JAPANITALY Travel On-line

 
イタリア旅行情報サイトJAPAN-ITALY Travel On-line
知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Luglio 2019

第4回

西暦千年、大司教を軸に再浮上するミラノ 

  
 文と写真   大島 悦子 

1.カール大帝の時代におけるミラノの展望
●国制の枠組みを「伯爵領」に再編成

744年、フランク王カールはロンゴバルド王国最後のデジデリオ王を打倒し、ロンゴバルドを征服、216年にわたるロンゴバルド王国は終結する。カールはロンゴバルド王国をフランク王国に併合し、その後は自らを「フランク人の王、そしてロンゴバルド人の王」と名乗ることになる。781年、カールは、第二子ピピン(781-810)を「イタリア王」に命じる。800年12月25日にはローマでカールは教皇レオ3世により西ローマ帝国皇帝として戴冠する。

国制の面では、征服当初は征服地の政治行政構造の急速な大変換はみられなかったが、787年ごろ、「大公領Ducato」を基本的な枠組みとしていたロンゴバルド体制に対して「伯」を軸にした「伯爵領Contea」に再編成される。伯爵担当者にはカール自らのフランク人の臣を任官した他、重要ポジションには段階的にフランク出身の人材を投入しロンゴバルド貴族階層と差し替えていった。伯爵が任地の伯領を世襲的に統治する仕組みをつくり、カロリング王権の支配は強固な基盤を構築した。一方で、ロンゴバルド時代の社会構造はほぼそのまま存続させ、大土地所有者も地域の中小貴族層も追放されることはなかった。

写真トップ@聖アンブロージョ聖堂の後陣部分。中央に金細工師ヴォルヴィニオによる「黄金の大祭壇」が輝き、その上には「漆喰の聖体用祭壇」がそびえる。

●新しい政治・地理的枠組み
さて、カールの王国の直接支配下に入ったことで、ミラノはどのような影響をうけたのだろう。
政治首都としてはパヴィアがカールの帝国でも維持されるが、ロンゴバルド王国時代に比べるとパヴィアの政治的パワーは弱まった。一方、ミラノには新たな政治的・地理的枠組みの中で新しい展望が生まれてくる。
第一には、カール大帝の帝国は、アルプス以北・ドイツ部分を主要領土としており、帝国の皇帝宮廷は北にあるため、イタリアは古代ローマ帝国への野心という上では重要であるものの、地理的には、イタリアは帝国内の「辺境の地」となった。ミラノも、ロンゴバルド時代に比べ、最高統治者である皇帝が距離的に遠隔にいるという地理条件のおかげで、実質的な「自治」を進める方向性につながることになった。
第二には、フランク王国は、聖アンブロージョの時代以降ミラノが担っていた宗教上の権威を重視し、優遇を与え、ミラノの教会勢力をフランク王国と融合強化するための宗教政策を推進したことである。事実、カールがロンゴバルド王国を征服した当時、ミラノ大司教区テリトリーは、聖アンブロージョの紀元4世紀に比べると減少したものの、それでも、現在のピエモンテ州とリグーリア州の全域、ロンバルディア州の大半に及んでおり、またミラノ教会は、ロンバルディアおよびリグーリアに莫大な所領地を所有しており経済力も誇っていた。カールにとっても北イタリアを首尾よく統治していくためには、ミラノ大司教区の権威と良好な関係を築くことが必要であった。

実際、カールはその宗教政策で、統治する領土内すべてにローマ教会祭礼制度の徹底普及を目指していたが、これはミラノにとっては、独自の「アンブロージョ祭礼方式」の断念を意味した。ロンゴバルドがフランク王国に併合される前からミラノ大司教区を統治していたトマーソ大司教以下、ミラノ側から断固反対を示され、カール王もミラノ教会の伝統の継承を許可せざるをえなかった。またカールとその宮廷がパヴィアに滞在した際は、カール王の末娘ジセラをミラノ大司教トマーゾに洗礼をうけさせるためにミラノにやってきている。

●「戦う司教」と「十分の一税」制度の導入
このような配慮はしつつも、カールはイタリアに、フランク王国の宗教政策を着々と導入していった。フランク王国では司教の都市支配や各地の修道院網を介して、当該地方を王権のもとに統合する政策が行われていた。司教や修道院長など高位聖職者は宗教分野だけでなく王国の行政機関の一役を担い、さらには王国の戦争の際は、軍事面での貢献も課されていた。カロリング朝の教会法では、司祭や助祭が武器を持つことは禁止されていたが、司教や修道院長に対しては適用されておらず、逆に司教や修道院長は、軍事派遣の際は自ら武装して参加する義務と、配下の封臣による軍隊を指揮管理する責任も担わされていた。イタリアでもこの「戦う司教」の役割が高位聖職者に適用されていった。

また、フランク王国の農村部で実施されていた農民全体を厳密に地域割りさせた地区教会に配属させ、農民は地区教会に「十分の一税」を支払うという制度を、フランク人の聖職者をイタリアにも多数投入してイタリアでも導入された。「十分の一税」は地区教会に対し、農産物や畜産物の十分の一を現物で支払う形であり、地区教会の所得源となり、司教区の経済基盤の安定がはかられたことはいうまでもない。

このような宗教政策の導入により、ミラノでは、宗教面のみならず、行政面さらに軍事面でも、これまで以上にミラノ大司教の権威が拡大し、それがミラノの都市としての影響力強化につながっていくことになる。

●フランク出身ピエトロ大司教 「聖アンブロージョ修道院」創建
783年に前出トマーソ大司教が20年の任期を終えて没すると、カール王は784年にその後継者に、フランク王国出身のピエトロ(784-803)を選出させた。ピエトロはフランク王国の教会の高名な人物で、カロリング朝ルネッサンスの代表的学者アルクイーンからも高い信頼を寄せられてしかもカール王の家族ともつながりがあった。

写真上Aピエトロ大司教が8世紀末に創建した「聖アンブロージョ修道院」は、その後、再建・修復を重ね、現在、ミラノカトリック大学キャンパスとなっている。 

ピエトロ大司教がまず取り組んだのはミラノとフランク王国の世界を宗教面・政治面で結びつけることであった。そのため、ピエトロは、ミラノの宗教伝統上、最も重要な聖アンブロージョ聖堂の脇に、聖アンブロージョ修道院を創立した。そして同修道院に対し、キリストのため、聖アンブロージョや殉教者のため、フランク王国とその王のため、そしてミラノの平和と繁栄のために、修道僧が永久に祈り続けるという任務を課した。大司教の取り組みは、ミラノ教会の伝統に刺激を与え活性化させることになり、ミラノの聖職者および住民全体から大きな支持を獲得することとなった。
これに呼応し、790年カールは、同修道院に対し特別の恩恵を与える証書を発布し、カール自身も多大な寄進を行った。そして同修道院長はカール帝国の有力諸侯の一員という位置づけを持つこととなる。その後も、フランク王国の王や貴族から同修道院に対する重要な寄進が続き、数十年の間に、北イタリア全域に地所を持つ莫大な経済力を備えた宗教的中心となった。

同修道院は、カロリング・ルネッサンスのミラノにおける重要拠点ともなった。同修道院には「写本室」と図書館が置かれ、修道僧が文献の収集と書写(写本づくり)には励んだ。図書館には、当時のヨーロッパの文化中心地から手稿本が寄せられた。フランスから届いた巨大な百科事典の写本が製作され、医学や幾何学,詩編に関する手稿本も届いたなどの記録も残されている。  

●ポー川流域の河川交通と交易の拡大
フランク王国によるロンゴバルド王国の征服後、西ヨーロッパの交易として、アルプスの北から、アドリア海側へつながる新しい商業圏が発達していった。ロンゴバルド王の時代から、アドリア海沿いのヴェネツツイアやコマッキオ等との交易を発達してきたポ―川流域は、多数の運航可能な河川・水路網を備えており、さらにローマ時代からの主要街道沿いには、大手修道院による商人や巡礼者のための宿泊所も開設され、この新しい国際的交易ルートとしての役割に適応していった。
ロンゴバルド王国とフランク王国の間で紛争や緊張があった時代には、両国の国境通過は難しかったが、フランク王国による征服の後は、通行証明書という法制度は残ったものの、事実上、広大な帝国内の移動が容易になったことも、ポー川流域の交易の発達に貢献した。

●交易の手配や取引仲介等を行う「商人」の活躍
当時、ポー川流域の商業の中心となる港と主要市場は王国の首都パヴィアにおかれていた。パヴィアはポー川とティチーノ川が合流し航海可能な路線の最終点にあり、ここから、陸路でローマ方面、ミラノ方面、さらに、ドイツ方面への道とつながっていた。パヴィアは国際交易の拠点となり、ミラノの大司教や聖アンブロージョ修道院をはじめ北イタリアの主要な教会や修道院が出張拠点をかまえ、修道院の広大な所有領の各地農園で生産される農産物をパヴィアに集め、それを市場で取引するための倉庫の役目も持っていた。これらの取引を任されていたのが、イタリア語で「ネゴツイアトーレNegoziatore」と呼ばれる「商人」であった。
9世紀、10世紀には、河港や市場の数も増加し、市場のあるところには「商人」の存在があり、次第に自らが船舶を購入し船主となる資本を形成するようになった。ミラノでも、これら「商人」が活躍し、ポー川はミラノ近くを流れるランブロ川とつながり、市内の水路を通り、毎日ミラノに品々が運ばれていたという。次第に、「商人」は市場や港に活力を与え、儲けも増大していく。当初は修道院の勢力圏で活動していた「商人」たちも、自らの取引も行うようになり、経済力、発言力もアップしていく。

2.カール大帝没後の帝国分割と混乱
814年にカール大帝が没すると、その統治と相続をめぐる子孫たちの抗争の結果、帝国は分裂した。843年、ヴェルダン条約によって帝国が三分割され、現在のイタリア、フランス、ドイツの輪郭が定まり、870年にはメルセン条約により、三国の基本境界が形成された。879年にカール三世肥満王がイタリア王を兼ね、881年には皇帝となる。

●大司教アンジルベルト2世の時代
イタリア王国は王位をめぐる争いが続く中、ミラノは、大司教アンジルベルト2世(824-859)の時代に発展の道を進める。アンジルベルト2世もフランク出身であり、帝国普遍主義をよく理解していたが、帝国内のイタリア王国におけるミラノの利益を守り、都市ミラノを繁栄させる政策をすすめた。同大司教の期間は実に35年間に達し、ミラノ全体の合意を得るとともに政治面でも存在感を示した。830年頃、イタリア王ロタール1世が父である皇帝に反抗した時には、王と皇帝との間の仲介役も行い、その結果ロタールから深く感謝され、840年にロタールが父の後、皇帝につくと、アンジルベルトは「皇帝特使」の任務も担っている。

●金細工師ヴォルヴィニオによる「黄金の大祭壇」
アンジルベルトの業績で最もミラノ人の感動を勝ち得たのは、聖アンブロージョ聖堂に対する大司教からの献納物として、金細工師ヴォルヴィオニオにつくらせた、金銀の装飾で飾られた「大祭壇」であろう。四面を金と銀の打ち出し細工を施した板で囲い、宝石・七宝のはめ込まれた祭壇であり、中世ヨーロッパ金銀細工の大傑作といわれている。ミラノは教会勢力を中心にカロリング朝時代芸術分野でも活発な繁栄を見るが、これはまさに当時のミラノの工房の頂点をみせる作品である。大祭壇の正面(黄金)には、キリストの生涯が12枚のパネルにわけて描かれ、中心にはキリストを十二使徒が囲む。裏面(銀色)には聖アンブロージョ伝が描かれている。

 写真上左B聖アンブロージョ聖堂「黄金の大祭壇」の正面    写真上右C同「黄金の大祭壇」の側面    

特筆すべきは、金細工師ヴォルヴィオニオが、聖アンブロージョから冠をさずかる自身の姿と署名をいれており、制作者が自作に自身の姿と署名をいれた最初の例とされている。依頼主のアンジルベルトもこの奉納品を永遠に記憶させるために、大祭壇の模型を奉納するアンジルベルトにアンブロ―ジュが冠をさずける場面も表現させている。

写真上左D大司教アンジルベルトが聖アンブロージョから冠をさずかる場面 写真上左E金細工師ヴォルヴィオニオが聖アンブロージョから冠をさずかる場面 

大司教は、聖アンブロージョ神話を強調することでミラノの威厳とアイデンティを改めて確立すること、同時に、アンブロージョが同時代の聖マルティーノ(その後、フランク王国の守護聖人となる)の葬儀に参加したというエピソードを描くことで、ミラノとフランク帝国との融合も意図していたとされる。

この大祭壇へのフランク側からの反響は大きく、イタリアに移住しイタリア王国の支配層を構成していたフランク出身者から、多数の膨大な地所の寄進を受け取り、ミラノ教会の影響力は戦略的に重要な地域に大きく広がることになる。859年、アンジルベルト2世は再び、皇帝特使に任命され、イタリア王国の政治および宗教情勢に関する調査も行い、王国官吏による権力濫用や不正行為などの告発も行っている。

●大司教アンスペルトの時代
アンスペルト大司教(869-881)はミラノ郊外の富裕なロンゴバルド族家門の出身であったが、フランク帝国におけるミラノの政治的・宗教的な立ち位置を十分に理解しており、重要なポジションを築いた。彼も874年には皇帝特使に任命されている。
875年に皇帝でありイタリア王であるルードヴィヒ2世が相続人を残さずブレーシャで死去した際には、自らブレーシャに出向き、遺体をミラノに運び、聖アンブロージョ聖堂のカロリング王朝の二人のイタリア王、ピピンとベルナルドのそばに埋葬させた。これにより「王国の墓の守り人」として、ルードヴィヒ2世の後継者をめぐる争いでも主導権をとり、イタリアの新王としてカール2世(禿頭王) をパヴィアで戴冠させた。カール2世(禿頭王)はその支援に応えるため、ミラノおよびパヴィアの王国地所を、ミラノ教会に寄進した。

さらに、アンスペルト大司教は、宗教建築物およびミラノ公共建造物に対する事業も行っている。876年頃、ミラノの中心地、現在のトリノ通沿いに「聖・サティロの祈祷用小礼拝堂」を建設した。現在も、当時の礼拝堂のオリジナル建造部分が保存されており、カロリング朝時代に建てられ現在まで残る数少ない建築物の一つである。その後879年、アンスペルトはその遺言状により、この場所を貧者や孤児たちの救済所、またミラノを訪れる巡礼者を支援する所として活用することを命じ、必要な財政手配も寄進している。

写真上左F「聖・サティロの祈祷用小礼拝堂」 (サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会内)  
中心部のピエタ彫刻は16世紀の作品 
写真上右G中央の円形の低い建物が「聖・サティロの祈祷用小礼拝堂」 (Via Falcone側から撮影)

また、聖アンブロージョ聖堂の手前に回廊で囲まれた四角形の「前庭(アトリウム)」を建設し、これが同聖堂の建築的特色となっている。
877年のカール2世(禿頭王)没後の混乱時には、ミラノ防御のためアンスペルトは市壁の修復・再建も行い、その際に修復された塔の一つが、現在もミラノ考古学博物館敷地内に残る「アンスペルトの塔」である。

写真上左H聖アンブロージョ聖堂の手前の回廊で囲まれた四角形の「前庭(アトリウム)」  
写真上右Iミラノ考古学博物館敷地内に残る「アンスペルトの塔」


●独立イタリア王国時代の混乱を利用しミラノ大司教は特権を獲得
888年のイタリア王カール三世の死により、イタリアにおけるカロリング朝の男系が断絶する。そのため、イタリア王国がフランク帝国から独立し、女系でカロリング朝の諸侯が相次いでイタリア王位につき、激しい争いが続いた。
半世紀以上にわたって続いた中央権力と公的機構の危機の中で、ミラノ大司教たちは王国の王座をめぐる候補者たちの争いを利用し、経済的・政治的な特権を獲得した。イタリア王王冠は皇帝帝冠の条件と考えられていたため、その争奪戦となるが、大司教は王冠を求める者にとっては是非味方にについてほしい強力な存在であるため、その支援に対しては、高い代償を与える用意があった。実際9世紀末から10世紀半ばのこの時期、ミラノ教会は教会として修道院として、王冠を狙う人々から地所や徴税権などの権利の寄進を受けた。

●マジャール人の脅威を前に司教が町を防衛
さらに、ヨーロッパ各地を襲っていたマジャール人が、889年以降、イタリアにも侵入を開始し、その暴力的な急襲の脅威による混乱が深刻化した。それに対し王国軍隊の無能さが露呈したこともあり、イタリア各都市で司教たちは独自に都市の防衛を担い、農村地域においては大土地所有者が城壁を築き、テリトリー防護に貢献する勢力の中心となった。ミラノでも都市住民は大司教のまわりに身を寄せ、軍事貴族とともに、大司教は自ら武器を持って防衛にあたった。それは司教の権威を拡大させ、住民の団結も強固にする結果を導いた。

カロリング朝以後の不安定な空気の中で、イタリア中で司教の権威は高まり、カロリング王朝時代の政治機構では伯爵や侯爵が担っていた行政的な権威を担うようになってきた。当時の皇帝や王からロンバルディアの司教に与えられた証書などにより、市壁、市門、塔などの管理、司法権、市場開設権、徴税権など司教に次第に譲渡されていった行政的権力がいかに広いものであったかが立証される。

3.オットー皇帝の時代
936年に東フランク王となったザクセン朝オットー1世は、各地の貴族の反乱をおさえ、全ドイツの三分の2を支配するにいたった。イタリアでは、950年にイタリア王位についていたイヴレア候ベレンガリオ2世とその子アダベルトと、前国王ロタール3世の未亡人アデライデとの抗争がおこっていた。オットー1世はこれを利用し951年にイタリアに進出し、イタリア王を宣言しアデライデと結婚。955年には、レッヒフェルトの戦いでマジャール人に対して決定的な勝利を収めた。
962年オットー1世はローマで教皇により帝冠を受ける。963年イタリア国王ベレンガリオ2世を廃位しイタリア国王をかねた。これにより「独立イタリア王国」の時代は終わり、これ以降、イタリア王国は神聖ローマ帝国に併合され、イタリア王位は同皇帝が兼ねることになる。

オットー1世の子オットー2世も、孫であるオットー3世もオットー1世の普遍的帝国再建の計画を志し、特にオットー3世は、かってのアウグストウスの帝国再建を夢想したが、わずか22歳で亡くなり、この計画は挫折した。

●ミラノ大司教とオットー皇帝との協力関係強化
ミラノ大司教は、オットー1世のベレンガリオ2世に対する戦いでは常にオットー側を支持し、オットー1世も勝利後はその功績を認めて多数の城を寄進し、このおかげで、ミラノは主要交通軸の統括が可能となった。
ミラノでは事実上、それ以前も大司教は文民統治の面での役割を担っていたが、オットー1世は、それを公認・強化することで大司教に「君主」的な役割を持たせる政策を進め、神聖ローマ帝国とミラノ大司教の間の強い協力関係の時代が始まった。とはいえ、オットー1世もその後継者も、司教権力の極度な拡大を望んだわけではなく、大司教の権力を抑制するため、ミラノ大司教には自分の望む人物を推し進めた。これにより、それまでミラノ大司教が担ってきたミラノを全面的に代表する機能にひびが入ることになる。    

●オットー皇帝を礼賛する芸術作品
事実、その後、オットーの支援で選出された大司教たちは、オットーの政策への積極的協力することを最優先させた。当時のオットーを礼賛する芸術作品にもその姿勢が顕著に表れている。
アルノルフォ1世大司教(968年―973年)の製作とされる、聖アンブロージョ聖堂の「漆喰の聖体用祭壇」は、四面を持つが、北面と南面には、オット―1世とオット―2世およびその妻、アデライデと、テオファノとの姿も描かれている。

写真上J聖アンブロージョ聖堂の「漆喰の聖体用祭壇」の正面

次のゴトフレッド大司教(974-979)は、オット―2世がローマで戴冠後、ミラノに寄った際、象牙製彫刻の施された「小さな手桶」を寄進している。祈祷用の手桶型のかごであり、前面には小アーチの下に聖母マリアと幼子イエスの姿が表現されている。

写真上左K象牙製彫刻の施された「小さな手桶」  
写真上右L象牙製のプレート「オットー皇帝の家族 Otto Imperatore」

現在、スフォルツエスコ城博物館に所蔵されている同じく象牙製のプレート「オットー皇帝の家族 Otto Imperatore」もほぼ同時代の作品とされている。オットー皇帝一家がキリストに贈り物をするシーンで、キリストは聖母マリア(右側)と聖マウリツイオ(左側)に囲まれ、二人の天使に見守られている。その足元に、オット―2世とその妻テオファノ、幼児オット―3世が服従の姿勢をとっており、神と人類をつなぐ役割を表現し、神政政治の教義普及のツールとしても活用されたといわれている。なおオット―3世は980年生まれで、983年、3歳の時に父親のオットー2世から帝位を継承されている。
いずれもミラノ工房の製作とされているが、当時のドイツ派表現に忠実に描かれた作品である。

●大司教の「封」を受ける封臣層「カピタネイ」とのヒエラルキー形成
983年に、これまた熱心な皇帝支持者であるランドルフォ2世がミラノ大司教に選出された。その選出過程への嫌疑とミラノのすべてを支配しようとする「君主のような圧政」に対し、聖職者およびミラノ住民から暴力的反乱がおこり、ランドルフォ2世とその支持者である中小領主層は、ミラノから逃げざるをえない羽目に陥った。その後、大司教は、再びミラノに戻る際、武力で大司教を防護した中小領主層に対して、ミラノ教会所領の多くの地所と経済的特権を彼らに「封」として譲渡することでその労に報いることを余技なくされる。

大司教から「封」を受けた、これら中小領主層は大司教の「大規模封臣」となり、「カピタネイ」と呼ばれ、その恩恵と保護の代わりに、有事の場合は武装軍により大司教の支援を行うことが義務づけられる。これにより、大司教が掌握していた、地区教会の「十分の一税」の徴収権、地区の裁判権などを、カピタネイが享受し、地域の領主的立場を持つようになったのである。カピタネイは強い権力を持つようになり、そして大司教とカピタネイの間には、ミラノの経済・政治・社会面において、共通の利益を持つ強い絆が構築されるようになる。

その後、カピタネイは、自らの支配領域である「教区」をさらに自分の下級封臣に渡し、自らは都市に移住した。カピタネイと家臣関係にある陪臣層は「ヴァルヴァソーリ」と呼ばれる。これにより、「大司教」−「カピタネイ」―「ヴァルヴァソーリ」の封建的ヒエラルキーが形成された。ヴァルヴァソーリはカピタネイから授封された土地への支配力強化を求め、カピタネイと対立するようになる。

●大司教アルノルフォ2世の時代
まさに、この「カピタネイ」家門出身のミラノ大司教アルノルフォ2世(988-1018)は、皇帝オットー2世から厚い信頼を受け、同皇帝の息子オットー3世の妃として東ローマ帝国皇帝の娘をむかえに行くという重責を依頼され、コンスタンティノーブルまで派遣された。アルノルフォ2世は首尾よくことを運び、花嫁を伴い帰路についたが、1002年オットー3世の早すぎる他界によりその旅は意味のないものになった。しかし、数々の贈り物を伴い、大司教は賞賛を受けミラノに戻ってきた。現在も聖アンブロージョ聖堂内にある「蛇ブロンズ像」もその際の東ローマ帝国からの寄贈品の一つである。

写真上M聖アンブロージョ聖堂内の「蛇ブロンズ像」

オットー3世没後、イタリア王国では後継者さがしの危機がおこった。イヴレア辺境伯アルドイウーノが勢力を拡大し、1002年に、一部のイタリア諸侯によってパヴィアでイタリア王に選出された。アルドウイーノに敵対するイタリア諸侯の求めに応じて、ドイツ王ハインリッヒ2世が1004年イタリアに遠征し、パヴィアでイタリア国王に即位したが、住民の反乱にあってドイツに帰還したため、アルドウイーノは権威を回復した。これに対し、アルノルフォ2世は、ドイツ王ハインリッヒ2世を軍事的にも支持し、勝利へと導くことで、最終的に1014年にローマで皇帝戴冠が実現する。アルノルフォ2世はその支持への見返りに、ハインリッヒ2世からセプリオ、マッジョーレ湖などの地所の税徴収権等を獲得し、皇帝に対するミラノ大司教の権威はさらに高まった。                             

4.西暦千年頃に新しい春を迎えるイタリア
中世ヨーロッパの人口はゲルマン民族の移動期から6世紀末までは戦いや飢餓、疫病などのために減少傾向を示し、その後も、減少あるいは停滞傾向にあったが、9世紀以降増加傾向に転じ、紀元1000年代に入ると、開墾と農業技術の改良などによる食糧事情改善によって人口は飛躍的に増加していった。
イタリアもまた、それまでの気候的困難、大地震や深刻な飢饉や疫病の後で、自然の再びの目覚めが顕著であり、豊作が続き、経済発展と、社会変動に満ちた新時代の幕開けをむかえた。
とりわけポ―川流域平原の様々な大河川の近くでは大規模な治水事業により、広大な未開の土地が耕地に生まれ変わった。都市にとっても、新たな活力の始まりとなり、その後何世紀かにわたって農村部から都市部への移住現象が絶え間なく続くこととなった。

●紀元1000年代のミラノの姿
ミラノも成長期にあり、ミラノの市壁はその中にだけ住民をいれておくのは難しくなっていた。ミラノの市壁の周囲は、ローマ時代(紀元1世紀)に約3500メートルあったが、その後1000年間の間に、何度も破壊や修復が繰り返されたものの、全体的にはごく一部が拡大や手直しを加えられただけで、周囲も4500メートルに拡大しただけであった。
市壁には、6つの主となる市門と、さらに小さな市門が3つ、計9つの市門が存在していた。市門は、開かれた出入口であると同時に、通行税や関税の徴収、ときには運行管理も行う関所でもあった。市壁に囲まれた都市の景観で目をひいたのは塔の存在でこの時代310もの塔があったと記されている。特に6つの市門上には防衛のため建設された6つの塔があり、構造は円形であったとされている。当時の塔で現在残っているのが上記した「アンスペルトの塔」(写真I)である。

防衛目的、また自然水路に不足していたミラノ市内の水上交通網をよくするため、この時代、ミラノでは、堀がはりめぐらされ、東側はセヴェーゾ川、西側はニローネ川、さらにはオローナ川からの水が供給されていた。
ローマ時代のテルメ、テアトロ、チルコなどの大規模公共建築物の名残跡も存在していたが、何よりもこの時期の特色は多数の宗教建築物の存在である。市壁内に、7つの修道院、そして、初期キリスト教時代以降、カロリング朝時代に建設された教会が30以上あった。市壁のすぐ外の古い墓地地域には、4世紀ころからミラノを近隣中心都市に結ぶ主要街道の軸にそってミラノを囲むように大規模な聖堂がそびえていたが、さらに新しい修道院の建築工事も当時進められていた。

●ミラノの活況と「市民層Cives」の形成
ミラノの人口も成長していた。10世紀末に多くの犠牲者をだしたペストを克服してしばらく時間がたっており出生率も上昇していた。しかしミラノの人口増加は、何よりも、周辺地域から多くの人が入り込んできたためである。都市は交換や商業の中心としてにぎわい、10-11世紀に、経済の好景気の中で、「封臣層」には属さない「市民層Cives」の集団が活発な動きをおこし、経済的・社会的な変化が都市内で進んでいった。なお「Cives」は広義な市民層を意味するが、従来から市内に住んでいた者に加えて、特に都市経済の活況に魅かれて、農村部から都市部に移住してきた層が多い。判事、公証人、法律専門家など専門職、都市および周辺部の土地・不動産所有者で地所の売買や農産物の交易にも携わる有力商人、貨幣業者、河川運航・交易をつかさどる商人などである。

これにともない、市壁内に残っていた畑や空き地には、新たな住居が立っていった。市壁内には入りきれず、多くの住民が市壁のすぐ外、あるいは市門のそばの「ボルゴ」と呼ばれる地域に住むようなっていた。建材もそれまでの木造・わらぶき建造物にかわって、石造り、レンガ造りの家が増えてきた。

5.アリベルト・ダ・インティミアーノの時代(1018―1045)
このようにミラノに活気が満ち、大司教の力が最大限に上昇した時期、1018年に、アリベルト・ダ・インティミアーノ Ariberto da Intimianoがミラノ大司教に選出される。

アリベルトはミラノの北、カンツーの小村インティミアーノ村の富裕なロンゴバルド家門の出身であり、類い稀な能力と権力を駆使し、広大なミラノ大司教区を野心的に25年にわたって統括し「ミラノ教会の黄金時代」を築いた。同時に、北イタリアの政治シーンも掌握し、ミラノをヨーロッパの政治の表舞台に再浮上させた。また、新しい感性に富む芸術作品の発注者としても知られている。

アリベルトは、前記したアルノルフォ2世の時代、ミラノ教会の若い副司祭であったが、1007年、地元のガッリアーノのサン・ヴィンチェンツオ教会を再建し、壁面を大掛かりなフレスコ画で飾った。後陣には大天使、預言者、そして聖人たちに囲まれたキリストが描かれ、下部の帯状装飾からは果実や鳥たちがほとばしり、あたかも天国の贈物を象徴するかのようである。特筆すべきは、フレスコ画には同教会の模型をキリストに献上する自身の像も描かせ、自身の記念碑的意味ももたせていることだ。

写真下左Nガッリアーノのサン・ヴィンチェンツオ教会  写真下右O同教会内部の壁面フレスコ画
写真上P同教会内部の壁面フレスコ画に描かれた「アリベルトが教会模型をキリストに献上する姿」

1016年にはアルドウイン派最後の抵抗に立ち向かうハインリッヒ2世を支持する上で重要な役割を果たしたこともあり、1018年にアルノルフォが没すると、その後継者に選出されたのは自然な成り行きだった。

●皇帝コンラード2世を強く支持
1024年7月3日にハインリッヒ2世が没すると、アリベルトはイタリア王国の他の司教たちの意向とは反対に、コスタンツアまで自ら馬を走らせ、新ドイツ王、ザーリア家のコンラード2世に忠誠を誓い、コンラード2世にイタリア王王冠を保証する上で重要な役割を果たした。一方、首都パヴィアでは、ハインリッヒ2世没の知らせに、ドイツ王によるイタリア王国支配の終わったと思った住民が歓喜のあまり、王国権力の象徴、王宮を破壊した。したがって伝承では、パヴィアではなく、ミラノのおそらく聖アンブロージョ聖堂で、1026年にアリベルトの手で、コンラード2世はイタリア王を戴冠されたと伝えられている。

その後、コンラード2世は各地の反乱を抑えて南下し、1027年にローマで皇帝に戴冠されるが、この遠征もコンラードの脇でアリベルトは軍事的にも支援した。その代償に、新皇帝からミラノ教会に対して数々の地所や特権が与えられ、ミラノ大司教区の周辺テリトリーにおける覇権政策も進み、それはミラノ市民にも深く伝わり満足感を与えるものであった。
この頃、アリベルトは聖アンブロージョが建立したと聖ディオニジ聖堂のそばに聖ディオニジ修道院を創設し、アリベルトはここに葬られることを予定した。

●民衆を守る公的利益にかかわる具体策を実行
アリベルトは公的利益にかかわる施策も積極的に実行した。1026年にミラノを襲った飢饉の際は、多くの貧者、生活困窮者、未亡人や孤児などを前に、直ちに行動を起こした。粉屋の代表者5名を召喚し、対価を取り決めた上で、飢饉が収束するまで、他の業務すべてを中断して、日夜休みなく働き、毎朝8000個のパンを、大司教の使いの者に納品するようにと命じている。別の関係者には、豆類の調達を指示しこれも毎日、慈善担当者に一定量提出するよう命じた。さらに自らの手で、毎月定期的に、貧者に新品の衣料品と現金の配布を実施している。このようにアリベルトの活動は、具体的であり、聖職者による貧者に対する慈悲活動の絆を超えており、政府統治者による統治する町への行動ともいえるものであった。

また、合い続く紛争に困窮した農場者や商人から、経済活動を優遇してほしいという要望に応えて、アリベルトは「神の休戦」制度を促進させた。すなわち、木曜から月曜まで毎週4日間「休戦」を義務付けるという仕組みである。

●ブルグント王国征服戦にも自ら武装軍を率いて参加
1034年、皇帝コンラード2世は、ブルグント王国(ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランス、スイスにまたがっている)の不穏な動きを前に、同王国の帝国への編入をはかり、イタリア王国からの加勢を得るために、大司教アリベルトと、中部イタリアのトスカーナ辺境伯、カノッサのボニファーチョに支援を依頼した。皇帝の大封建領主であるボニファーチョと同じレベルでミラノ大司教はこの戦いに応じたことになる。なお、ボニファーチョ伯の娘が、「カノッサの屈辱」で有名なマティルダ・ディ・カノッサである。

アリベルト指揮のミラノ軍とカノッサのボニファーチョ軍は、アルプスを超え、皇帝軍と合流し、リオンやジュネーブを攻撃し、難なくブルグント王国を征服する。1034年8月には、アリベルトがコンラード2世をブルグント王として戴冠したとされている。これによりイタリアと南フランス大諸侯との結びつきを破壊したことで、帝国とイタリアとの関係はより緊密になった。アリベルトは援助の見返りに、皇帝から複数の重要な修道院の統治権をはじめとする重要な譲渡を得た。さらに、アリベルト統治の時代、ミラノ大司教は多数の城塞からなる一連のベルト地域を統治下におき、マッジョーレ湖からレッコ湖、トレーギオにいたる、ロンバルディアとアルプス向こうをつなぐ交通網へのアクセスを支配下におさめた。

一方、コンラード2世のブルグント攻撃に反対したミラノ伯はその結果没落したため、伯の所領を事実上取得した伯の封臣を大司教のもとに結集させることでアリベルトの威信は内外で高まった。

●ブルグント戦後にアリベルトへの不満、反乱に 
このようにブルグント王国戦線の勝利でアリベルトがその権力の頂点に達したその時に、彼の下降フェーズが始まった。
この戦線へのコンラード2世の呼びかけに対し、ミラノ大司教の封臣たちは「カピタネイ」も「ヴァルヴァソーリ」も、多大な軍事負担を担い情熱を持って参加したものの、戦いが速やかに解決し、当初狙っていた領地的な恩恵も経済的特権も何も得ることができなかったため、封臣たちの幻滅は大きかった。中でも、カピタネイに比べて弱い立場のヴァルヴァソーリは、同様に戦ったのに何の恩恵もなかったことへの不満は強く、カピタネイへの敵対心だけでなく、カピタネイを擁護する大司教への反発を強めていった。

ヴァルヴァソーリはカピタネイのみの特権であった封土の世襲制の許可を得ることを熱望し、力をつけ、次第に都市にも勢力をのばしてきたが、アリベルトがそれに抵抗する姿勢を示したため、1035年ヴァルヴァッソリによる大司教に対する反乱がミラノ市内で勃発した。大司教自ら武器をとり、特権を失うことを恐れたカピタネイが大司教を加勢し、大司教側が勝利したため、ヴァルヴァソーリ側はミラノから追放される。追放された側に、元から大司教の権力を嫌っていたセプリオやマルテサーナ地域の住民が協力し、さらにはパヴィア、クレモナ、ローディなど日頃からミラノの覇権を苦々しく思っていた近隣都市などもヴァルヴァソーリ側と一体となった。

1035年12月7日には、ミラノとパヴィア間の「カンポマーロ」の戦いで、両者の激しい戦いが行われ多数の犠牲者をだした。戦いの結末は定かではないが、これを契機に、両者の側から、皇帝に審判を仰ごうということになり、コンラード2世が招かれることになった。

●皇帝コンラード2世、イタリアへ
秩序回復を行うためにイタリアにむかったコンラード2世は、この混乱を利用して拡大一方の大司教と大封臣層の力をそごうとした。一方、ミラノの「市民層Cives」はミラノの社会層間の紛争に皇帝が直接、暴力的な干渉を行うことを恐れ、1037年3月、コンラード到着の翌日、アリベルトが聖アンブロージョ聖堂で壮大に同帝を歓迎している席で、皇帝に対する反乱を起こした。そのため、コンラード2世はパヴィアに避難せざるをえなかった。コンラード2世は直ちにパヴィアで国会を開催し、アリベルトも召喚し、アリベルトを権力濫用の罪で非難しその場で逮捕し、ピアツエンツア近くの城に投獄した。

アリベルト逮捕の知らせは、ミラノへの大侮辱と受け止められ、ミラノの町全体で大変な騒ぎとなった。ミラノでは社会層間の内紛をひとまず中止し、ヴァルヴァソーリも含めてミラノ中すべての人々が一丸になって、皇帝に対し戦うための準備を始めた。

一方、アリベルトは謀略を使い脱獄に成功し、アペニーニ山脈を越えミラノに戻り、聖職者、封臣、市民すべてが歓喜で迎えた。アリベルトの投獄は2ケ月であったが、その間に、アリベルトがミラノの町全体の利益と理想を体現することをミラノ中の人々が確信し、それを脅かす皇帝に対し一体となって団結する必要性を理解したのであった。

●1037年「封土世襲令」の発布
この事態に憤慨したコンラード2世は、アリベルトに「帝国追放令」をだし、ミラノへ武力攻撃を開始するが、ミラノ側の優勢みて、武力ではなく、政治的手腕で有利に運ぼうとする戦略に変えた。ミラノの頑固な反皇帝路線を分断するために、下級封臣ヴァルヴァッソーリのかねてからの強い要求を受け、1037年5月28日、歴史上有名な「封土世襲令」を発布したのである。これは、ヴァルヴァッソーリに対しても、カピタネイがすでに享受していた権利と同じ封の世襲権を認めたものである。息子がいない場合は三親等の親族にまで世襲権を認め、封主の側の封土返還強制権を否定したものであった。
皇帝は、これにより、ヴァルヴァッソーリとカピタネイが対立することを期待したが、その効果はなく、ミラノ側はこれまで通り、大司教、カピタネイ、ヴァルヴァッソーリ、そしてCivesが一致団結し、皇帝側への抵抗をつづけた。

1038-39年にかけて、ミラノは、皇帝コンラー2世が派遣した皇帝軍とイタリアでも皇帝側に組した多くの諸侯たちの連合による激しい攻撃を受けた。これに対しアリベルトは「農民よ、貴族よ、富者も貧者も、故国ミラノを守るための」と軍事総動員を呼びかけ、ミラノの市壁をまもるためミラノ軍を指揮し、皇帝軍の攻撃に反撃した。コンラード2世は予期した成果の出ないまま、南イタリアに南下し、1038年の復活祭にはローマで教皇ベネディクト9世からアリベルトに対する「破門状」を取得し、そのあと、ドイツに帰った。

ミラノ側と皇帝軍がさらなる戦闘を始めようとしているときに、1039年6月4日、コンラード2世がユトレヒトで死去という知らせが届くと包囲軍は直ちに解消した。ミラノに再び平和と落ち着きが戻った。        

●「アリベルトの十字架」と「アリベルトの和平」
当時の帝国内で最も高品質な金細工工房が発展していた地域は北イタリアで、中でもミラノが際立っていた。アリベルトは、当時のヨーロッパ芸術作品の作風、作品に用いる貴重な素材の性格も熟知しており、斬新で芸術性の高い傑作を製作させたことでも知られている。         

その一つは「アリベルトの十字架」と呼ばれている礼拝用の十字架像のキリスト像である。苦しみを表現するゆがんだ口で、悲しみあふれる人間性に満ちた、死にゆくキリストの姿が非常に浅い浮彫で描かれている。注目すべきは、十字架下部に四角の後光の描かれた大司教本人が、サン・ディオニジ教会の模型を差し出す姿を描かせたことである。これは現在、ミラノ大聖堂博物館に所蔵されている。この十字架は、1037年から1039年の作品とされており、1037年にコンラード2世により投獄され、囚人生活をよぎなくされた、ドラマチックな出来事の危機から、生き残ったことを記念してつくられせたとされている。

写真上Q「アリベルトの十字架」    
写真下R「アリベルトの十字架」の下部に描かれたアリベルトが教会模型を差し出す姿

この十字架と同様にアリベルトによるもう一つの傑作が、「アリベルトの和平」と呼ばれる金細工の福音書カバーで、ミラノ大聖堂のためにアリベルトがつくらせたもので、これも現在ミラノ大聖堂博物館の所蔵。このカバーは打ち出し銀製に金張りされており、中心にキリストが描かれている。全体に宝石をちりばめ、七宝で豪華に飾られており、ミラノ教会の役割を宇宙的な救済の図柄で表し、ミラノ教会の優越性を表現しようというアリベルトの意図を反映している。ビザンチンの影響から解放された自由な様式を特色としている。

写真上左S福音書カバー「アリベルトの和平」     
写真上左(21)福音書カバー「アリベルトの和平」の一部ディテール(向かって真ん中右部分)

●急激に変化するミラノの現実
翌1040年の復活祭に、アリベルトは新皇帝ハインリッヒ3世に合うため、急いでドイツに向かった。そしてミラノ大司教の権威上も、新皇帝のイタリア王国における統治上も、両者に都合のいい形で皇帝との和平を再構築することができた。しかし、アリベルトがミラノに戻ってくると、ミラノの政治状況は決定的な変化をみせていた。共通の危険である皇帝の干渉が消えると、市民間の団結も無くなり、一時的に収まっていたミラノの社会階層間の緊張関係が、以前より激しい形で再発していたのである。

世襲令により下級封臣も上級封臣と同様の権利が保障されたことで、コンラード2世帝の予想とは逆に、両者間が一体となって統一戦線を組んでいた。ミラノ中が皇帝に対し戦っていた際は、アリベルトは独裁者としてミラノを支配していたが、今は大小規模の封臣たち一つの大きな政治勢力となっており、アリベルトはそれに反対する力もなくなっていた。

●CIVESによる「封臣層」に対する反乱
このように「封土世襲令」後に一つの層として結集した「封臣層」が横暴を極める中で、1042年、今度はミラノの「Cives」が、これら封臣達に反対する戦いを始めた。彼らは反皇帝戦線においては、故国防衛のために「封臣層」と一緒に武器を持って戦った人々であるが、「封臣層」の強大化する権力との対立が激しくなり、ついに反乱をおこしたのだ。次第に市民戦争となり、ついにミラノのCIVES側は、これら封建封臣層を町から追放した。老いた大司教は両者の仲介役もかなわず、ミラノを去った。追放された側は小競り合いを続け、攻撃を3年間続ける。

●1945年、両者間で「和平」宣誓
さて、「CIVES」にそれよりは社会的には低い市民層「ポポロ」も加わり、市民一体となって、大小封臣の統一戦線に対し戦ったが、両者の対決がさらに激化すると、1045年に、皇帝ハインリッヒ3世がミラノへの介入の意向を示した。
この外部からの干渉を前にして、またもや、皇帝からミラノの町を守るために、紛争中の二つの勢力は和平を見つけるための協定に至る。ここで、「カピタネイとヴァルヴァッソーリ」、「Civesとポポロ」、これら二つの勢力間で最初の「合意」の宣誓が行われることになる。

「合意」とはいっても、一時的な「休戦」の約束であった。またこの時点では、両者が暴力的な行為をしないという消去法的な約束事の段階であるが、全住民を対象とするものであった。いずれにしても、両者が、ここで軍事的な対決から、政治的な交渉という重要なプロセスを経験したことの意味は大きい。
その後、対決と和平を繰り返しながら、より高い次元での新しい合意にたどり着き、やがては、ミラノに「コムーネ自治都市」体制を築いていくことになる。そのプロセスにおいて、1045年の「合意」は決定的な一歩とされている。

同じ年1045年1月16日、アリベルト大司教はミラノに戻り多くの聖職者や封臣たちに囲まれながら、亡くなり、サン・ディオニジ教会に埋葬された。 
1045年は、ミラノの一つの時代のシンボルが消え、ミラノの新しい時代の始まる記念すべき年になったといえよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カールによるロンゴバルド王国征服以降、帝国の変遷や分割・混乱期の中で、ミラノがどのように変容していったかを、主として、ミラノ大司教の活動を通して整理してみた。この間、宗教、政治行政、軍事面で強い指導的役割を持ったミラノ大司教を軸とし、その周りで、ミラノの各社会層が様々な経験を重ね、結束や反発を続ける中で、都市ミラノの権威やパワーを向上していった。
そしてこの仕組みが頂点に達した時点で、「求心力」としての大司教の役割は終わり、各社会層間が、対立・和解を繰り返しながらも、自らの新たな統治体制をさぐるプロセスが始まることになる。

それにしても、ミラノの歴代の大司教の強い個性とあくなき権力への追求、特に大司教アリベルトの生き方には驚かざるをえない。イタリアの研究者の中でも、アリベルトについては、ミラノ教会だけでなくミラノの歴史上大きな功績を残したことは認めつつも、その人物像に対しては様々な意見が存在しているようだ。

一体、アリベルトにとっては、ミラノ大司教としての聖職者の務め、都市ミラノの権威、そして自分自身の権力を高めたいという強い願望を、彼自身の中でどのように折り合いをつけていたのだろうか。それは「Win Win」の関係だったのだろうか。そして、敵や味方を、その時その時、自らの側に都合のいい形で選択し、ひたすら前進するアリベルトの迅速な行動性や運動神経にも目を見張るものがある。 1007年、若い「助祭」時代に自らが再建した教会のフレスコ画に描かせた本人の姿からは、その活力と野心が伝わってくる。実際、その後、政治力、そして武力にもすぐれたカリスマ的リーダーに成長していった。だが、このフレスコ画から約30年後、晩年のアリベルトが創らせた二つの芸術作品からは、現在の私たちにもインパクトを与える、斬新な感性と特有の精神性を感じることもできる。興味の尽きない人物である。

また、ミラノ人の、自らの主張と権利を徹底的に主張し、武力を行使し、権力取得に立ち向かっていくエネルギーの強さにも驚かされる。と同時に印象的なのは、ミラノ人の共通する都市ミラノへの愛着、都市への帰属意識によって自己を感じる世界感、市民感情の強烈さである。「皇帝による干渉」という外部の共通の敵の出現の際は、内部紛争は休止して、結束して戦う。

いずれにしても、「和やコンセンサスの尊重」「自らの君主には生涯忠誠を」というコンセプトとはまったく異次元の世界、これが紀元1000年、再浮上してきたミラノの姿ということはできよう。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■ミラノ市立考古学博物館 Museo Archeologico Milano   
住所:Corso Magenta 15
開館時間: 9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
www.museoarcheologicomilano.it/

■スフォルツエスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■ミラノ大聖堂博物館 Museo del Duomo di Milano 
所在地:Piazza del Duomo 12
開館時間:10:00-18:00
入館料:3ユーロ (なお大聖堂入場券にミラノ大聖堂博物館も入館可能)
https://www.duomomilano.it/ 

■聖アンブロージョ聖堂  Basilica di Sant’Ambrogio
所在地:Piazza S.Ambrogio
開館時間:7:30-12:30 14:30-19:00

■聖サティロの祈祷用小礼拝堂 Il Sacello di S.Satiro
サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会 
Chiesa di Santa Maria presso San Satiro 内
所在地:Via Torino, 17/19
開館時間:9:00-17:30 

■ガッリアーノのサン・ヴィンチェンツオ教会 Chiesa di San Vincenzo in Galliano
所在地:Via San Vincenzo, 22063 Cantu,
開館時間: 9:30- 12:30 , 15:00- 18:00

注:上記開館時間や入館料金などは変更される場合もあります。




知ってほしい「ミラノの歴史」
 アルキーヴィオへ このページのTOPへ HOME PAGEへ


http://www.japanitalytravel.com
©  JAPAN PLUS ITALY - MILANO 2013 All rights reserved.