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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Maggio 2019

第3回

ロンゴバルド王国の時代

  
 文と写真   大島 悦子 

1.蛮族の侵入
●西ローマ帝国の首都、ミラノからラヴェンナへ

397年にアンブロージョ司教が逝去する頃、すでにローマ帝国の分解と退廃の兆候が進んでいた。395年のテオドシウス帝逝去の後、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国にはホノリウス帝が就任していた。401年、西ゴート族のアラリックがイタリアに侵入した際、ミラノは直接的な被害はなかったが、402年ホノリウス帝は西ローマ帝国をポー河河口に位置し海港も備えるラヴェンナに移動することに決める。
この首都移転はミラノの「運命」に対し重大な影響を与えることになる。

写真トップ@サン・サルヴァトーレ教会の「孔雀の浮彫」。 
白大理石の説教壇の囲い板の一部。(760-770)。ブレーシャ市立博物館所蔵

●ミラノもアッティラ率いるフン族の被害受ける
445年以降、中央アジアの遊牧騎馬民族フンを率いるアッティラがヨーロッパを席巻する。451年のカタラウヌムの合戦で西ローマ帝国軍が勝利し、フン族はガリアからいったん撤退するものの、翌452年今度は北イタリアに侵入し、ミラノもアッティラに占領された際に、略奪など厳しい試練にあう。なお、アッティラ王がミラノに入場した際、帝政ローマ皇宮の壁に、蛮族が皇帝に服従する場面をみつけ、皇帝の座に自らを描かせ、蛮族の場所に、ひざまずいたローマ人兵士と差し替えさせたという逸話も残っている。史実かどうかはさだかでないが、当時のミラノでまだ皇宮が保存されていて、市内に画家がいたことを示すという解釈がされている。

●オドアケルにより西ローマ帝国滅亡
476年、西ローマ帝国は、蛮族出身傭兵隊長オドアケルのクーデターにより、最後の皇帝が廃され滅亡した。オアドアケルは493年までイタリアを支配するが、ミラノや北イタリアでは崩壊直前の帝国組織よりも、強い人間の登場は、安定を保証するとして歓迎されたようだ。

●テオドリック大王の東ゴート王国
488年、東ゴート王テオドリックは、総勢30万人の東ゴート族を引き連れイタリアを目指した。テオドリックは、18歳まで人質として東ローマ帝国首都コンスタンティノーブルで過ごしており、オドアケル打倒は、東ローマ帝国公認の軍事行動となった。493年にオドアケルを倒し、テオドリック(493-526)はラヴェンナを首都とする東ゴート王国(493-553)を建設した。オドアケルもテオドリックも帝国時代の統治機構をほとんど変更なく受け継き、テオドリック治下の30年間は大規模な外的侵入や内紛のない平穏な時代で、一般のイタリア人の生活はそれ以前とほとんど変わりない状況が続いた。特にシンマクス、ボエティオス、カシオドールなどローマ知識人はテオドリック王直属の家臣となり、芸術・文学・公共事業が進められた。

写真上A「テオドリック大王胸像の金メダル(ローマ国立博物館所蔵)」
(ミラノ市立考古学博物館展示パネルより)   



●東ゴート王国でもミラノは繁栄を維持
オドアケルとテオドリックとの衝突の際、ミラノ司教ロレンツオ(490-512)は、テオドリック側につき、その優れた政治的選択はミラノを報復措置から救った。同司教は終始、テオドリック大王と良好な関係を築き、町の教会建築物の修復・美化や新しい宗教建築物の建造も手がけた。テオドリック大王からはミラノの貧困者対応の任務も委嘱された。西方首都としての位置は失ったものの、ゴート王国時代も、ミラノは西方社会でローマの次に都市規模、人口数、あらゆる部門の繁栄において重要な都市であり続けていた。
東ゴート族の金細工「ベルトの留め金」
 写真Bミラノ近郊ランドリアーノで出土 (5-6世紀) 
ミラノ市立考古学博物館所蔵  

ミラノ周辺地域で出土されたゴート族の貴重な宝飾品の一つ。鷲は古代から非常に普及していたモチーフ。ゴート族にとって、鷲は高く飛ぶ力、鋭い眼力ゆえに戦士社会における強さと権力を表していた。ゲルマン系民族の金属加工技術は武器製造に結びつき、金細工も5世紀に質的な向上が見られる。技術は古代ローマから由来するが、動物の姿は自然なラインを失い、幾何学的に図案化され、ゲルマン独特の動物画様式が誕生する。さらに、貴石・半貴石や金を組み合わせた見事な色合いも特徴だ。

●ゴート戦争とミラノの大惨劇
526年にテオドリックが死去すると、東ゴート族内部に「ローマ志向派」と「ゴート族主義者」の間で暴力的内紛が起こり、535年に後者が優勢となった。一方、527年に東ローマ帝国皇帝に即位したユスティニアヌス1世(527-565)は、ローマ帝国の往年の領土回復に熱情を傾け、533-534年にはヴァンダル王国を打倒し再征服していた。

写真上C「テオドラの頭部像」:ユスティニアヌス1世の妃テオドラとみられる女性の頭部像 
(6世紀)スフォルツエスコ城博物館所蔵

ゴート族内紛による統治悪化はイタリアのラテン民族の間に強い不満をおこさせ、親東ローマ帝国勢力を結成させたため、イタリアの再度獲得をねらうユスティニアヌス1世側からの武力介入を促すことになった。535年東ローマ帝国のベルサリオ将軍は東ゴート王国との戦争を開始。これが「ゴート戦争(535―553)」で、イタリア全土に破滅的な破壊を引き起こした後553年に終了した。ミラノはゴート戦役勃発により、つかの間の「安泰時期」が終了し、他の北イタリア全域と同様に、同戦役の悲惨な犠牲者となる。

当初は東ローマ帝国派が顕著な勢力を見せたため、ミラノでは、東ローマ帝国からの援軍到来を期待し、アリウス派ゴート族を追い出す絶好の機会と考えた。538年、ミラノの人々の強い拠り所となっていたミラノ司教ダツイオ(528-552年)は地元有力者数人を伴い、海側からローマに向かった。直接、援軍派遣を談判することで、ミラノだけでなく周辺一帯をゴート族勢力から保護し、皇帝支配下にすることができると考えたためだ。しかし、帝国内部の権力争いもあり対応は遅れ、結局、派遣されたのはミラノ側の期待とはほど遠い規模の援軍であった。

時のゴート王は、東ローマ皇帝からの救援を招いた「反乱都市ミラノ」に怒り、ミラノ征伐のため最強軍団をミラノに派遣し、さらにブルゴーニャ人軍隊も伴い、538-539年、東ゴート側によるミラノ徹底包囲が実施された。それは数ヶ月続き食糧にも事欠くようになったが東ローマ軍からの支援は後手後手にまわり、補強品の到来も遅れついにはポー河を通過できなくなった。539年春、ミラノ駐屯の東ローマ帝国指揮官は無条件降参した。ゴート側は、駐屯部隊の命は救ったが、ミラノの町は徹底的に破壊され多数のミラノ市民が虐殺された。

6世紀の東ローマ帝国の歴史家プロコピオスは、次のように記している「ミラノの町を実質的に根こそぎ破壊し、30万人の住民が命を落とし、さらに女性や子供が捕獲され、奴隷としてブルゴーニャ地方に連行された」と。数字はもちろん誇張されているものの、略奪の冷酷さや当時の人々に与えた恐ろしさを表現しているのであろう。ゴート側は、ミラノの惨劇に恐れをなした周辺の都市も簡単に攻略し、北イタリア西部を再び支配下におくことになる。540年、東ローマ帝国軍とゴート軍の戦争が再開され、553年東ローマ帝国軍が勝利しゴート戦争が終了する。

●過酷な重税を課す東ローマ帝国の統治体制
東ローマ帝国側は最終的には戦争に勝利しイタリアを支配下においた。首都は、帝国総督府のあったラヴェンナで、イタリアはラヴェンナ駐在総督により統治され、各地に役人が配置された。とはいえ、統治は不完全で大半の都市は事実上、司教を拠り所に自らを防御するしかない状況であった。蛮族来襲よりもカトリックのキリスト教を信仰する東ローマ帝国の始めたゴート戦役のほうがイタリアに住む人々に与えた打撃は深刻であった。イタリアは「墓場」の様を呈し、耕地は荒廃し、飢餓に苦しむ人々で溢れていたという。さらに軍事的支配と重税を課す東ローマ帝国の統治体制はゴート王国時代より人気のないものであった。

徹底的に破壊されながらかろうじて生き残ったミラノの人々はゴート族攻撃の際に東ローマ帝国側の介入が不足したことに対し裏切られた意識と警戒心を抱いて東ローマ統治を眺めた。567年、ミラノで城壁や公共建築物の再建が開始されたという記録があるがすぐに中断となる。568年、ロンゴバルド族が北イタリア諸都市の守備隊を不意打ちにしてイタリアに侵入し、翌569年ミラノに到達したのだ。18年におよぶゴート戦争で衰弱し、東ローマ帝国下の圧政に16年間苦しんだミラノは、何の抵抗もなく新しい侵入者に征服された。

                                              2.ロンゴバルド時代とは
●「ロンゴバルド人の支配地」、ユネスコ世界遺産に

2011年6月、ユネスコ世界遺産に「イタリアにおけるロンゴバルド人の支配地(568-774 DC) Longobardi in Italia. I luoghi del potere」としてロンゴバルドに関わりのあるイタリアの北から南まで7ケ所における、現在も残されているロンゴバルドの史跡が登録された。この世界遺産登録がきっかけとなり、登録された場所はもとより、登録されなかったもののロンゴバルドに深いかかわりのある場所でも、ロンゴバルドがイタリアの歴史にどのような影響を与えたのか、再検討する機運がおこっている。

写真上Dミラノ市立考古学博物館「中世前期」展示室 「ユネスコ世界遺産ロンゴバルド展」ポスター

●ロンゴバルドに対する再評価・見直し進む
従来、イタリアでは、イタリア半島に暴力的に侵入したロンゴバルド族統治の時代については、その勢力が根付く過程では、暴力がはびこったため、それまでのイタリアの古典文化や歴史を破壊した否定的な時代ととらえる見方が多かった。しかしながら、ロンゴバルド族はイタリア半島の大半を征服し、北イタリアでは約200年間、南部では、場所により5世紀にもわたる政治的統治を築く力を有していたのも事実である。そして北のフランク王国や東ローマ帝国、ローマ教皇庁とも対等にわたりあう王国へ成長し、7世紀末にはカトリックへの改宗も完了し、イタリア全土で独特の芸術活動が開花した。

現在、こうした新しい視点でロンゴバルドをより理解するための取り組みが進められている。研究者による調査研究、専門研究センター創立等をはじめ、学校や一般を対象とした特別展やプロジェクトも多数展開されており、ユネスコ世界遺産指定以前とは多大な変化をみせている。

●「ロンバルディア州」も「ロンゴバルド王国」の名前に由来
現在、ミラノを州都とする州を「ロンバルディア州」と呼ぶのも「ロンゴバルド王国」の名前に由来している。ロンゴバルド王国は北イタリアほぼ全域を統治下においたが、首都をパヴィアにおき、統治の中心地域は現在のロンバルディア州一帯となった。したがって「ミラノの歴史」を理解するためには、ロンゴバルド時代を避けては通れない。とはいえ、ロンゴバルド時代におけるミラノ社会に関する史料はきわめて乏しい。そこで本稿では、対象をミラノだけでなく現在のロンバルディア州にまで広げて、ロンゴバルド王国の推移をさぐってみたい。

パウルス・ディアコヌス著
「ランゴバルドの歴史 Historia Langobardorum」

 写真D「ランゴバルドの歴史」  
www.longobardinitalia.it/ より

ロンゴバルドの民族起源から始まり、イタリア半島に進出し、リウトプラント王によるロンゴバルド王国絶頂期までの歴史的経過を描く書物。言い伝えで伝承されてきた神話や史実をもとにロンゴバルドの視点から語られ、790年頃に、パウルス・ディアコヌス(イタリア語名:パオロ・ディアーコノ)がラテン語で表した。本書はロンゴバルド研究の上で最も主要な史料となっている。
著者パウルスは、720年ごろ、ランゴバルドのフリウリ公国貴族の家系に生まれ、若くして首都パヴィアに行き高度の教育を受けた。次のアストルフォ王、デジデリオ王の時代も宮廷に勤め、デジデリオ王の信頼も厚く、同王女の家庭教師ともなり、763年に同王女がベネヴェント公国アリキス2世と結婚の際は同公国宮廷に同行した。774年にロンゴバルド王国が滅びると、パウルスはモンテカッシーノのベネディクト修道院に退避する。
776年頃、彼の兄が内乱罪でフランク王国に虜囚として連れて行かれると、兄を助けるため、パウルスはカール大帝に書簡を書く。彼の文学的素養がカール大帝の注目を引き、兄の解放を条件にカール大帝はパウルスをアーヘンの宮廷に招き、パウルスは、アルクイーノ等とともに、カロリング朝ルネサンスを支える重要な知識人の一人となった。787年モンテカッシーノに戻り、788年から2年かけて、本著を発表し、799年に亡くなった。  


3.ロンゴバルド王国の推移
●ロンゴバルド族イタリアに侵入

ロンゴバルド族は、ゲルマン民族の一部族でスカンジナビア南部の出身とされるが、早くからエルベ川下流域に進出し、4世紀前半にはパンノニア(現在のハンガリ−地域)に定住し、6世紀前半ヴァコーネ王の時代を頂点に同族の社会政治的構造が築かれたとされている。東ローマ帝国とは比較的良好の関係を持ち、一部はゴート戦役等の際、帝国側への軍事奉仕をおこなっていた。「ロンゴバルド」という名前は「lungo=長い」「barba=ひげ」から、「長い髭の民族」と名付けられたとされている。

568年、アヴァール人に追われる形で、パンノニアを棄てて、アルボインに率いられたロンゴバルド族は北イタリアのフリウリに侵入開始し、短期間に特別な抵抗にあわず、パダーナ平原と現在のトスカーナ地方一帯の広大な地域を占領した。「ドゥーカ」と呼ばれるそれぞれの軍事首領のもとに部族集団に分れており、無秩序状態でイタリアの領土に侵入し、その領土を非連続的に占領した。

写真上左Fロンゴバルド族の移動ルート図         写真上右Gロンゴバルド族男性像(想像図)    
FG:www.longobardinitalia.it/ より

●569年ミラノに侵入、ミラノは36ある「ドゥカート(公国)」の一つに
569年ロンゴバルド族は、荒廃し「集落」と慣れ果てていたミラノに侵入し征服する。ミラノ司教オノラートは、ロンゴバルド族到来の知らせをきくと、主要な聖職者とミラノの有力者多数を引き連れて、いまだ東ローマ帝国の手中にあったジェノヴァに逃げた。司教の逃亡は、略奪や破壊行為への恐れに加え、侵入は一時的ですぐに東ローマ帝国側が優位にたつだろうという確信があったためとされている。が、実際にミラノ司教がミラノに戻ってくるのは実に642年で、70年以上にわたりミラノは司教や有力者不在という状態に置かれることになる。

571年アルボインは3年間の攻略の後、パヴィアを陥落させ、その後、パヴィアは王国首都となる。ミラノの南30キロのパヴィアは、ポー川とティチーノ川が交差し、帝政ローマ期にも北イタリア全体の軍本部が置かれていた。

ロンゴバルド王国では首都パヴィアのほか、ヴェローナ、モンツア、ブレーシャなどの都市が重視され発展した。一方ミラノはロンゴバルド王国の36ある「ドゥカート(公国)」の一つとなり、歴史の表舞台の座からしばらく遠ざかることになる。なお、この時代、ミラノの「ドゥカート」中心地は現在の「コルドゥーシオ広場Piazza Cordusio」付近におかれた。

写真上Hミラノのコルドゥーシオ広場。 左側建物は「スターバックス」イタリア出店第1号店、右側建物には、2019年秋に日本のユニクロのイタリア出店1号店舗開店予定。

●空位時代とアウタリによる王政強化
572年、アルボイン王が暗殺される。後継者クレフィが選出されるが、574年にクレフィも陰謀の犠牲で暗殺されると、その後約10年にわたって「空位時代」が続いた。「ドウーカ(公)」たちは、王位不在を利用し自分の所有地での存在を確立しさらに新領土獲得をはかった。このころ、ロンゴバルド族はアッペニーニ山脈を沿って進み、リグーリアの海側一帯とヴェネト地方をのぞく北イタリアを征服し、中部・南部では、スポレート公国とベネヴェント公国が形成される。一方、東ローマ帝国側は、ラヴェンナの「エサルカート地域」と、ラヴェンナとローマを結ぶ「ビザンチンの通路」を保持し、ロンゴバルド王国を北と南に二分されることになる。

写真上Iロンゴバルド征服地図。濃茶部分がロンゴバルド征服地、薄色部分は、東ローマ帝国側に残った地域。  
www.longobardinitalia.it/ より)

584年に、東ローマ帝国と協定を結んだフランク軍がパダーナ地域中心地に攻め込んでくると、共通の脅威を前に、北イタリア各地のドウーカ達は、584年、クレフィの息子であるアウタリ(584-590)を新王に選出する。アウタリは王権を強化しアルプス峠そばの地域を制御し、595年フランク軍を打破する。「バイエルン族」(現在の東南ドイツバイエルン州に定住)と連携し、589年にはバイエルン大公の娘でカトリック教徒のテオドリンダ(589−616)と結婚するが翌590年、アウタリは毒殺されて死去する。

●テオドリンダ王妃、アジルルフォを再婚相手に選ぶ
王妃テオドリンダは、父親はバイエルン大公、そして母親はロンゴバルド族最強の王として名高いヴァコーネ王(510-540)の娘、という高貴な王族の家柄のため、アウタリはテオドリンダとの結婚により、ロンゴバルド王としての威厳を最大限に強化できた。

アウタリが亡くなると、周囲は彼女を妃の地位に留め、すべてのランゴバルドの男性から、王国をよく統治できる人物を選ぶようにと説き伏せた。テオドリンダは後継者選びに毅然とした立場をとり、トリノ公アジルルフォを選、再婚し、アジルルフォは翌591年5月ロンゴバルド王となる。

アウタリとアジルルフォの時代に、ランゴバルド王国は再建され、広大な王領が設けられ、各地に王役人「ガスタルディ」が配置された。特にアジルルフォ王により安定した統治が行われ、新たな動きの季節が始まることになる。アジルルフォは「ローマ化」政策をとり、自らの王国を古代ローマやローマ文明との継続性を示すために、パヴィアではなく、帝政ローマ帝国首都だったミラノでのロンゴバルド王戴冠を臨んだ。また、息子のアドアルドは3歳でミラノのチルコにおける麗な集会で共同王として戴冠を受けた。これは東ローマ帝国首都で開催される新皇帝布告儀式に類似した方式で統治下のローマ人に対し、帝国の記憶を呼び起こさせるため、ミラノ、しかも、チルコを舞台に選んだとされている。

写真上左J現在のモンツア大聖堂  写真上右Kモンツア大聖堂博物館入り口のテオドリンダ・ポスター

●テオドリンダ女王とモンツア
テオドリンダ王妃は美貌と才気に恵まれ「暴力的で男性支配の時代」と理解されているこの時代に、ローマ人世界と蛮族ロンゴバルドの世界という相対立する世界の融合点を求め、夫のアウタリとアジルルフォとともに、ロンゴバルド王国の統一に大きな貢献をした。広く崇拝され「テオドリンダ伝説」まで生まれ「イタリア最初の女王」とも呼ばれている。

テオドリンダはミラノ北方の、アルプスに近く穏和な気候のモンツアを好んだ。カトリックのテオドリンダは、中世を代表する教皇グレゴリウス一世(590−604)とも良好な関係を築き、593年以降、テオドリンダと同教皇の間では、アリウス派ロンゴバルド人のカトリックへの改宗促進のため幾度も書簡が交わされている。595年、テオドリンダはモンツアに聖堂を建設するが、その際、同教皇は、テオドリンダの依願に応えて「聖遺物」を寄贈し、現在も同聖堂に保存されている。さらに603年息子のアダロアルドがここでカトリック洗礼をうけた際も、同教皇は「アダロアルドの十字架」を寄贈している。

写真上L「雌鶏と7匹の小鳥」 

同聖堂の跡はほとんどないものの、テオドリンダとアジルルフォによる奉納品等がモンツア聖堂博物館に所蔵されている。中でも傑作は、雌鶏と7匹のひよこが餌をついばんでいる姿をほぼ等身大に表現した作品。銅製で金彩色。東ローマ帝国様式に通じていたミラノの金細工師の作品とされる。

写真M「サン・ジョヴァンニの歯をいれた聖遺物容器」    写真N「テオドリンダの王冠」
LMN モンツア大聖堂博物館所蔵

そしてイタリア王戴冠に使われた「鉄製王冠」(カコミ内参照)。「サン・ジョヴァンニの歯の聖遺物容器」や、金板にサファイアやアクアマリン、真珠母などがはめ込まれた「テオドリンダの王冠」や女王の身の回り品も残されており、テオドリンダの人物像と深くむすびついたモンツアのロンゴバルドの歴史を誇っている。

「鉄製王冠」

 写真Oモンツア大聖堂博物館内テオドリンダ礼拝堂所蔵 

直径15センチの冠。6枚の長方形の金板で構成され、内側が「鉄輪」で結ばれていることから「鉄製王冠(La Corona Ferrea)」と呼ばれている。古い伝説では、この「鉄の輪」はコスタンティヌス大帝の母親エレナが326年に発見した、キリストを十字架にかけた際に用いた「釘」の一つで、息子の王冠にエレナが組み込んだとされている。キリストの受難や最初のキリスト教ローマ皇帝に結びつけることで、この王冠はイタリア王に対する象徴的な価値を示していた。
伝承によれば、ロンゴバルド王妃テオドリンダの所有とされているが、近年の歴史家の仮説では、5世紀末の東ゴートのテオドリック王の印と一致する王冠でそれがロンゴバルド王に引き継がれ、さらにはカロリング朝の王にも受け継がれ、最も古い王冠の部分を救い出しオリジナルをまねて、七宝部分の大半を作り直し補修したという説も提起されている。
この王冠は、歴代ランゴバルド王以来、19世紀にいたるまで、イタリアを支配するすべてのものが頭上にしたとされ、1805年ミラノ大聖堂おける皇帝ナポレオンの「イタリア王」戴冠式でもこの王冠が使われた。

●ミラノ周辺出土の金属加工品
ロンゴバルドの時代、ミラノでは、金細工師工房の存在が記録されている。この時代の金細工の特色は、金板の使用、七宝加工、貴石や半貴石を用いた装飾であり、発掘出土品には留め金、イヤリング、聖遺物箱や武具や馬具の一部などが目立つ。とくに、埋葬用に金板でつくられた十字架が、男女性別を問わず普及していた。イタリアに定住するようになったロンゴバルドが、キリスト教、地中海文化、そしてビザンチンの伝統の影響を受けて、採用した新しい表現である。

写真上左P「イヤリング」 (7-8世紀) コモのロンゴバルド富裕家族墓から出土  
写真上右Q「盛装用盾の一部」(7世紀) ローディ出土

ミラノの東、アッダ川沿いの防衛拠点トレッツオ・スッラッダTrezzo sull’Addaでは6世紀後半から7世紀前半とみられる上級階層の墓が5つ発見されており、金の十字架や豊かな調度品、ローマ時代を模倣したロンゴバルド高官の印とされる「認印付き金の指輪」や聖遺物箱や武器などが出土された。

写真上左R「金の十字架」(7世紀) トレッツオ・スッラッダ出土  
写真上右S「認印付き金の指輪」(7世紀中頃) 同左出土                                                    
PQRS:ミラノ市立考古学博物館所蔵

●「ロータリ法典」の発布
636年に王に即位したロータリは、642年にリグーリア海岸部の全域を統合しジェノヴァを征服する。ミラノ司教も約70年ぶりにミラノに戻ることになる。ロータリは643年に、これまで口伝えに伝承されてきたロンゴバルド法令をラテン語文書にまとめた最初の法令集「ロータリ法典」を発布した。同法典はロンゴバルド族出身者に適用され、ローマ人出身者はユスティニアヌス皇帝編纂のローマ法に基づくものとした。

680年に東ローマ帝国とロンゴバルド王国との間で和解が成立、ロンゴバルド王国が正式に認められることになった。一方、ラヴェンナを中心とする地域やペーザロやアンコーナなど五都市を含む「ペンタポリス」そして、半島南部の一部とシチリア・サルデーニャなどは東ローマ帝国の統治下として残った。

●リウトプランド王の時代、王国絶頂期
712年にリウトプランド(712-744)が即位すると、同王の長い統治は、イタリアにおけるロンゴバルド権力の絶頂期と考えられている。「ロータリの勅令」を拡大し、統合化して「法令」を発布し、統治制度としては、ガスタルディだけでなく、「ドウーカ(公)」やその配下の役人スクルダージョも王の任命となり、王権が強化された。ロンゴバルド族の君主たちは、東ゴート王国と同じく、自ら皇帝の後継者と称し、ラテン語を公用語として採用し、パヴィアの宮廷を文化の中心としたが、その頂点がリウトプランド王の時代である。「ロンゴバルド王国のキリスト教王」と自らを定義したカトリックの君主であった。

726年の東ローマ皇帝レオン3世による「聖像崇拝の禁止」、さらに730年「聖像破壊令」に対し、教皇グレゴリウス2世はこれを拒否し、東西両教会の対立は決定的になった。この混乱にリウトプランドが介入し、たちまち、739年にはラヴェンナ占領、ローマ包囲を行い、北イタリアの東ローマ帝国領を征服し、王国の拡大戦略を実現することで西方におけるロンゴバルドの支配力と偉容の絶頂期を示した。それは同王が、フランク族、バイエルン族、アヴァーリ族との連盟を継続的に強化することのできた連盟工作のおかげでもあった。

この間に、ローマ教会とフランク王国の間で接近が始まっていた。リウトプランドの進出に脅威を受けたグレゴリウス3世は、トウールポワティエの戦い(732)でイスラム軍に勝利をおさめたフランクのカール・マルテル(714−741)に援助を要請したのだ。一方、カール・マルテルは、リウトプラントと協力関係にあり、トウールポワティエの戦いの画期的勝利もリウトプラントから多大な軍事貢献をうけて実現していた。そのため、カール・マルテルは、教皇の要請には直接答えず、むしろ、リウトプラントとローマ教皇との関係緩和を試み、カール・マルテルは741年に死亡するが、743年に、グレゴリウス3世の後継者ザカリアス(741−751)とリウトプラントの和平協定を成立させる下地をつくり、イタリアに安定期をもたらすことになる。

4.ロンゴバルド王国 社会の変遷
●征服と破壊、分離政策

ロンゴバルド族がイタリアに侵入した際、その征服は非常に暴力的で破壊的であり、征服地域では土地を奪い取り、都市は破壊され、ローマ時代の荘厳な建築物は荒れるにまかされた。定住当初は、先住ローマ人とはまったく異なる生活様式を継承し、現地人との明確な分離政策をすすめた。戦いを好み、農業ではなく牧畜を得意としていたロンゴバルド族は、一族郎党に家畜を伴って居住できる広大なスペースを好んだ。 そのため、権力拠点は、多くの場合、都市中心部ではなくより周辺部に置かれた。

●カトリックへの改宗
ロンゴバルド族は当初は独特の異教を信仰していたが、パンノニア時代に一部はキリスト教アリウス派に改宗していた。イタリア侵入時は、既存の教会組織や修道院を破壊した。その後、上記テオドリンダ王妃の時代からカトリックへの改宗も進んだが、アリウス派勢力も根強く、王の冠を争う内紛には、カトリックかアリウス派かの宗教的対立も大きく影響した。7世紀末に、カトリックへの改宗もほぼ完了した。

●ロンゴバルド族とローマ人の間の融合
宗教的対立が終わったことが住民の融合に寄与することになる。ロンゴバルド族とローマ人の間の乖離は弱まり、ロンゴバルド人が人口の大半をしめるローマ人の習慣に適応していったことで、二つの民族間の接近・統合化が進んだ。それとともに商業活動や都市生活の重要性も増大した。リウトプラント王の法典では、ロンゴバルド人とローマ人の区別に終止符をうち、両者の結婚も正式に認めた。

●当時の社会生活 
ロータリ法典では当時の社会生活をしのばせる貴重な情報が提供されている。たとえば、ロンゴバルド族では、農園で、馬、豚、羊などの家畜に加え、狩猟用タカ、雌牛、鹿、蜂、ハイタカなどの飼育の言及があり、中でも主要な役割を果たしたのが「聖なる動物」馬であった。同法典には馬の保護や馬を美しく保つための規定も定めている。同法典およびパオロ・ディアコノスの著では、様々な職業が現れており、農地の家畜飼育人、農場管理従僕にはじまり、商人、船頭、大工、鍛冶屋、金細工師、貨幣鋳造人、そして医師、判事、公証人、写字生、易者などもいた。さらに、その後は、聖職者、修道院長、司教、司祭なども列挙されるようになる。興味深いのは、「マエストリ・コマチーネ(コモ地域の親方たち)」と呼ばれる、建設者、左官、彫刻師など熟練技能者で結成されたチームの存在だ。コモ湖やルガーノ湖地域の出身者で、各地で大規模建築工事を委嘱され、実現し、活躍した。

●パヴィア、ミラノでも教会や修道院の建設すすむ
古代文化を守り中世に伝えたとされるモンテカッシーノ、ポンポーザなどの修道院は、6−7世紀の混乱期にロンゴバルド族により破壊され、放棄されたりしたが、その後、改修や寄進が進んだ。特にリウトプランドの時代に、ロンゴバルドの王族や大土地所有者によって、教会や修道院の建設が普及していった。首都パヴィアでは、リウトプラントは特に「サン・ピエトロ・イン・チェーロドーロ聖堂 Basilica di San Pietro in Ciel d’Oro」等の建設を推進した。当時、サルデーニャではサラセン人が略奪の限りを尽くし、聖アウグスティヌス(354年−430年)の墓についても威嚇を与えたため、723年、リウトプランドは莫大な金額の金をサラセン人に与え聖アウグスティヌスの遺骨をパヴィアまで運ばせ同教会に奉った。

写真上左(21)パヴィアの「サン・ピエトロ・イン・チェーロドーロ聖堂」(現在) 
写真上右(22)聖アゴスティーノ聖遺物を収めた同聖堂内の記念碑石棺(制作は14世紀)

ミラノではリウトプラント王の時代、同王の妹アウロラにより、740年頃、「サンタ・マリア・ダウロラ修道院 Monastero di Santa Maria d’Aurora」が創立された。ミラノ中世前期の最も古い修道院であり、その後カロリング朝時代には王立修道院に格上げされている。何度も修復・再建されたのち、1868年に最終的に全面的に解体された。ミラノで現在にまで当時の建築的断片や装飾の残る唯一の例である。

 写真上 (23)サンタ・マリア・ダウロラ修道院の装飾の施された柱や柱頭など
(スフォルツエスコ城博物館所蔵)。

現在のドゥオーモ広場そばに「ダテオ救貧院」があった。巡礼者を泊め、捨て子に手に職を与えるための施設で伝統的に教会が担ってきた貧窮者支援の仕組みがミラノで健在していたとみられる。                            

●カステルセルピオの「サンタ・マリア・フォリス・ポルタス教会」
パヴィアやミラノの建築物は、その後、何度も再建され構造が変化して変容の一途をたどってしまうが、辺鄙な地域では当時の建築物も残されている。代表例が、現在のバレーゼ県下「カステルセルピオ Castelserpio」で軍事要塞や宗教建築物、軍事建築物の遺跡が「ユネスコ世界遺産」に指定されている。

写真上左(24)カステルセルピオのサンタ・マリア・フォリス・ポルタス教会  
写真上右(25)同教会内のキリストの幼少期とキリストの託身の歴史を描いた壁画

同地は帝政ローマ後期にはすでに「カストルム」と呼ばれる軍事防衛地として城塞化されており、7世紀にロンゴバルドにより全面的に再建され、アルプス山脈を背後とした位置と、コモ、バレーゼ、ミラノ、パヴィア等との交差点としての役割ゆえに軍事的に重要な定住地となった。芸術面でも特別の価値を持つのが城壁の外に残る「サンタ・マリア・フォリス・ポルタス教会 Chiesa di Santa Maria Foris Portas」で、身廊一つの平面プランの教会だ。1940年代に研究者により漆喰層の壁の下に類い稀な絵巻の存在が発見された。キリストの幼少期とキリストの託身の歴史を描いた場面からなる見事な壁画で、西洋の中世前期における傑作の一つとされる。壁画製作年代は7世紀、あるいは9-10世紀という二つの仮説がある。建物は7世紀末から8世紀というロンゴバルド後期に帰すると考えられている。

5.ロンゴバルド王国の最後
●アストルフォの拡大戦略

リウトプランドの中部イタリアへの拡大政策は749年に即位したアストルフォ王(749-756)にも継続され、751年、アストルフォはラヴェンナやペンタポリスを征服し(752年)、ヴェネツイアをのぞくと北イタリアの東ローマ帝国領は消滅した。これはローマ教皇庁からの強い反応を呼び起こすことになり、752年にカール・マルテルの子ピピン3世が即位し、カロリング朝を開始すると、教皇ステファヌウス3世(752-757)はフランスを訪れ、ピピン三世にロンゴバルドの脅威を訴える。同教皇は塗油の儀式を行い、ピピン三世を国王と認め「ローマ人の保護者」の称号を与える。

754年、ピピン3世はアストルフォ王と戦い、756年にロンゴバルド族を打ち破り、旧ラヴェンナ総督領をアストルフォ王から返還させる。総督領は東ローマ帝国皇帝には返還されず、教皇ステファヌウス3世に寄進される。これが「ピピンの寄進」と呼ばれ教皇領の始まりとされている。

●最後の王デジデリオとサン・サルヴァトーレ修道院
756年にアストルフォが死去すると、ブレーシャ出身でトスカーナ公のデジデリオ(756-774)が王に就いた。デジデリオは最後のロンゴバルド王となる。ブレーシャはローマ時代から主要都市で、ブレーシャとその周辺にはロンゴバルド族が集中的に定住し、同王国で重要な役割を果たしてきたが、特に、デジデリオ王によりその重要性を増した。デジデリオは王となる以前からブレーシャに個人的な絆や権力を集中させており、753年には権力基盤確立のため「サン・サルヴァトーレ修道院 Monastero di San Salvatore」を創立した。 を創立した。

当時、修道院は広大な大土地所有者であり、信仰的な魂の救済の場所としてだけではなく、政治的・行政的・経済的な権力拠点でもあった。傑出した家門は寄贈や家人を通じて富を集中し管理することが可能であり、この仕組みを最大限に活用したのが、デジデリオであった。妻アンサとともにこの修道院を創設し、最初の修道院長は娘がつとめるという「家族経営」となった。

新しい王の座につくと、国庫のリソースを活用して莫大な規模の寄進を同修道院に行うことで、自らの資産を統合化した。この修道院にロンバルディア、エミリア、トスカーナの多くの修道院も従属することになる。当時の史料では、同修道院は、北イタリアを中心に60もの荘園を含む広大な所領を持ち、河川交通の要所に港や船なども有していたという。デジデリオ王にとって各地の修道院やその資産を管轄下におくことで、統治地域を有効に支配するツールとなった。

写真上左(26)ブレーシャのサン・サルヴァトーレ教会    
写真上右(27)同教会内内部 (なおフレスコ画はその後の時代の制作)                                                                   
ブレーシャ市立博物館

なお、デジデリオの妻アンサはアフリカ殉教者の聖遺物を運ばせ、修道院名はサンタ・ジュリアと変わる。「サン・サルヴァトーレ&サンタ・ジュリア建築物群」は現在ブレーシャ市立博物館となっておりユネスコ世界遺産指定を受けている。サン・サルヴァトーレ教会はローマ時代遺物の上に建造され、古典時代の資材や東ローマ帝国から届いた素材なども再活用されている。漆喰と壁画が統合したロンゴバルド時代独特の建築様式や豊かな装飾断片(写真トップ@)を残す最も重要な建築物の一つである。
デジデリオは政治的に困難な時期にいることを認識しており、王位に息子のアデルキを共同王とすることで家門の強化をはかり、娘の一人はベネヴェント公に嫁がせる。 他民族との連携を図るため、二人の娘を、一人はバイエルン公国大公に、もう一人の娘を770年フランク国王位継承者カールに嫁がせる(ただし、771年に離縁されブレーシャに戻る)。

●フランク王カールによるロンゴバルド征服
768年にフランク王ピピン三世が没し、771年に息子のカールが唯一のフランク王となり、772年には北ドイツ異教領ザクセンを征服する。772年デジデリオの拡大政策によりローマ教皇庁との衝突が激化すると、772年にローマ教皇に即位したハドリアヌス1世は、フランク王国と手を結ぶことでロンゴバルド王国からのローマ教皇の政治的独立を果たそうとする。同教皇の訴えに応じて、773年、カールは、二軍団を率いてイタリアに下り、トリノの西、スーザ渓谷でロンゴバルド軍を打破し、デジデリオ王はパヴィアに逃げ帰った。王国首都パヴィアはフランク軍に包囲され、10ケ月後、774年、カールはデジデリオとその息子アデルキを負かし、ロンゴバルドを征服した。

このようにして216年間にわたるロンゴバルド王国(568-774)が終結した。カールは、ロンゴバルド王国をフランク王国に併合し、その後は自らを、「フランク人の王、そしてロンゴバルド人の王」と名乗り、ランゴバルド王国を滅亡させることなく、彼自身が二つの国家の王を一身にかねる形をとった。       

●カール大帝 西ローマ帝国皇帝戴冠
800年のクリスマスの日、フランク王カールはローマで教皇レオ3世により西ローマ皇帝に戴冠される。この皇帝戴冠は、西ヨーロッパの統合をめざすフランク王国と、東ローマ帝国からの独立をはかる教皇とのピピン3世以来の協力関係の総仕上げの意味をもつ。民族大移動期にゲルマン諸部族国家の建設によって分断された西ヨーロッパを統一し、ヨーロッパ中世世界の成立を象徴する重大な出来事となった。

カール大帝の支配権は、中央・西・南ヨーロッパの大部分を含む膨大な版図となった。この新しい枠組みの中で、ミラノも新しい展望が開けてくることになる。

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蛮族の侵入、そしてロンゴバルド族のイタリア侵入以降の推移をみてきた。
ロンゴバルド族はイタリアに到達し、定住するようになると、次第に伝統的ローマ文化やキリスト教カトリック信仰、ビザンチン文化の流れなどを同化吸収し、自らのゲルマンの価値観と統合し、新しくオリジナリティを持つ文化を築き、法典と社会ヒエラルキーを有する「国家」となった。近年では、西ローマ帝国崩壊からカール大帝の帝国誕生までの時期を、「崩壊」「文明の終わり」と簡単に結びつけてきた定義に終止符をうち、かわって、特に今日的な視点、すなわち「多様な文明の浸透を特色とする歴史的プロセス」ととらえる考え方も提起されている。

ところで、ロンゴバルドの到来により、結果としてイタリアに残した決定的な「影響」は、イタリアを北と南に分断させたことだろう。ロンゴバルド族による北のロンゴバルド王国、中部のスポレート公国、南のベネヴェント公国は統一されることはなかった。その後、北イタリアは神聖ローマ帝国に組み込まれることで西ヨーロッパとの絆を深める一方、南イタリアは地中海圏の中で別の歴史的進展をとげ、結局イタリアが統一されるのは1860年代初めまで待つことになる。

「歴史に『もしも』はない」というが、私は、ふと、「もしも」ロンゴバルド族があの時侵入してこなかったらイタリアはどんな国になっていたのか、ミラノはどうなっていたのかなどと考えてしまう。東ローマ帝国統治がその後も続き、ビザンチン文化が浸透し主要公用語もギリシャ語になっていたのだろうか?。 あるいは、隣国フランク王国がすぐに侵入してきて、早々とフランク王国の一部に吸収されてしまっていたのだろうかなどと。 そう考えると、文字を持たないロンゴバルド族が、ラテン語を公用語とし、イタリアで現地文化を「同化・吸収」してくれたことで、イタリアはそれなりに「継続」し独自性を保てたともいえるかもしれない。そしてまさにロンゴバルド王国が統治した「北イタリア」で、その後ミラノを筆頭に「自治都市コムーネの時代」が開花することを考えると、この王国の時代を一つの「歴史的プロセス」ととらえスタディすることも意味があるように思える。
史料も少なく、わからないことが多いだけに、ロンゴバルド族はかえって歴史への興味や想像力を膨らませてくれる存在ともいえよう。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■ミラノ市立考古学博物館 Museo Archeologico Milano   
住所:Corso Magenta 15
開館時間: 9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
www.museoarcheologicomilano.it/

■スフォルツエスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開館時間:9:00−17:30 月曜休館
入館料: 5ユーロ
https://www.milanocastello.it/

■モンツア聖堂博物館  Museo e Tesoro del Duomo di Monza
所在地:via Canonica 4, 20900 Monza
開館時間: 9.00-18.00 月曜休館
注:テオドリンダ礼拝堂Cappella di Teodolinda(「鉄製王冠」所蔵)は予約が必要
入館料:聖堂博物館:8ユーロ テオドリンダ礼拝堂:8ユーロ
聖堂博物館 + テオドリンダ礼拝堂:14ユーロ
http://www.museoduomomonza.it/ 

■ブレーシャ市立博物館 MUSEO DI SANTA GIULIA
所在地:via Musei 81/b, 25121 Brescia
開館時間:火曜-金曜9:00-17:00 土曜10:00-21:00 日曜・祝日10:00-18:00 月曜休館 
入館料:10ユーロ
https://www.bresciamusei.com/santagiulia.asp

■サンタ・マリア・フォリス・ポルタス教会 Chiesa di S.Maria Foris Portas
カステルセルピオ考古学公園 Parco Archeologico ed Antiquarium di Castelseprio

所在地:Via Castelvecchio, 1513 - Castelseprio (VA)
入館料:無料
開館時間および見学の問い合わせは下記へ
Tel. +39 0331820438 fax +39 0331855816
www.archeologica.lombardia.beniculturali.it
http://antiquarium.castelseprio.beniculturali.it/

■参考サイト
「イタリアにおけるロンゴバルディア」 Longobardia in Italia  

www.longobardinitalia.it/

注:上記開館時間や入館料金などは変更される場合もあります。




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