するような大きな聖堂が建立されたことで、ミラノの輪郭は広がりキリスト教都市ミラノが形成された。

12月7日は、紀元374年にアンブロージョがミラノ司教に就任した日であり、ミラノでは「守護聖人アンブロージョの祝祭日」である。この日の午前、ミラノ市が、ミラノ市民社会に特に貢献した人物・団体に贈る「アンブロジーノ金賞」の表彰式が行われ、夜にはミラノのスカラ座は『プリマ(シーズン初日』」をむかえる。 この日の前にドゥオーモ広場のクリスマスツリーが灯火される。

 写真上左Bミラノのスカラ座  写真上右Cミラノのドゥオーモ広場のクリスマスツリー   

アンブロージョは、教会の守護聖人としてのみならず、ミラノの住民すべての「守護者」としての役割を果たしてきた。ミラノの町、人々の生活様式や伝統の「象徴」でもあった。ミラノが歴史上、深刻な危機に陥った際にミラノ人を一つに団結させる「求心力」の役割を担ってきた。なお、『アンブロジアーノ』という言葉は「ミラネーゼ」と同義語で、形容詞「ミラノの」と名詞「ミラノ人、生粋のミラノっ子」を意味する。ミラノ市内には教会、街角、ミュージアムに、アンブロージョを描いた彫刻や絵画が多数存在するが、制作時期や時代背景により、アンブロージョの表情も風貌も大きく異なり、興味深い。

写真上左D「聖アンブロージョ像」(ロンバルディア工房作 970年、司教座博物館所蔵)  
写真上右Eスフォルツエスコ城フィラレーテ塔の上部中心にも聖アンブロージョ像

今号では、ミラノ勅令以降のキリスト教普及、アンブロージョの司教活動、彼の時代の聖堂建設、アンブロージョの多神教異教や異端に対する戦いの姿をさぐってみたい。                                                

2.ミラノ勅令以降のキリスト教普及
前回述べた313年のコンスタンティヌス帝による「ミラノの勅令」は、他の諸々の宗教と同様にキリスト教も公認し、弾圧時代に没収された教会資産の返還を命じた。コンスタンティヌス自身もキリスト教を奉じ、ローマ古来の伝統的多神教に代えて、キリスト教を帝国の精神上の柱としようとした。330年、同帝は東方帝国の本拠地をビザンツオに設け、新首都コンスタンティノーブル(現イスタンブール)と命名し、「新しいローマ」としてキリスト教帝国の中心となるよう宣言した。  

写真上Fミラノの聖ロレンツオ聖堂前に設置されている「コンスタンティヌス大帝のブロンズ像」
(ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂保存のオリジナル像の複製)

●アリウス派とカトリック派との対立
このころ、キリスト教内部にカトリックとアリウス派の対立という大きな課題が持ち上がっていた。アリウス派はアレッサンドリア(エジプト)の司教アリウスにより主唱されはじめた理論で、神学的概念の違いで両者は真正面から対立する。カトリックでは「キリストは本当の神であり本当の人間」とされる一方、アリウス派ではキリストは「神に似ているが」ただの人間であるとし、キリストの神聖を否定した。コンスタンティヌス帝は、キリスト教内部で双方が敵視しあう状態をさけるため325年にニケアの公会議を開催した。そこでアリウス派教義は異端と決議されたが、両者の対立はさらに加熱するものとなった。

337年同大帝の死去後、息子達の間で継承戦争が始まり、最後に勝利した次男のコスタンティウス2世は、アリウス派を支持し国家宗教として強制しようとした。キリストの神聖を否定するアリウス派は、信仰の分野でも皇帝の優越性を与え帝国概念にとり有利としたためだ。同帝は350年にミラノに戻り、354年以降ミラノに定住した。

ミラノは、当初司教はカトリック派であり、多くのミラノ市民もカトリックであり、アリウス派はほとんど知られていなかったが、ミラノは複雑な人種構成で、市内にはゴート人兵士多数が駐屯し、商人や職人などの間には、アリウス派を大衆的で近づきやすいと認識する層もいた。コスタンティウス2世は、ミラノでアリウス派閥の形成強化を試み、355年にミラノで公会議を開催しアリウス派支持を表明した。同会議で、当時のミラノ司教、ディオニージ司教もカッパドキア(現アルメニア)に追放された。その後、このカッパドキアから後任司教のアリウス派、アウンセンティオがやってきてミラノ司教となる。ミラノのカトリック派は力を失い、アリウス派は黄金時代をむかえた。             

●ユリアヌス帝による最後の「異教信仰」の回復
キリスト教内部の両派対立が頂点に向かっているときに「逆転劇」が起こった。361年コンスタンティウス2世帝が病死し、直後に後継者となったユリアヌス帝は、古典世界の価値を守るためにキリスト教を拒否し、公式に異教を再興させようとしたのだ。なお、当時のキリスト教徒にとって「異教」とは、キリスト教以外のすべての宗教を指した。ギリシア・ローマの宗教、シリア生まれの太陽神、同じくシリア生まれのミトラ神、エイプト生まれの諸神、カルタゴ生まれのタニト神等々への信仰が「異教」とみなされるとともに、一神教のユダヤ教もキリスト教にすれば「異教」の一つと考えらえていた。

この時代、キリスト教はあらゆる社会階層に普及していたが、古代異教信仰を取り戻そうという試みもエリート層の一部で存在し、ミラノでも皇帝に近い集団に全面的に組する勢力もあり、「キュベレ女神信仰」を再興させた。ミラノ考古学博物館所蔵の「パラビアーゴの盃 La Patera di Parabiago」は、金箔のほどこされた銀製大皿で、キリスト教と全面的に対立するテーマの使用された代表例で4世紀末の制作と推定されている。盃の主題は自然と多産性に結びついた太古からの異教の女神「キュベレ」の勝利が描かれ、寓話的人物に囲まれて異教信仰の宇宙的な時空間に配置されている。まさにユリアヌス帝自身が、神々の女神に向けた祈祷で表現した理念を反映しているといえよう。ところが363年にユリアヌス帝はペルシャ人との戦争で死亡。同帝の短い治世はキリスト教徒を不安に陥れたが、彼は過去の人となった。

写真上G「パラビアーゴの盃」(4世紀、ミラノ考古学博物館所蔵)

365年、西方皇帝としてヴァレンティニアヌス1世が皇帝となり、彼は皇宮としてミラノを選択した。同帝はキリスト教徒であったが両派の教理論争にかかわることを避け、キリスト教会とも適切な間隔を維持した。

3.アンブロージョ司教に就任
●ローマ名門の出身、アンブロージョ

アンブロージョは親代々が元老院に議席を持つローマ名門貴族の出身。父親が帝国内の各地方で長官を務めた後、西方首都の一つ、トリアー(現在のドイツ)でガリア地域の長官として赴任中の340年頃、10歳上の姉マルチェリーナ、すぐ上の兄サティロにつぐ第三子としてアンブロージョは生まれた。アンブロージョが幼いころに父親が亡くなったため、母親と姉、兄とともにローマに戻る。アンブロージョ家は、ローマ名門貴族でシチリアや北アフリカに「広大な大規模農地」を所有していた。

アンブロージョはラテン語文法学と修辞学、ギリシア語等、伝統的な高等教育を治めた後、父親と同様に帝国高級官僚の道を進む。365年頃、兄のサティロとともにシルミウム(現在のセルヴィア)に赴任したのち、370年頃、ミラノを首府とする「リグーリアとエミリア州(現在のロンバルディア、ピエモンテ東部、エミリアーロマーア州西部などを含む地域)」州知事に赴任。当時の皇帝ヴァレンティニアヌス1世帝から任命されたもので、アンブロージョは、同帝からの信頼も厚く、真面目さと公正さで人々からの評価も高かった。

●アンブロージョ 司教に選出
さて、373年秋、ミラノ新司教の選挙の日、「カトリック派」と「アリウス派」の二党派間で実力行使を伴った抗争が勃発する中、州知事として状況を注視していたアンブロージョは自ら介入し、調和に満ちた演説をして場を落ち着かそうとした。アンブロージョの話が終わると、一人の少年が「アンブロージョ、司教に」と叫んだ。群衆もこの叫びに誘われ、政府高級官吏をミラノ司教に選ぶことを全員一致で決めた。

アンブロージョはこのような結果を予想もしなかったことは確かで、聖職の世界とも無縁であり、洗礼も受けていなかった。伝承では、アンブロージョは拒否したが群衆を納得できず、それで自分自身のイメージを変えて恥ずべき人物とみせようとし、あらゆる試みをしてミラノから逃げようともするが、結局は、ヴァレンティニアヌス1世が戻るように厳命し最後には譲歩せざるをえなかった。皇帝は、ミラノ司教の座に、人望もあり、同時に、帝国官吏としての政治力、適格な判断力を持つ人物を望み、宗教的な和解につながることを求めたのであろう。

アンブロージョは新職務に備え、11月30日に洗礼を受け、374年の12月7日に司教に任命された。アンブロージョは司教任命直後、所有する金銭、金銀製品等の財物、シチリアと北アフリカの大規模農地など全私産をミラノ教会へ寄贈した。

●疲れをしらない司教活動・教理研究
アンブロージョは司教になって最初の数年間を、日々の司牧の任務と教理研究に費やした。アンブロージョ自身は「洗礼は受けていなかった」が、アンブロージョの一家はカトリック信徒であり、354年頃ローマで、アンブロージョの姉マルチェッリーナは、教皇リベリウスから、世俗に暮らしながら生涯純潔を守りキリストの花嫁として生きることを誓う「処女奉納」の儀式を受けている。このような家庭環境に加え、当時の元老院貴族子弟として、聖書に対しても深い知識をもっていたのは事実である。それが、司教としての聖書解釈や宗教上の教義において重要な役割を果たした。ギリシア語のキリスト教著作家の著作を読めたことも教義研究に役立った。アンブロージョは日々の出来事や心境を姉マルチェッリーナに宛てた多数の手紙で伝えている。

アンブロージョは信徒たちを日常の祈りで指導し、定期的に説教し自らのオリジナリティを表現する莫大な書物を残しており、教父神学の分野で卓越した位置を築き、カトリックながら、祭礼方式についてもローマ教会とは一線を画する「アンブロージョ様式」を確立し、それは現在にまで続いている。

写真上左H聖アンブロージョの石の浮彫(12世紀、聖アンブロージョ聖堂)  写真上右I聖母マリアに教会を捧げる聖アンブロージョ像(14世紀、スフォルツエスコ市立博物館)

●アンブロージョ、「教会の父」アウグスティウスに洗礼を施す
アンブロージョの司教活動は、当初より寛容で書斎の門はいつも開けられており、誰をも書斎に受け入れ話を聞いたという。それを証人するのは、古代キリスト教の神学者、哲学者で『告白』『神の国』などの著者で「教会の父」とされている聖アウグスティヌス(354年−430年)である。354年にローマ領北アフリカのヌミディア(現在のアルジェリア)に生まれたアウグスティヌスは、カルタゴで修辞学を修めたが青年期には放縦の生活を送った。383年末、ローマにわたり384年ミラノの修辞学教師に任命される。

直後アンブロージョと出会い、その知力と慈愛に感銘し、その説教をきくようになり、それまでカトリックの教えに対していだいていた誤解を悟り、洗礼志願者になろうと決心する。受洗に備えて山荘に祈りと思索の日々を送ったのち、387年復活祭4月24,25日の夜、司教アンブロージョから洗礼をうける。

●サン・ジョヴァンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂の建立
アンブロージョが司教となった時期には、現在のドゥオーモ広場地域に初期キリスト教建築物が建立され、すでに二つの聖堂や洗礼堂、司教住居等があったとされている。しかし、この一帯は、その後、幾度も建て替えられ、特に1386年に現在のドゥオーモ建設が始まると残っていた初期キリスト教時代の建造物の大半は破壊されたため、当時の建物群の位置・建立時期については常に研究者の議論の対象となっている。

明らかとされているのは、378−380年頃、アンブロージョが初期キリスト教建築物サンタ・テクラ聖堂の脇に「サン・ジョヴァンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂」を建立したことである。この洗礼堂は、387年の復活祭に、上記したアウグストウスがアンブロージョ司教により洗礼を受ける舞台となったことでも知られている。

写真左J「サン・ジョヴァンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂」遺跡   写真右K同洗礼堂の再建想像図

同洗礼堂は、現在、ドゥオーモ内地下の「考古学遺跡」として見学が可能である。伝統的な四角形に代わり八角形の形をしており、8日目の夜明けにおけるイエス・キリストの復活を表現するとされている。中央には白大理石で覆われた八角形浴槽がおかれていた。浴槽のまわりは黒い菱形と白い平行四辺形で飾れており、壁面は極上の多色大理石を用いた幾何学模様の大理石寄せ木細工と絵画的な装飾により飾られていた。洗礼準備者は浴槽に入り、その後、おそらく反対側に移動したとされる。

4.殉教者・聖人信仰の奨励と聖堂の建設
●殉教者遺骨の発掘と聖人信仰の確立

ミラノに、キリスト教が「到達」した時期に関する史料はほとんど残されていないが、帝国の他地域と同様、歴代の皇帝によるキリスト教者迫害にあったようだ。ディオクレティアヌス帝が、ローマ古来の神々の崇拝を強制し実施した紀元303年の最後のキリスト教迫害は、西方帝国の首都ミラノでも、マクシミアヌス帝により厳正に実施された。

当時キリスト教では、信仰の具体的な印、崇拝する対象として、殉教者や使徒の聖遺物を求め各地で発掘・探求が進み、4世紀には教会建築は、殉教者遺物を奉納することで聖化されはじめていた。ミラノでは迫害の犠牲者、すなわち殉教者としては、ミラノ生まれでラヴェンナで殉教した「聖ヴィターレ」と、その妻ヴァレーリア、彼らの二人の息子、ジェルヴァジオとプロタジオ等の存在が伝承されていたもの、長い間「殉教者の聖遺物不在」の状態が続いており、地元信者からは「聖遺物」に対する強い願望が高まっていた。

そんな中、386年、アンブロージョは調査の上、この二人の殉教者の遺体を発見。信者の喜びは頂点に達し、ミラノ教会にとって画期的な出来事となった。アンブロージョは殉教者崇拝に加え、聖人信仰も強く推進し、聖人の遺骨や遺品などの「聖遺物」に対する崇敬を奨励した。これにより、一神教は守りながらも民衆の素朴な「身近なものにすがりたい」という願望も満足させる道筋をつくったといえよう。

●聖アンブロージョ聖堂と「サン・ヴィットーレ・イン・チェロドーロ」小礼拝堂
この聖堂は、386年、上に述べたジェルヴァジオとプロタジオ(その後聖人となる)の遺体を奉るために建立され、当初は「殉教者聖堂」と呼ばれた。アンブロージョ死後、同司教の遺骸も二人の殉教者とともに奉られ、その後、「聖アンブロージョ聖堂」と呼ばれるようになる。同聖堂は9世紀、10世紀に実施された後陣部分の再建などで、大々的に形を変えられ、特にその後ロマネスク様式聖堂に再建されたため、初期キリスト教聖堂の原初のかたちはほとんど残っていない。

写真上左L聖アンブロージョ聖堂内部  写真上右M同聖堂内クリプタに安置されている聖アンブロージョと二人の殉教者

わずかに同聖堂に残るこの時代の作品としては、聖堂左側に配置されている「スティリコの石棺」がある。テオドシウス帝の将軍スティリコと名付けられているが、実際はミラノ宮廷の高位の人物により委嘱されたものとされている。また、聖アンブロージョ聖堂内陣席にあった、多色大理石と多色ガラス粉で製作され壁面に刻まれた「はめ木細工」なども保存されている。

写真上右N「スティリコの石棺」(5世紀)  
写真上左O聖アンブロージョ聖堂内陣式にあった「はめ木細工」(5世紀)

同聖堂右側には「サン・ヴィットーレ・イン・チェロドーロ」小礼拝堂が設けられ、アンブロージョの死後まもない5世紀初頭に豪華なモザイクにより装飾された。この小さな空間は、当初は聖堂とは独立した建物であったがその後聖堂内に包括され現在にいたっている。礼拝堂天井円蓋の中心部には、金色地の上に「殉教者ヴィットーレ」の胸像が描かれている。「イン・チェロドーロ=金色の天空」という名前そのものが、金色の大理石モザイクで全体を覆われた美しい天井を表現している。

写真上P「サン・ヴィットーレ・イン・チェロドーロ」小礼拝堂の天井円蓋  
写真上Q「壁面の三人のモザイク画((聖アンブロージョ聖堂内案内パネルより)

円蓋を囲む壁面モザイクには、濃紺の背景に、一方の壁には、アンブロージョ司教が殉教者ジェルヴァジオとプロタジオの間に描かれており、もう一方の壁には、聖人フェリーチェと聖人ナボッレの間に司教マテルノが描かれている。アンブロージョのこの肖像は彼の肖像として知られる最古のもので、他の人物には見られないリアリズムを特色としている。研究者の間では、帝国高級官吏時代に描かれた肖像画をもとにしたものという意見がある。

●古人類学のアプローチで「遺体」研究も
2018年7月、聖アンブロージョと二人の殉教者の「遺体(人骨)」に対する「古人類学的アプローチ」による科学的調査がミラノ国立大学法医学部研究チームにより実施された。三名のスケルトン(人骨・頭蓋骨を含む)が同大医学研究所に運ばれ、レントゲンやMRI検査が行われ、同時に骨の分析から人種、体格、骨形成、生物学的特色、栄養状況、病的症状歴(病気やケガ)などが解明され、その中間報告がされたところだ。アンブロージョについては、頭蓋骨分析で顔の左右非対称性、片頬がやや高くなっていること、右鎖骨骨折やリューマチ性関節炎等も確認され、上記小礼拝堂に描かれている、やや首をかしげ体を少し傾けたアンブロージョの風貌を裏付けている。今後、DNA調査も予定されている。

また、前号でも触れたが、現在工事進行中のメトロ4号線は聖アンブロージョ聖堂付近も通るため、同聖堂前庭の本格的発掘がやはり2018年から実施されている。紀元3世紀頃からここは共同墓地であり、この発掘調査ですでに200体分もの人骨が出土された。アンブロージョ等の遺体研究とともに、当時のミラノに住む人々の生活を明らかにする出土品として今後の研究成果に期待が集まっている。

写真上左Rメトロ4号線工事により実施中の発掘調査の案内看板  
写真上右S聖アンブロージョ聖堂の前庭の発掘調査(2019年2月撮影)

●聖ナザーロ聖堂と「聖ナザーロ聖遺物箱」
この聖堂は、382年、ミラノ南の共同墓地地域に、アンブロージョ司教の意向で創立され、ローマから届けられたキリスト使徒聖遺物により奉堂されたため、当初は「使徒聖堂」と名付けられたが、395年、近くの共同墓地で殉教者聖ナザーロの聖遺物が発見され、ここに迎えられ「聖ナザーロ聖堂」と命名された。この聖堂もオリジナルの建物はほとんど残されていない。

写真上左(21)聖ナザーロ聖堂    写真上右(22)「聖ナザーロ聖遺物箱」(司教博物館所蔵)

なお、アンブロージョが奉堂式の際に使徒聖遺物を収めるために用いた銀製の立方体の容器が、有名な「聖ナザーロ聖遺物箱 Capsella di San Nazzaro」であり、1578年の聖遺物調査で、同聖堂大祭壇下からみつかった。立方体各面は旧約・新訳聖書の場面で明暗効果を高める活発な動きの複数人物像により覆われている。古典の伝統に根ざした金箔を巧みに用いて仕上げられた浮彫りの自然種的な表現である。上述「パラピアーゴの礼拝用盆」とともに、この作品は4世紀金工品の傑作とされ、ミラノの職工たちが到達した非凡なレベルを表している。その背景には、一方に洗練された宮廷がありそれに応えるための豊かな奢侈工芸が繁栄したことがあり、他方で聖アンブロージョのもとに集まったキリスト教信徒たちの活発な共同体があったことはいうまでもない。

●聖ロレンツオ聖堂とサンタクイリーノ礼拝堂
パヴィア方面に向かう城門の少し外側に建てられた非常に大きな聖堂。建造は390年から410年の時期とされておりこれほど際立つ建物群は皇帝からの委嘱によるものとみなし、時代区分としてアンブロージョより前の時代とする研究者も多い。側面には3つの礼拝堂が隣接しており、各礼拝堂は建立時代も平面図も異なる。

写真上(23)後側から撮影した聖ロレンツオ聖堂 写真左側がサンタクイリーノ礼拝堂

中でも特筆すべきは、聖堂南部にある「サンタクイリーノ礼拝堂」の壁面モザイクである。八角形の形で内部は二階建てで、「十二使徒の中のキリスト」を描いた半円形モザイクなどがあり、ミラノの初期キリスト教時代のモザイク美術の数少ない証人の一つである。

写真上左(24)「サンタクリーノ礼拝堂」の「十二使徒の中のキリスト」を描いた半円形モザイク   
写真上右(25)同、「旧約聖書の父祖」のモザイク画

その他、アンブロージョの時代の聖堂としては、ミラノ北側、聖シンプリチャーノ聖堂は、当時の聖堂部分はほとんど残っていないが、現在もなお、22メートルの高さをもつオリジナルの高さはほぼ維持し、キリスト教初期建築物の調和のある厳格さを誇る姿を保っている。一方、同時代の聖ディオニージ聖堂はすでに跡形もなく、「赤斑岩の石棺」が、ドゥオーモ内に保存されて残るのみである。

写真上左(26)聖シンプリチャーノ聖堂   
写真上右(27)聖ディオニージ聖堂の「赤斑岩の石棺」(現在はドゥオーモ所蔵)

5.異教・異端との戦い
●異教」の「勝利の女神像」をめぐる争い

375年にヴァレンティニアヌス1世が急逝すると、西方皇帝は二人の子供、16歳のグラティアヌスと、子供で母親のユスティーアの保護下にある幼いヴァレンティニアヌス2世に引き継がれた。
381年、グラティアヌス帝はすべての宮廷を伴い、ミラノに戻り、異教排除にとりかかる。
まず、古代の国家のトップである皇帝が、国家宗教を司る「最高神祇官」への就任を拒否。続き、382年にはローマ元老院の議場に安置されてきた「勝利の女神像」の取り外しを決めた。皇帝アウグストウスの時代以来、ローマ元老院の議場にはこの女神像が設置されており、元老院議員は議場に入る際に、その祭壇で焼香する習慣であった。382年、元老院の保守的異教徒の抗議にもかかわらず、皇帝グラティアヌスは祭壇の撤去と、国家祭儀への補助金削減を命じた。

383年、グラティアヌス帝が暗殺されると、グラティアヌスの相続権は379年にすでに共同で正帝についていたテオドシウスがとった。383年この年から、テオドシウスが実質的に帝国全土を統治することになる。ミラノには、幼いヴァレンティニアヌス2世と母親のユスティーナが、イタリア、アフリカ、イリリコの統治権をもって残っていた。

384年にテオドシウス帝によりローマ首都長官にシンマクスが任命されると、元老派議員の最も権威ある代表者シンマクスは、「勝利の女神像」返還を求める「嘆願書」を書きあげ、「国家に長い間益していた諸宗教の秩序」を戻すよう求めた。「請願書」は、公平と正義の感覚のみならず、帝国市民の感情にも訴えかけるものであった。だが、アンブロージョの時代のほとんどの人々は、「請願書」を聖書の神、唯一神に対する正面攻撃とみなしたようだ。「請願書」に対して、アンブロージョは、断固たる反応を取った。問題は宗教的寛容ではなく、キリスト教徒皇帝は偽りの女神像への崇拝を支持できるかどうかにあった。アンブロージョは中立的立場もあるという考えを拒否した。この「論争」の結果、テオドシウス帝はアンブロージョの意見を受け入れ、ローマ元老院議場に勝利の女神像が戻ることはなかった

●アリウス派からの強い反撃も制す
なお、381年に、グラティアヌス帝は、異教排除とともに、親カトリック路線を復活させ、東方が担当の皇帝テオドシウスもその流れを継ぐことになる。両者とも司教アンブロージョの影響を強く受けていた。381年には、グラティアヌス帝はアンブロージョと協議の上、アクイレイアに公会議を開き、アリウス派を糾弾した。

しかし、383年のグラティアヌス帝の死去により、アリウス派も息も吹き返した。カトリック派を主唱するアンブロージョに対し、アリウス派も反撃を開始した。その行動の主導者は、若き皇帝ヴァレンティニアヌス2世の母親、熱心なアリウス派である前皇妃ユスティーナであった。385年、アンブロージョはアリウス派から自らの教会の所有を求める要望があると、ミラノのいかなる教会も「アリウス派」に渡すことを禁ずる決然たる態度をみせた。

翌386年の春、復活祭の週にユスティーナ側は再び反撃にでて、復活祭をアリウス派としてミラノの中心的な教会で祝うことを望んだ。宮廷側は、新たな騒動を避ける妥協策として、譲歩して辺鄙な場所にある「別の聖堂」を提供することをアンブロージョに要請し解決しようとした。しかし、ここでもアンブロージョは徹底抗戦にでた。問題の教会を信者とともに占拠し、アリウス派入場を禁止する強硬策をとったことで両者間の対立は頂点に達する。最終的には宮廷も折れなければならなくなり、アリウス派にとってこの敗北は非常に厳しいものとなり、その後、ミラノ社会におけるアリウス派のウエイトが減少することになる。

写真上左(28)「ミラノ市の軍旗」(タピストリー) (1565-67年、スフォルツエスコ城博物館所蔵)    
写真上右(29)「テッサロニカの住民虐殺の後、聖堂入り口でテオドシウス帝を止めるアンブロージョ司教」 (プロカッチーニ作16世紀、聖アンブロージョ聖堂所蔵)  

●テオドシウス帝とアンブロージョとの対決
388年夏、テオドシウス帝は、実質的に唯一の皇帝としてミラノに入場し、388年から亡くなる395年までほぼミラノに滞在した。この間、テオドシウス帝とアンブロージョとの間には激しい対立が起こった。テオドシウス帝は「カトリック」であったので、教義上の対立ではなく「権威上」の対立であった。
対立の一つ目は、教会でのミサの間の皇帝の席に関するものだ。同帝は、コンスタンティノーブルで皇帝がするように内陣席からミサに参列することを要望した。しかし、アンブロージョは皇帝といえども、他の信者とともに身廊の席にとどまるよう命じた。

二つ目は、388年、シリアでキリスト教者が地元のシナゴーガを焼き討ちした際、テオドシウス帝はそれを糾弾し公費による再建を命じたが、アンブロージョは、皇帝の決断を厳しく非難したため、テオドシウス帝は糾弾を撤回せざるをえなくなり、皇帝の公的権威は大きな打撃を受けた。なお、このアンブロージョの行為については、現在も研究者の間で様々な解釈・議論がなされている。

最も劇的な事件は、390年にギリシャの都市テッサロニカで発生した暴動の流血の惨事をめぐる事件だ。この暴動で皇帝の高級官吏が殺害された際、テオドシウス帝は、知らせを受けた際に激怒し住民すべて虐殺せよと命じた。その後アンブロージョの介入により、皇帝は命令撤回を了解したが、その知らせが現地に届くのが遅れたため、すでにテッサロニカの住民7000名が虐殺されていた。これに対するアンブロージョの処置は非常に厳格で、皇帝に対し、公の贖罪を命じ、贖罪が完了するまでミサへの参加を禁じた。テオドシウス帝は教会からの支援を失わないために司教の命令に従わざるをえなかったため、これにより皇帝の尊厳はさらに減少した。

●テオドシウス帝による「キリスト教」国教化、カトリック正当化
しかし、これらの対立は二人の関係を根本のところで損ねたわけではなく、391年、テオドシウス帝は、ミラノで公的な異教信仰を全面的に禁止し、違反者には厳格な罪を与える勅令を発した。
392年、ヴァレンティニアーノ2世が没し、テオドシウス帝は文字通り、帝国全体の皇帝となる。
392年、テオドシウス帝は、キリスト教を国教とし、カトリックのみを正当化し、他の宗教を禁止する。これにより、313年にコンスタンティヌウス帝により、それまで迫害されていた「キリスト教」信仰を含むあらゆる信仰の自由が保障されてから80年あまりの年月の間に、「キリスト教」の立場は逆転し、異教信仰や他のキリスト教を異端とし、唯一の「国教」の座につくことになった。

●ミラノ、一つの時代の終局
395年、テオドシウス帝はヴァンダル族出身のスティルコーンを「軍総司令官」に任命。同帝はその後、息子二人に帝国を二分した後48歳で病死する。西方をホノリウス帝としてスティルコーンを後見人とし、東方をアルカディウス帝とする。テオドシウス帝没により、統一組織としてのローマ帝国は終了し東西に分裂することになる。

その2年後、397年4月、司教アンブロージョはミラノで67歳で亡くなった。司教の死後5年後の402年、西ローマ帝国皇帝ホノリウス帝は、蛮族の侵入を案じ、防御の面でより安全とみなすラヴェンナにミラノから首都を移し、「帝国首都ミラノ」の時代は閉じることになる。

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「信仰の自由」を前提とした現代社会に生きる私たち、特に非キリスト教者にとっては、時として、アンブロージョの異教信仰へのあくなき戦い、同じキリスト教でもアリウス派への決定的な弾劾を通して、正統カトリックを主唱する姿勢に対し、そこまでしなくても、という「違和感」を感じるむきがあるかもしれない。また、当初は、対立する両派の宗教的な和解を求めて司教に任命されたにもかかわらず、その後、一方のみを正当化することにとまどいを抱く人もいるかもしれない。

しかし、当時の「宗教」とはいくつかあるメニューから個人で好きな宗教を選択し、多様性を尊重しながら共存するという種類のものではなかった。一神教の宗教であり、正しいものは一つのみという信念で守り、それに反するものは排除していくものであったのだろう。宗教の方向性が社会全体の政治の仕組みをも決定づける時代において、妥協は許されず、勝つか負けるかという戦いを通して勝ち取っていくものであったのだろう。

また、広大な帝国内に様々な民族の共存し、蛮族の侵入により帝国自体の存続の危機に直面していた帝政後期においては、政治的社会的な統一を図るためには、宗教的統一が何よりも必要という判断が、皇帝側にも、アンブロージョ側にあったといえよう。求心力を失くしつつある帝政ローマを、新たに結束させるものとしてキリスト教のカトリック信仰をとらえたのだろう。それはアンブロージョが帝国の有能な高級官吏、たぐいまれな実務家で、古代末期の帝国政治を知り尽くした人物であったことも少なからず影響したのであろう。

いずれにしても、アンブロージョの時代に帝国でキリスト教が国教化され、カトリックが正統派という位置づけが決定化したことは、帝国の西方社会の基本文化を決定づけることになった。400年前にパレスチナの片隅で生まれたキリスト教は、アンブロージョの多大な功績にもよって、ローマ人の精神生活を支配するようになったともいえよう。それが、西ローマ帝国崩壊後、キリスト教が社会の隅々まで溶け込んだ世界、すなわち中世におけるキリスト教ヨーロッパ社会の基盤となり、そして、現代西洋社会自体の歴史を形成することになるのだ。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■Museo Archeologico Milano ミラノ市立考古学博物館  
住所:Corso Magenta 15
開館時間: 9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
www.museoarcheologicomilano.it/

■スフォルツエスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■ミラノ司教座博物館 Museo Diocesano di Milano

所在地:Piazza Sant’Eustorgio 3
開館時間:10.00-18.00 月曜休館
入館料:8ユーロ
https://chiostrisanteustorgio.it/ 

■サン・ジョヴァンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂  Battistero di San Giovanni alle Fonti
ドゥオーモ 考古学遺跡 
所在地:Piazza Duomo
ドゥオーモに入り、正面入り口近くの階段を下ると「考古学遺跡」として、聖アンブロージョの建立した「サン・ジョヴァンニ・アッレ・フォンティ洗礼堂」等の見学が可能。
開館時間:9:00-17:00
入館料:ドゥオーモ + 考古学遺跡(洗礼堂):7ユーロ
https://www.duomomilano.it/en/

■聖アンブロージョ聖堂  Basilica di Sant’Ambrogio
所在地:Piazza S.Ambrogio
開館時間:7:30−12:30 14:30-19:00
サン・ヴィットーレ・イン・チェロドーロ小礼拝堂 
Sacello di San Vittore in Ciel d’Oro
入館料:2ユーロ
http://www.basilicasantambrogio.it/

■聖ロレンツオ聖堂  Basilica di San Lorenzo Maggiore
所在地:Corso di Porta Ticinese 35
開館時間:月-金 8:00−18:30  土日 9:00−19:00
サンアクイリーノ小礼拝堂 sacello di Sant’Aquilino
(2019年3月現在全面修復のため閉館中)
http://www.sanlorenzomaggiore.com/

■聖ナザーロ聖堂 Basilica di San Nazaro Maggiore
所在地:Piazza San Nazaro in Brolo 5
開館時間:7:30−12:00、15:30−18:30

■聖シンプリチャーノ聖堂  Basilica di San Simpliciano
所在地:P.zza S. Simpliciano, 7
開館時間:7:00−12:00、15:00−19:00
http://www.sansimpliciano.it/

注:上記開館時間や入館料金などは変更される場合もあります。




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