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知ってほしい「ミラノの歴史」
15 Novembre 2021

第8回

スフォルツアの時代
権力、栄華、そして


 文と写真   大島 悦子 

はじめに
今号では、「スフォルツアの時代」として、1450年に傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツアがヴイスコンティ時代を引き継ぐ形でミラノ公国を掌握することで始まる時代を扱いたい。彼のもとでミラノは安定・繁栄期を築き、その息子イル・モーロ統治下に「権力と栄華の頂点」に達するものの、1500年突然の落日を迎えるというドラマチックな50年間である。
まず、1400年代前半のイタリア情勢を整理し、次に、スフォルツアの権力拡大の上で重要なベースとなった「傭兵隊長」の役割や特色に触れたい。

写真トップ@サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会 
右上の円蓋部がブラマンテ設計、左端は「最後の晩餐」見学入口

●5大勢力の競い合うイタリア半島
この時代、イタリア政治の主要プレイヤーはミラノ公国、フィレンツエ共和国、ヴェネツイア共和国、教皇国家、ナポリ王国の5大勢力だった。
ミラノでは、拡大主義のヴイスコンティ家ジャンガレアッツオ公の1402年の急死で、イタリア北部・中部の統一国家形成の機会は失われた。第二子フィリッポ・マリアは旧領再建にのりだし中核部分を回復したが、それは、海外領土をオスマントルコ侵出で脅威を受け、イタリア半島内部の領土確保を求めたヴェネツイアと対立を生む。ミラノ強大化を警戒するヴェネツイアとフィレンツエは1425年に同盟を結んだ。

フィレンツエでは、1434年、国外追放から戻ったコジモ・ディ・メディチ(1389-1464)がフィレンツエ共和国の実権を掌握し、「祖国の父」とも呼ばれるコジモのフィレンツエ支配が始まる。
南イタリアでは、イタリア半島唯一の「王国」であるナポリ王国が、「ラディスラオ王」時代にイタリアの重要政治勢力としてふたたび登場し、北伊へ勢力を拡大し、教皇領国境をおびやかし、教皇側と敵対した。1414年同王死去後ナポリ王国は後継をめぐる混乱を深めるが1442年にアラゴンのアルフォンソ5世により平定される。

一方、教皇庁は、教会大分裂後、教皇マルティヌス5世がローマに定着し教皇権力が伸張しだした。当時教皇領はラツイオの他、ウンブリア、マルケ、ロマーニャの3地方があったが、実際は現地実力者が支配していた。直接支配確立を求めた教皇庁は各勢力との争いが絶えず、特にナポリ王国と激しい戦いが続いた。
これら「五大強国」に加え、マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノなど中小国家の宮廷が存在感を示していた。

一方、ヨーロッパでは、フランスはイギリスと長期の「百年戦争」に専念し、その後は国内紛争が絶えなかった。神聖ローマ帝国もその領域から「イタリア王国」は現実の意味を失っていく。そのため、イタリア半島の中部・北部側はヨーロッパ列国からの圧力や大きな介入をうけずに、半島内での勢力の争いに終始していた。

●傭兵隊長(コンドッティエーレ)の時代
このように、大小の国家間の争いが絶えなかったイタリアでは,前号でも述べたように諸都市は市民軍ではなく、外部の専門傭兵隊を使うようになり、それを率いるのが「コンドッティエーレ(傭兵隊長)」である。先駆けとしては、英国出身ジョン・ホークウッドが有名だが、その後イタリア人が傭兵隊長を担うようになった。
傭兵隊長になるには二つの「タイプ」があり、一つは部隊内で成長し実力でその隊長の座にのぼりつめるタイプ。もう一つはウルビーノのモンテフェルトロ家やフェッラーラのエステ家など地方中小領主が自国臣下や徴用兵ごと部隊を構成するタイプで両家の君主は傭兵隊長としても活躍した。

傭兵隊長と雇い主の間では、請負兵員数,奉仕の期間と義務,支払方法等を定めた契約(コンドッタ)が結ばれた。さらに雇い主から重職や封土を授与されることもあり、傭兵隊長たちは栄達の機会をつかみ莫大な富を勝ち得る可能性をもっていた。主要国家に委嘱されて傭兵隊長になるためには、数千名規模の傭兵の指揮・統制を行い、軍事技術に加えて高度の政治性、交渉力を必要とした。大規模スケールの傭兵隊長の配下には、小規模100名程度の部隊を統括する多数の小隊長が存在し、柔軟なオペレーションを指揮する体制を整えていた。なお、契約期間後、傭兵隊長はその直接の敵側に移行しないことが望まれたものの、それが禁止されていたわけではなかった。戦線の変更や連携、裏切りなどは頻繁におきており、こうした政治的・軍事的混乱こそが、有能な傭兵隊長にとっては最大のメリットを獲得することとなった。

第1部 フランチェスコ・スフォルツア
1.「スフォルツア」の起源
●農民の若者ムツイオ、傭兵隊長に

エミリア・ロマーナ州、ラヴェンナとファエンツアの間に「コティニョーラCotignola」という村がある。1385年5月、この村の農民の若者、当時16歳、「ムツイオ」と呼ばれていたジャコモ・アッテンドロ(1369-1424)は、たまたま出会った傭兵小隊長に参加を誘われ、翌日にはその仲間入りをした。体格もよく強気のムツイオはすぐに頭角を表し、3年後には兄弟や村の仲間を誘い自らの部隊を立ち上げ、中部イタリアで近隣紛争を解決し小規模ながら傭兵隊長として評価されるようになる。見事な武運を讃えられ「Sforza ! Sforza!(スフォルツア)」(「頑張れ」の意)と呼ばれ、それが苗字となった。

写真上左A傭兵隊長ムツイオ・アッテンドロ・スフォルツア像 (16世紀の細密画より)  
写真上右B傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツア大理石像 アルベルト・マッフィオーリ作 1450年頃 ヴィツエンツア市立絵画館所蔵

●フランチェスコ・スフォルツア誕生
ペルージャに滞在中の1398年、ムツイオは、馬具製造人の娘ルチアを見染めルチアとの間に8人の子供を得るがその第一子が1401年7月23日にトスカーナのサン・ミニアートで誕生した「フランチェスコ・スフォルツア」(1401-1466)である。 ムツイオはその後、フェッラーラ・エステ家やフィレンツエ、さらにはナポリ王国と各地で傭兵隊長として活躍し、雇用主から多大な信頼を得るが、彼が望んだのは「武力」の勝利や「富」の蓄積だけではなかった。農民出身の自分や子供たちの社会ステータスを上昇させることに強い「野望」を抱き、雇用主のシニョーレの好意を得ることで「良縁」の世話を求めていたのだ。そのため、彼はルチアと正式結婚はせず、エステ家仲立ちでトスカーナ貴族未亡人と結婚。彼女は多数の封土や財産を婚資として持参し、ムツイオの最初の嫡出子を産むが、出産後死去したため、ムツイオには彼女の莫大な婚資と名門の名称が残った。

ムツイオは自分の名も書けなかったが、フランチェスコの幼い頃から賢さを見抜き、息子に最高水準の教育をうけさせるため、まずは、文化的宮廷生活を誇るエステ家に幼い息子を預けた。1412年夏、ムツイオの戦いぶりを評価したナポリのラディスラオ国王からの招聘を受けナポリに移ると、当時11歳のフランチェスコを今度はナポリ王宮廷に預けた。同王は少年フランチェスコを気に入り、ルカーニア(現在のバシリカ―タ州)小封土を彼に贈与した。1414年8月、同王が死去し、ジョヴァンナ二世がナポリ女王となり混乱につぐ混乱の時期をむかえる。ムツイオは女王の危機を救出し信頼を受け、女王の仲介で再婚し、南イタリア各地に封土や城を持つ「シニョーレ」となった。フランチェスコも同女王に気に入られ18歳の時、カラブリア名門家系若い未亡人と結婚した。婚資として主要封土を持参した彼女は産後亡くなったため彼自身がカラブリア最大封土所有者となった。

この莫大な所有地管理を担ったのが地元の有能な専門家アンジェロ・シモネッタである。彼と、1444年以降その役を引き継ぐ、甥のチッコ・シモネッタはフランチェスコが富と栄光を勝ち得ていく道程を2代にわたってフォローしていくことになる。

1424年ムツイオは55歳の時、子分を救うため河に飛び込み命を失った。23歳のフランチェスコが父親の築いた大軍隊と名声、その膨大な富を継承し後継者となった。その後すぐに、彼自身もナポリ王国で伝説的な成功をおさめた。

2.フランチェスコ・スフォルツア、ミラノ公国掌握へ
●スフォルツア、ミラノの歴史に初めて関与

翌年1425年フランチェスコは大きな転機を迎える。ミラノ公国が他国からの攻勢で困難に陥っている中、ミラノ公フィリッポ・マリア・ヴイスコンティから招聘を受け、フランチェスコはその傭兵隊長として最初の契約を結んだのだ。ナポリ王国では混乱が止まず展望が開けないため14年間の長いナポリ時代を終結し、北イタリアで勝負をすることになった。これがフランチェスコ・スフォルツアのミラノ歴史への初めての関与となる。その3年後1431年3月「ソンチーノの戦い」でフランチェスコ・スフォルツア率いるミラノ軍は、ヴェネツイア軍を大打破し、10年来のヴェネツイア側の歴史的拡大願望からミラノ公国を救った。

同年、フィリッポ・マリア・ヴイスコンティは、フランチェスコの勝利への褒美と忠誠の保障にと、妻として一人娘のビアンカ・マリア(1425-1468)を与えることを約束した。ビアンカ・マリアは、フィリッポ・マリアが唯一愛した女性であるアニェーゼ・ディ・マイーノとの間の庶子であった。小さいころから賢く美しかったこの娘は、「後継ぎ」としてしつけられ、外国人も含む当時最高レベルの学者や教師により教育を受けた。その後、皇帝シジスモンドにより、父親の「嫡出子」として認められ「ヴィスコンティの苗字」を持つ権利を得るが「公爵爵位の後継者」として認められることはなかった。アニェーゼは、古くはカロリング朝時代の称号を持つ名門貴族で高名な法律家を輩出する家柄出身で知性溢れる女性であり、実質上、公爵夫人同様の待遇を受けていた。この時、ビアンカ・マリアはまだ6歳、フランチェスコはすでに30歳であったが、1432年に「結婚契約」が締結された。

とはいえ、フィリッポ・マリアは、スフォルツアの成功に脅威を感じ、ミラノを支配されるのではないかと恐れ、彼を遠ざけたため、フランチェスコはミラノを離れ、戦線を変更するという軍事的・外交的に錯綜した期間が続く。フィリッポ・マリアの態度に対する苛立ちもあり、フランチェスコは1439年にはフィレンツエとヴェネツイアに指揮される「反ヴイスコンティ連盟」の総合司令官の任も受けた。このころから戦いは、イタリア半島の中部・北部全域に拡大した。有名な「アンギアーリの戦い」(1440.6.29)でヴイスコンティ側がフィレンツエから徹底的敗北をこうむるのはこの時だ。フランチェスコはヴェネツイア側に仕えていた。フィリッポ・マリアは窮地に陥り、狡猾にもフランチェスコに対し「反ヴイスコンティ同盟」側とミラノ公国との和平交渉を依頼した。彼は政治的外交的手腕を発揮して1441年11月20日にマントヴァ北西「カヴァリアーナ」の地ですべての側の合意にこぎつけた。

●ヴイスコンティ家ビアンカ・マリアとの結婚
その25日前の1441年10月25日には、重要な行事が行われた。クレモナでフランチェスコ・スフォルツア40歳とビアンカ・マリア・ヴイスコンティ16歳の結婚式が行われたのだ。10年前の結婚契約をフィリッポ・マリアが改めて認めたことが、フランチェスコが「カヴァリアーナの和平」合意形成への尽力につながったことはいうまでもないだろう。

クレモナの聖シジスモンド教会

クレモナの城壁外の野原に1253年に建てられた「聖シジスモンドに捧げる小教会」で、1441年ビアンカ・マリア・ヴイスコンティとフランチェスコ・スフォルツアとの結婚式がおこなわれた。クレモナはビアンカ・マリアの結婚婚資の一部で彼女はクレモナ領主となった。 
この結婚式を記念し、20年後の1461年、ビアンカ・マリアはここに新しい教会と大きな修道院建設を決めた。着工式は1463年6月20日に行われた。
写真上Cクレモナの聖シジスモンド教会

●ミラノ公フィリッポ・マリアの死去
1444年1月14日、マルケ州フェルモ要塞でビアンカ・マリアは長子ガレアッツオ・マリアを出産した。
次第にスフォルツアの強すぎる権力を誰もが恐れ敵対し連盟を組んで対抗しだした。1446年にローマ教皇から破門も受け、スフォルツアをめぐる状況は最悪の時期をむかえ、ビアンカ・マリアと一人息子と共にマルケ州ジェーシに籠った。 一方、ヴェネツイア軍は西方向に進み、ミラノ公国テリトリーに侵入しミラノへの最終攻撃を準備し、ミラノ側全面敗北という危機を前にしていた。1447年春、すでに重態のフィリッポ・マリアは、ミラノ公国存命をかけて、惨めながらもフランチェスコにヴイスコンティ軍総合司令官を指名し、助けを求めることを決断した。同年8月、フランチェスコは体制を整え残っていた部隊、騎馬隊4000名と歩兵2000名を引き連れて北に向け出発したが、直後フィリッポ・マリアが8月13日に死去した知らせが届いた。

●アンブロジアーナ共和国誕生
フィリッポ・マリアの死は、ミラノ公国が戦争進行中であり、直系の男子相続者がいなかったため、深刻な危機に陥るリスクがあった。そのため、ミラノの貴族や有力者など支配階層はポポロ層支援のもとに8月14日に、急遽新政権を発足させ「アンブロジアーナ共和国」と名付けた。古きよき「自由都市コムーネ」の再現を目標としていたが、具体的な政治プログラムも組織体制も準備されていなかった。当初は、戦争と重税を課すヴイスコンティ統治を嫌悪していたミラノ人は、和平と減税を夢見て、公爵の城を破壊し、納税台帳の焼却まで行った。混乱を利用して公国配下のロンバルディア諸都市は独立を宣言し公国はたちまち解体しようとした。ヴェエネツイアからの脅威を受け、共和国内部はすぐに暴力的な対立や紛争が起こり、主唱者の公国支配者階層とポポロ層が対立しさらに様々な列強介入により混乱を極めた。

●スフォルツア、ミラノを包囲
しかし最も危険な脅威は常にヴェネツイアでありその攻撃は激化し、ミラノはもはや「大破局」という状況に陥っていた。この間、スフォルツアは戦線を幾度か変更しつつ、ミラノ公国征服を決意して前に進んだ。サヴォイア公と和を結び、後方の安全を確保し、武力によりミラノを包囲しミラノへの食糧補給路を遮断した。ヴェネツイア軍に対し、そしてひ弱な共和国政府に対しと、両面に対し包囲を行ったのだ。

1450年2月25日、人々は食糧も尽き飢餓に陥っていた。ここでアンブロジアーナ共和国幹部側は、ミラノを攻撃してきたヴェネツイアに降伏して共和国を守ろうとしたため、腹を立てたミラノ民衆は反乱をおこし、共和国軍隊長や幹部を逃亡に追いやり、在ミラノのヴェネツイア大使も殺害した。とはいえ民衆のこの動きもスフォルツアの腹心ガスパーレ・ダ・ヴイメルカーテに引導されたものであった。ミラノ貴族のガスパーレはミラノ社会各界に強い影響力を持っており、彼の思惑通り、スフォルツアに好意的な臨時特別会議が設置され、人民総会が招聘され、そこでミラノを救う唯一の現実的な可能性としてフランチェスコ・スフォツアにミラノを受け渡すことが決定された。こうして同共和国は創立後3年を待たずに消滅した。

3.フランチェスコ・スフォルツアのミラノ統治
●ミラノへ入城

フランチェスコは、フィリッポ・マリア・ヴイスコンティの一人娘と結婚した婿であること、それと、実質上、彼自身の武力や実力でミラノを掌握することになった。しかし、通常「シニョーレ」のタイトルを得るためにはそれだけでは不十分で皇帝代理や教皇代理の授与が必要であった。彼はいずれのタイトルもないため、人民による批准を行うことになり、2月26日以降、スフォルツアとミラノ市民代表側では「受け渡し条件」について幾度も外交的やりとりをかわし、3月11日にミラノ人民総会で正式に批准された。

写真上D「フランチェスコ・スフォルツアとビアンカ・マリア」 ボニファーチョ・ベンボ作 1460年頃
ブレラ美術館所蔵

1450年3月22日、フランチェスコ・スフォルツアは妻ビアンカ・マリアと長男ガレアッツオ・マリアとともにミラノに勝利の入場を行いミラノ市民から「シニョーレ」として受け入れられ忠誠の宣言を受けた。しかしその後も神聖ローマ帝国皇帝はミラノ公国のスフォルツアへの継承を承認せず、イタリア列国も認めず、ミラノ公国継承権を主唱し続ける勢力も存在しフランチェスコの立場は決して安泰ではなかった。  

●戦争政策から和平の統治への移行
ところで、フランチェスコが「獲得」したミラノは、長い戦乱の中で財政危機状況にあり人々は飢えに苦しんでいた。彼はミラノの人々から正当な継承者として認識されるように慎重に内政を進めた。特に古い政治を担っていたエリート層やミラノ社会の各層から広大な同意を得ることに専念した。そのため、スフォルツア側勝利に貢献した貴族たちを要職に任命するだけでなく、敵方にも忠誠を誓えば復帰を可能とし罪を問わないこととした。
ミラノ公国再建で大きな役割を担ったのが、前述したカラブリア出身のチッコ・シモネッタ(1410-1480)である。知性、教養、信頼性を持った人物であり、ラテン語、ギリシャ語だけでなくヘブライ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を習得しており、法務司法分野の専門家であり、政治的、外交面でフランチェスコの統治を全面的に支えることになる。財政的上困難に陥っている公国の再編成を担い、当時としては革新的な「官房」を設けその「官房長官」を務め、内政・外政あらゆる改革政策の立案および制度の整備をおこなった。長期の戦乱の後、経済の再スタート生産部門を早急に飛躍させる必要があるため、生産部門や商人のコーポレーション、職人、銀行家の代表などと、シモネッタはすぐに諮問を開始し、事務事項の優遇化、税制免除などインセンティブ計画を準備した。

●ビアンカ・マリア
ビアンカ・マリアは賢く勇気に満ちた「公爵夫人」と臣下からも尊敬された。夫が傭兵隊長として各地で戦っていたころは、娘時代からフェンシングの訓練も受けていたため、夫のそばで武装し馬に乗り、軍事戦ではとまどう夫を説得し自らも実践にも参加した。ミラノ公国獲得後の厳しい財政状況下には自分の宝石や貴金属、豪華な衣類を抵当にいれて金を借りて支えた。1462年12月に夫が突然容態変化し一時的に病床についた際は、夫の委託を受けて公国総督の任につき、この危機を乗り越えた。信心深く、また死刑者や追放刑者に対する恩赦を得るために努力し、受刑者の生活状況を監視し後援者から寄せられた寄付を保護するための「保護者協会Compagnia dei Protettori 」という組織も設立した。  

サンタ・マリア・インコロナータ教会

ガリバルディ通りにある、同じ形の正面ファサードの二つ続く独特な構造の教会。向かって左側は、コムーネの時代に建設された教会で、後期ゴシック様式に修復され1450年のフランチェスコ・スフォルツアの新シニョーレ戴冠(インコロナータ)を記念して「サンタ・マリア・インコロナータ」教会と名付けられた。

写真上Eサンタ・マリア・インコロナータ教会

10年後の1460年、妻のビアンカ・マリアが、その右側に同じ形のファサードを持つ第二の教会を建設させ、「双子教会」が誕生した。スフォルツアとヴイスコンティの結合を象徴し、夫フランチェスコに対する自らの忠誠を公にも示したかったとされる。内部は二つの教会を仕切る壁は取り外され一つの大きな空間になっているが、二つの身廊からなり主祭壇は二つある。教会の外側、二つの教会をつなぐ柱には「ヴイスコンティ家」紋章が刻まれている。

●ローディの和平
その後も、ヴェネツイアからの脅威は続き、フランチェスコは、自分をミラノ君主と認めない諸都市の反対に直面したが、彼は武力ではなく巧みな外交手腕でわずか数年で主要首都のもとに、常任の大使、さらに特務の派遣特使という二段階の外交網を築いた。ヴイスコティ時代の方針を転換し、ヴェネツイアに対抗するため、以前からの盟友フィレンツエ共和国と手を組み、1451年7月30日には、ミラノとフィレンツエの間の「連盟」が調印された。翌年1452年2月には、フランスとの間の連盟が正式批准された。その直後、ヴェネツイア側は突然にアッダ川を渡り、ミラノ公国国境に侵攻し、ミラノ人を驚かせた。スフォルツア側はペスト大流行の大きな被害で財政状況が悪化し戦争に対する備えは十分でなかったため劣勢で守りの立場となったが、相手側のエネルギーを消耗させることにつとめた。なお神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ3世はスフォルツアに対する敵意を示し続けた。

1453年5月29日、イタリア半島の流れに決定的影響を与える大事件がおこった。オスマントルコによるコスタンティノーブル征服だ。特にヴェネツイアにとって致命的衝撃でこれ以上戦争を進めることは不可能となった。イタリア中が直接的脅威ととらえ戦争中の国々は何らかの協定を結ぶ必要に迫られた。
1454年4月、ミラノとヴェネツイアは、フィレンツエ以外には秘密のまま「ローディの和約」を締結し、ヴェネツイアはスフォルツアのミラノ公位継承を承認し、アッダ川をもって両国国境とした。1454年8月には、スフォルツアはミラノ、ヴェネツイア、フィレンツエによる25年間の「イタリア同盟 Lega Italica」を結成した。オスマン帝国の脅威を危惧するローマ教皇もこの同盟に参加した。

さらに1455年3月にはナポリ王国もこの連盟に加わったが、ナポリ国王アルフォンソ5世の拡大路線への野心を警戒したスフォルツアは、ナポリ王国との関係を強固とするため、1456年5月末には自らの一人娘イッポリタと三男のスフォルツア・マリアとナポリ王国の子女との間の二組の結婚契約を取りまとめた。

この「イタリア連盟」締結によりイタリア半島各国勢力は覇権の試みを断念し一応の均衡状態に達した。1454年のローディの和から1494年のフランス王シャルル8世の南下に至る40年間は、イタリアにとって相対的な平和な時期となる。

なおミラノにとってこの和約の重要なメリットは「署名した各国が、スフォルツアのミラノ公国統治正当性を認めたこと」にあった。こうして他都市との関係の問題を解消しミラノ公国の境界を確立すると、フランチェスコは政治的知性と外交手腕を示して平和の維持につとめることに専念した。    

4.大規模な建設事業
フランチェスコは、ミラノに入城後、ヴイスコンティ時代からのドウオーモとパヴィア僧院の大規模建設事業を継続するのに加え、新規の大規模公共事業により首都ミラノのイメージ再建に積極的に関与した。
その第一は、現在の「スフォルツエスコ城」の再建であり、第二は、公共事業「マッジョーレ施療院」建設で、地域内に分散していたミラノの病院を一つの大病院に集中専門化させた。同病院は1938年までミラノ市最大病院として機能し、1958年以降はミラノ国立大学本部となっている。注目すべきは、フランチェスコが両者の設計を、フィレンツエの建築家フィラレーテ(1400頃-1469頃)に委嘱したことであり、建築・都市計画の面でも、トスカーナの新傾向をミラノに取り入れようとしたことだ。

写真上Fスフォルツエスコ城 ファサード中央入口上のい塔が「フィラレーテの塔」  

●権力のシンボル、城の再建
フランチェスコは、アンブロジアーナ共和国時代に破壊されたポルタ・ジョヴィア城を、単なる再建ではなく、「スフォルツアの権力のシンボル」としての「スフォルツエスコ城」建設を決心し、1450年6月には着工が始まった。城のミラノ市内に面する建物両側には、切り石積み構造の大きな円塔が設けられ、ファサード中心入口には「フィラレーテの塔」と呼ばれることになる高い中央塔が建設された。ヴイスコンティ伝統のパヴィア城など他の居城とも調和する形であり、さらに最新の要塞技術が取り入れられた。

フィララレーテは長い間ローマに滞在し、古代モニュメントを研究し、バチカン大聖堂のブロンズ門を制作したのち、1451年にフィレンツエのコジモ・ディ・メディチ推薦を受けミラノにやってきた。しかしフィラレーテとミラノの地元技師達の間には直ちに険悪となり、工事スピードが遅滞したこともあり、フィラレーテは城建築の業務からからは遠ざかった。      

●「オスペダーレ・マッジョーレ」着工
城再建はミラノ人からは否定的にとらえられたため、スフォルツアは、ミラノの民衆の心をつかむ公共利益となる記念事業として「オスペダーレ・マッジョーレ」建設を決めた。

この時代ミラノでもイタリアの他地域同様に、増大する貧困や社会格差は避けられず、飢餓、戦乱、疫病などの犠牲となる民衆層のサポートが大きな社会問題となっていた。地域には地区教会などが運営する小規模の貧者救済施設が存在した不十分であった。14世紀末すでにジャンガレアッツオ・ヴイスコンティはシエナの病院をモデルに貧者の病院建設を検討し1445年にはフィリッポ・マリアも地域病院システム改革の聖職者委員会を形成したが、ミラノではまさに聖職者が自分たちの運営する既存施設閉鎖に抵抗を示しこの計画は中断したままであった。

写真上G「オスペダーレ・マッジョーレ」 (現在 ミラノ国立大学本部)ファサード  

そんな中、フランチェスコ・スフォルツアは、ビアンカ・マリアの強い支持もあり、これこそが、自らの行う記念碑的大事業と考え、病院建設地としてドウオーモに近い大敷地をミラノ市に献上、積極的かつ野心的に実現にむけて取り組んだ。建設決定は1451年にされたが、戦争やペスト流行により、正式な着工は1456年となった。

病院建設で画期的なのは、フランチェスコ・スフォルツアだけでなく、真の起草者であるチッコ・シモネッタの署名もある1456年4月1日付の病院創立公文書で、「ミラノの民衆のために役立つ公共建築物を建設する意向」と君主主導型事業を宣言していることである。 

病院の設計建築は、上記のフィラレーテに委嘱された。フランチェスコは、1456年6月フィラレーテをトスカーナにおくり、当時最大の名声を誇るフィレンツエのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院やシエナの病院を視察させた。さらに、すでにロンバルディア各地で建設中のブレーシャやパヴィア大型病院の運営組織や管理方針などを研究させ、フィラレーテがフランチェスコ・スフォルツアとの対話により準備したとされている。

写真上Hフィラレーテのオリジナル設計図

民衆から「カ・グランダ(大きな家)」と呼ばれるようになった「新病院」の大きな特色は、その規模が巨大で、空間を非常に合理的に活用するフイラレーテのオリジナリティ性高い建築様式である。彼の設計は、大きな中庭をはさむ二つの正方形の対称形の建物があり、それぞれが十字型に仕切られ4つの小中庭を持つ「クロッシング(十字架)構造」である。
しかし、斬新性は建築様式面だけではなく、合議制の運営組織による非宗教的性格を持つ最初の病院の事例であることだった。運営では大司教を名誉職的立場に追い払う新しい病院運営モデルへ意向を示した。さらに、初期段階から治療面重視の方針が採用され、困窮者保護や癒しの場所としてではなく、専門医療機関を志向したことであった。また患者の利便や衛生を重視した種々の工夫、そして最大先見性は、当時の他病院とは比較できないほどの進んだ、水回りの組織化で、地下室の側面には飲料用水水路と汚水用水路が備えられていた。

写真上左I病院時代の病棟写真(1920年頃) 同病院アルキーヴィオより  写真上右Jミラノ国立大学では現在このスペースを大学図書館として活用

しかし、フィラレーテはここでも地元の匠たちと様々なトラブルがあり、フランチェスコ自身が幾度も介入調整したものの、結局は1465年8月に辞職しミラノを去ったため、彼の設計は部分的にしか実現されなかった。その後何段階にわたり、数世紀かけて建設は進められた。

  

バンコ・メディチと「ポルティナーリ礼拝堂」

1455年、フランチェスコはフィレンツエのコジモ・ディ・メディチに友情と敬意の印として、ミラノ中心地の立派な館を寄贈する。コジモはそれを「バンコ・ディ・メディチ」ミラノ支社としたため、スフォルツア国家における最も重要な金融機関となった。現在スフォルツエスコ城博物館に所蔵されているこの館の「ポルターレ(扉口)」制作にはフィレンツエのミケロッツオが建築的構成に貢献したとされ、活気と色彩感溢れる装飾が施されている。

真上Kバンコ・メディチのミラノ支社の扉口(スフォルツエスコ城

「バンコ・ディ・メディチ」ミラノ支配人でミラノ公国のフィレンツエ大使も兼務していたピジェッロ・ポルティナーリは、サンエウストルジョ聖堂に、1462年から1468年に、「ポルティナーリ礼拝堂」を建てさせた。この礼拝堂クーポラ天井や壁面には、ミラノの芸術家ヴィンチェンツオ・フォッパが13世紀の殉教者サン・ピエトロの生涯を貴重な色合いでロンバルディアの自然風景とともに表現した。クーポラ部分には踊る天使の輪がテラコッタで浮彫装飾されており、スフォルツア時代前期のロンバルディア・ルネサンス初期の傑作とされている。

写真上左Lサンエウストルジョ聖堂、ポルティナーリ礼拝堂 クーポラ部分
写真上右M同ヴィンチェンツオ・フォッパ作フレスコ画

5.長男ガレアッツオ・マリアの統治
●世継ぎとして最高レベルの教育
フランチェスコとビアンカ・マリア夫妻は子供たちの教育に非常に熱心で、特に長男ガレアッツオ・マリア(1444-1476)は「世継ぎ」として最高レベルの教育を受けさせた。フランチェスコは、長男をミラノ公国の威信と政治権力を強化させる結婚をさせようと、まだ6歳の時にマントヴァ・ゴンザガ家との縁談をとりまとめるが、その後、フランス王ルイ11世の妻カルロッタの妹で、フランス宮廷で育てられていたボーナ・ディ・サヴォイアとの縁談に乗り換え、息子をフランス王義理の妹と結婚させる運びとなる。

1465年、フランスでルイ11世王が、反乱した封臣との闘いで苦境にたっている時、フランチェスコは、長男ガレアッツオ指揮下の救援部隊を派遣しヨーロッパの舞台で活躍をさせることにし、優秀な側近を顧問につけて送り出した。この戦いは小規模な紛争ですぐに終結したがガレアッツオ・マリアも功績をあげ、スフォルツアの名誉を高める上で成果をあげた、

●フランチェスコ・スフォルツアの急死
1466年3月8日、フランチェスコ・スフォルツアは水腫により64歳で急死する。ミラノのテリトリ―内にシニョーレが不在であると危険なため、フランス宮廷滞在中のガレアッツオ・マリアは、母の命令で慌ててミラノに戻った。母親のビアンカ・マリアは、未成年の息子は若く経験がないと考え、また夫とは常に一緒に協力し、夫が重態の際は統治の代替もしており、息子と一緒に統治する意向を明確に示した。

フランチェスコは統治者になって16年間という比較的短い期間ながら、ミラノ公国は抜本的に変化しヨーロッパで最も賞賛される都市の一つとなっていた。そのためガレアッツオ・マリアは父親に畏敬と同時に劣等感も抱き、野心を持ち、瞬時の成功や栄光を望んだ。息子と慎重な母親との間には政治的選択で対立が目立つようなった。1468年7月、ガレアッツオとボーナ・ディ・サヴォイアが結婚すると、母親との関係はさらに悪化し、ビアンカ・マリアはミラノを離れ愛すべきクレモナに引退することにした。途中で高熱に襲われ、1468年10月28日、43歳の生涯を終えた。

●再建した城を華麗な宮廷に
城の再建はほぼ終わっており、ガレアッツオ・マリアはボーナとの結婚を前に、住まいも城に移すことを決め、城内の宮廷装飾整備一連の工事を開始した。公爵居室や宮廷生活の中心は城の北側を占める「ドウカーレ宮 Corte Ducale」に集中していて、その地上階に現在「ミラノ古代美術博物館」は置かれ、当時の華麗な天井装飾の一部が保存されている。その中でも最も貴重なのは、1473年、音楽に情熱を持つガレアッツオがヨーロッパ各地から音楽家をミラノに招くため大急ぎでフレスコ画装飾をさせた「公爵礼拝堂」だ。天井中心に金色のアーモンド型装飾の中で、復活したキリストが天使に囲まれ昇天する様子が描かれており、その多色効果の鮮やかさには驚かされる。

写真上左Nスフォルツエスコ城内の「ドウカーレ宮」 写真上右O「公爵礼拝堂」の天井装飾 

「公爵の家紋の間」には公爵の紋章が描かれている。「小鳩の間」では緋色の天井と、光り輝く太陽の中のきらめく小鳩のシンボルが織物のように装飾されており、公爵の謁見や機密会議に使われた。

写真上左P「公爵の家紋の間」 写真上右Q「小鳩の間」

●ガレアッツオ・マリア暗殺される
ガレアッツオ・マリアは公国政治を君主の特権を強化し中央集権的な政府システム確立を目指すようになったため、父親が細心の注意で公国内のパワーバランスを維持してきた体制にひびが入り、対外的にも何か功績を残したいという一心で動き、複雑な問題を巻き起こした。そして1476年12月26日、ガレアッツオ・マリアは、33歳誕生日を前に暗殺された。ミサ参加のためサン・ステファーノ教会に入り、主祭壇に向かって歩いていた時、群衆から飛び出した3人の貴族の若者に切りつけられたのだ。この謀反は、共和国再興を夢想する、私怨や復讐の念を持つ無思慮な人間の行動とみなされたが、現実には、ガレアッツオの進める政府体制に対するミラノ貴族階級・上層階層の不満を背景していたといわれている。

世継ぎは当時6歳のジャンガレアッツオ・マリアで、摂政は母親ボーナ・ディ・サヴォイアに託され、それをチッコ・シモネッタが補佐することとなった。シモネッタの速やかな対応の後、状況は落ち着き、ボーナは、公国内のあらゆる都市から忠誠の誓いを受けた。とはいえ公国の世継ぎに権利を持つと主唱する側からの攻撃の可能性があり城の防衛強化が図られ、高さ43メートルの「ボーナの塔」が建てられた。 

写真上Rスフォルツエスコ城「ボーナの塔」


●スフォルツア兄弟の陰謀発覚し追放
さらに、亡くなった公爵の弟達、スフォルツア・マリア(バーリ公)と、浅黒い肌のため「イル・モーロ」と呼ばれていたルドヴィーコ・マリア(1452-1508)が陰謀を企てているという情報があった。彼らは公国支配にスフォルツア兄弟を外したことは、受け入れられないとし、摂政ボーナと書記長シモネッタの権威を認めず衝突がおこった。とはいえこの段階ではスフォルツア兄弟側も準備不足で結局は追放され、スフォルツア・マリアはその封土のバーリに、イル・モーロはピサに向かった。

第2部 イル・モーロの時代
1.イル・モーロ、権力掌握へ
●亡命から戻り、自ら「摂政」に

1479年1月、亡命生活1年半後、27歳のイル・モーロはピサを発ち、兄弟たちと再会しミラノ公国をとりもどす決意を互いに確認し、それを公にしたためミラノでは大きな混乱が生まれた。同年7月29日、突然、イル・モーロの仲の良い兄で、後継者第1位にあたる28歳のスフォルツア・マリアが急死する。イル・モーロは兄の死に絶望するが、この結果、彼自身がミラノ公国継承者第1位となった。亡兄に属していた「バーリ公国」がナポリ王からイル・モーロに譲与され「バーリ公」のタイトルを得た。
1479年9月、イル・モーロは策をつくしボーナと接触し、和平の申し出として、甥の公爵と摂政ボーナに対する忠誠を示した上で、書記長シモネッタを横領者として決定的に糾弾し彼を遠ざけることを要請した。結局ボーナはこれを受け入たため、犠牲になったのが長年スフォルツア家を支えてきたチッコ・シモネッタであった。ミラノに戻ったイル・モーロは「シモネッタこそミラノ公国権力をねらい裏切り行為を行っていた」と非難し、裁判にかけ処刑した。一方、イル・モーロに妥協をしたボーナは、幼子の摂政を放棄しアッビアーテグラッソ城への引退を余儀なくされた。こうして1480年、ルドヴィーコ・スフォルツアは甥の摂政となることに成功し、事実上ミラノ公国の「シニョーレ」としての権力を掌握した。

早速にイル・モーロが行ったのは、二つの結婚契約だ。一つは1471年に当時3歳のジャンガレアッツオ・マリアとナポリ王の孫、2歳のイサベッラ・ダラゴナと間に内定していた結婚の再確認、もう一つは、28歳のイル・モーロ自身と、この時点で5歳のフェッラーラのベアトリーチェ・デステとの結婚だ。

同年8月には、イタリア南部で劇的な大事件がおこった。オスマン艦隊が、プーリア州オートラントを砲撃し、800名を殺害したためキリスト教社会を恐怖に陥れた。翌年5月、オスマン帝国スルタン、メフメト2世の突然の死でヨーロッパは一安心し、9月10日、ナポリ王国軍は、オートランドを再征服した。 その後、イタリアではほぼ平和の状況が維持された。

●1480年代の繁栄・栄華のミラノ
スフォルツア家の統治下、ミラノは人口10万人を超す大都市であり、ミラノ公国は裕福な国家として発展し、ヨーロッパ全体に広がる商業網を持つ強国としての地位を確立した。そしてイル・モーロ統治下、内部の困難は表面上克服されたように見え、ミラノの歴史上、最も繁栄し芸術的・文化的な栄華の時期が開花する。ミラノはイタリアやヨーロッパの最も活気ある宮廷の一つとなり、都市計画や建築、芸術に関する新しい思想の実験の場ともなった。こうした文化的雰囲気の中で、レオナルドやブラマンテが活躍することになる。

2.レオナルドとブラマンテ
●レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミラノに

1482年春、イル・モーロは、フィレンツエのロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)から強く推薦されたという、一人の男性から長い手紙を受け取る。その手紙では、有能な軍事技師としての売り込みで始まり、戦争のためのツールやその技術的アイデアが多数列挙されていた。さらに「平和時」にも、建築物の設計、運河水利設計、都市計画が可能であり、彫刻や絵画でも偉大なる芸術家のレベルである、と自分の才能を並べ立てられていた。最後にイル・モーロが、父親フランチェスコ・スフォルツア大騎馬像製造を願望していることを知っていて、後世に残すブロンズ像をつくることができると強調した。
レオナルドは、フィレンツエのヴェッロッキオ工房で修行をして画家として名声を確立していたが、フィレンツエでは仲間間の競争が熾烈で彼もねたみや誹謗で難しい立場となり、新しい活躍舞台としてミラノを目指していたのだった。
これが、イル・モーロとレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)との最初の出会いである。レオナルドは、ミラノに1482年から1499年までの18年間、そして1506年から1513年までと通算25年の長期滞在をすることになり、ミラノはこのトスカーナ出身の天才にとって第二の故郷となる。イル・モーロとレオナルド・ダ・ヴィンチはともに1452年生まれで当時30歳。どちらも気性の激しい性格ながら、二人の間には互いの感性と才能を理解しあう特別な関係が生まれた。                  

●レオナルドの「岩窟の聖母子」と二人の女性の肖像画
レオナルドがミラノで画家として名声をあげるのに時間はかからなかった。その最初の記録が、1483年4月25日付の、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会の礼拝堂に置く主祭壇画制作に関し、インマコラータ信心会との間で、画家アンブロージョとエヴァンジェリスト・デ・プレディス兄弟の工房と一緒に署名した契約書だ。この作品が現在ルーブル美術館所蔵の「岩窟の聖母」で1483年にこの作品が発表されると、ヨーロッパ中で話題となった。

写真上左S「岩窟の聖母」 ルーブル美術館所蔵
写真上21)『白貂を抱く貴婦人』 ポーランドのクラコヴィア国立美術館所蔵 
写真上右22)「ラ・ベル・フェロニエール」 ルーブル博物館所蔵 

イル・モーロはレオナルドの絵の才能に注目し、1485年頃に特別な依頼を行った。それはイル・モーロの愛人チェチリア・ガッレラーニの肖像画だ。当時16歳のチェチリアは法学博士の娘で聡明な女性で、イル・モーロはその美しさを後世に残す肖像画を要望した。チェチリアはレオナルドの工房に通い、レオナルドと二人の間には対話と信頼関係が育った。水色と深紅の服で首に黒パールのネックレス、わずかの笑みを伴い、「白貂」を抱いている。これが、現在、クラコヴィアに所蔵されている『白貂を抱く貴婦人』である。                                    
その後1490年代に、イル・モーロの当時の愛人ルクレツイア・クリヴェッリの肖像画もレオナルドが描いている。現在ルーブル美術館所蔵「ラ・ベル・フェロニエール」である。この2つの肖像画は、そのモデルの輝くような美しさとともに内面性も深く表現している。

●万能人レオナルドの観察と研究の舞台に
レオナルドは当初、特に、スフォルツア宮廷の祝宴や舞踏会等の「総合監督」兼「デザイナー」として活躍した。1488年のジャンガレアッツオとナポリ王国イサベラ・ダラゴーナとの結婚では、イサベッラは婚資として100000ドウカーティ、数えきれない衣服、織物、宝石、黄金を持参した。対抗するかのようにイル・モーロはミラノ公国の富と権力を示すため豪華絢爛行事を企画しそれをレオナルドに委嘱した。レオナルドは舞台装飾から芝居背景の機械設計、舞台衣装やジェエリーまで創作した。ミラノでは西洋で最も美しいブロケードが製造され、金細工工房もそろっており、レオナルドの芸術的インスピレーションを発揮させ、彼の意表をつく舞台演出は広く名声を得るにいたった。

一方で、レオナルドは建築家・都市計画家としても熱心に研究を重ねた。当時のミラノは、大規模な大理石建築物ドオウーモが建設中で、レオナルドも建築コンペに参画している。彼のノートにはスフォルツエスコ城の構造、その寸法や防衛的特色のデッサンやコメントが残されその有効性の改良や修正を何年も研究をつづけた。

写真上23)ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館の「レオナルド・ダ・ヴィンチ:ニュー・ギャラリー」内部

田園部では水路や堤や水門などや農業技術も進み活気に満ちていた。フランチェスコ・スフォルツアが1450年代に着工した「マルテサーナ運河」の拡張整備を、当時イル・モーロは進めており、レオナルドは運河の水面落差を克服し航行を可能とする水利研究にも夢中になった。解剖学研究にも植物学や自然界の原理や空を飛ぶことに並々ならぬ関心をもっており、それらの基礎模型の制作などにも追われていた。ミラノの自然・文化的土壌は「万能人」の彼が、自分の可能性を広げる上で多いに役だった。

●イル・モーロとベアトリーチェの結婚
1491年1月、イル・モーロと16歳のフェッラッラのベアトリーチェ・デステの結婚式が行われこの時もレオナルドが舞台監督として活躍し、「記念馬上槍試合」登場の騎士たちの衣装もデザインした。

ベアトリーチェ・デステ

フェッラーラのエステ家宮廷は北イタリアにおけるルネサンスの一大中心で、音楽家、歴史家、教育者、詩人、文学者などが通っていた。ベアトリーチェはエステ家エルコレ1世とナポリ王国出身の母親との間の次女であり、すぐ上の姉イサベッラはマントヴァ伯爵フランチェスコ・ゴンザガと結婚し、それぞれの宮廷に盛期ルネサンスの花を咲かせた。ベアトリーチェは才気があり知的で活発な女性で、鷹狩りから釣りの遠出まで馬を乗り回した。ベアトリーチェがフェッラーラを発つ前、イル・モーロは彫刻家ジャン・クリストフォロ・ロマーノに彼女の大理石胸像を制作させており、15歳の愛らしい姿が後世に残ることになった。
写真上24)ベアトリーチェの大理石胸像 ジャン・クリストフォロ・ロマーノ作 ルーブル美術館所蔵 

●ドナート・ブラマンテのミラノ
イル・モーロ全盛の1480年代、ウルビーノ近郊生まれの建築家・画家のドナート・ブラマンテ(1444-1514)がミラノで活躍した。彼のミラノでの最初の代表作は1482年のサンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会で、奥行きの狭い空間を逆手にとって「遠近法的だまし絵」技法を用いて実現した「内陣席」である。

写真上左25) サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会 騙し絵技法を用いた内陣席
写真上右26)「柱のキリスト」ブラマンテ作1490年 ブレラ美術館所蔵

なお、ブラマンテとスフォルツアとのかかわりの最初は、イル・モーロの弟、枢機卿アスカニオ・スフォルツア管轄下のキアラヴァッレ修道院のために彼が描いた絵画「柱のキリスト」に始まっている。

●サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会
そして、ミラノにおけるブラマンテ最高傑作が、1492年から93年にかけて、イル・モーロの意向で実現されたサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会のクーポラ部分の建築だ。

写真上左27) サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会      写真上右28)ソラーリ作の同教会内部

なお、サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会の建物の建設時期は二つに分かれている。そもそもこの教会の起源は、フランチェスコ・スフォルツアの軍指揮官「ガスパーレ・ヴィメルカーテ(前述)」が、自らの軍隊司令部を置いた土地を、1460年、ドミニコ修道会に寄贈した事に始まる。ヴィメルカーティが同教会の最初の創立者であり、その後フランチェスコ・スフォルツアも同意を与え後援者となっている。1463年9月10日、修道院群起工が行われた。
当時のミラノ建築は、ゴシックというよりは後期ロマネスク様式の伝統に強く根付いており、その立役者グインフォルテ・ソラーリが、この教会の設計に招聘された。彼はドウオーモ建設管轄に加え、前記したサンタ・マリア・インコロナータ教会など多くの教会をロンバルディア伝統様式を踏襲し設計しており、同教会も、まさにその流れにあった。正面ファサードの水切り傾斜は非常に低い高さに取り付けられており、内部は3つの身廊に分かれ、リブ構造の縦型尖塔アーチの天井に覆われて、両側には礼拝堂が並んでいる。工事は1490年にゴシック様式教会として完成を迎えた。 

写真上29)同教会、ブラマンテによる「クーポラ」内部    

第二期が、イル・モーロが手掛けたものだ。特に1491年のベアトリーチェとの結婚後、彼はイタリア列強の宮廷に負けないルネッサンス君主となることを強く望んだ。そしてミラノにもルネッサンス様式建造物を求め、同教会を改修・拡大し自身と一族にふさわしい記念碑的「霊廟」とすることを決意した。そのためソラーリが2年前完成したばかりの後陣部分を解体させ、新たにブラマンテに後陣部の改修を命じたのだ。1492年3月には新しい円蓋の起工式を祝い、ブラマンテはローマ時代建築物から着想を得て設計し、教会の内陣部分に巨大なクーポラを追加した。クーポラ部分の空間には隣り合った空間に続くような豪華な装飾が施されている。小回廊や聖具室もブラマンテの手によるものとされている。このブラマンテの改修は1497年にほぼ完了した。

3.イル・モーロ 公爵タイトル獲得
●不安定性を増すイタリア政治の均衡
1492年4月8日に、フィレンツエの事実上絶対的君主であったメディチ家のロレンツイオ・イル・マニフィコが死去。彼はスフォルツアとメディチ家の間の連携こそがイタリア政治地理学上のバランスの決定的要因であると確信を持っていた。しかし、世継ぎのピエロはミラノとの歴史的な友情から遠ざかる様子を見せていた。さらに教皇イノチェンツオ8世が死去し、その後1492年7月25日、新ローマ教皇に野心家アレクサンドル6世ボルジャが就任、翌1493年には、神聖ローマ帝国にマクシミリアン1世(ハプスブルグ家)が皇帝となり、イタリアをとりまく環境も大きな変化を受けた。イタリア政治の均衡に揺らぎが生まれ、状況は不安定となった。
ミラノでも深刻な問題がおこっていた。イル・モーロとベアトリーチェの結婚は、二つの宮廷の存在を浮彫にした。モーロはベアトリーチェとの結婚を契機に、1491年からはいまだ「甥であるジャンガレアッツオ公の摂政」という立場ながら、華やかな宮廷の「実質的シニョーレ」のようにふるまった。
これに対し、ジャンガレアッツオの妻イサベッラは本来のミラノ君主である病弱な夫と自分がいつも政治事から外され、摂政である夫の叔父が権力を握り、その妻が君主夫人のようにふるまうことを怒り、ナポリの家族、すなわち、祖父のナポリ王フェランテ1世(王位1458-94)や父親のアルフォンソ2世(後に王位1494-95)に幾度も嘆き、抗議したことから次第にナポリとミラノ間の不信感を醸成し、イタリアの二大権力間の関係を危機に陥れることにつながっていった。 一方、フランスのシャルル8世王の宮廷では、長年の懸案である、ナポリ王国は仏アンジョ家に継承権があるとして南下しナポリ王国の征服をすすめる勢力が拡大していた。

●公爵位の取得を画策
激動の中で、イル・モーロは、自らの立場を確立する大きな後ろ盾を求め、新皇帝に対し大きな働きかけを行った。フランチェスコ・スフォルツアの時代からスフォルツア家が野望していた案件、「公爵位」認知にむけて重要な一歩を歩み始めていたのだ。ハプスブルグ家の新皇帝マクシミリアン1世(皇帝位1493-1519)が、皇帝選挙や国内問題、フランスとの戦争費用で深刻な財政状況を抱えていることを知っての上で、イル・モーロはいかなる要望にもかなえたいと提案し、皇帝側は、巨額な支払いを条件に公爵爵位譲与を認めることを知らせた。結局、ジャンガレアッツオ・マリアの妹でイル・モーロの姪にあたるビアンカ・マリア・スフォルツアを皇帝に嫁がせ、破格の巨額な婚資を持たせることで、公爵位を得ることになった。1493年6月24日、イル・モーロへの公爵タイトル授与の協約は秘密を前提に署名が行われ、同8月にはビアンカ・マリアとの結婚契約が調印された。

●フランス王シャルル8世のイタリア侵攻
ミラノとナポリ間の関係はさらに深刻化していた。フランス王シャルル8世は、イル・モーロに対し、ナポリ王国征服のためフランス軍の南下を支えてくれれば巨大メリットを与えるので戦線に協力してほしいと圧力をかけた。リスクはあるものの魅力的な展望もあるため、イル・モーロは、ナポリを征服というフランス王との連携を受け入れることに決めた。
1494年8月23日、シャルル8世はフランスを出発する。総勢3600名の兵士、フランス騎士兵エリート、ブルターニュ人弓兵6000名、ガスコーニュ人歩兵8000名、石弓射手6000名、スイスおよびドイツ人傭兵8000名という、イタリアではだれもみたことのない巨大で整然とし統率されたおそるべき軍事力だった。
アルプスを越えて何の抵抗にもあわず、9月9日にはアスティに到着。ここでイル・モーロが出迎えた。パヴィア城ではイル・モーロ夫妻に歓迎され、北イタリアを問題なく通過した。フィレンツエでは、ロレンツオ・メディチの息子ピエロがシニョーレとなっていたが、抵抗せずにフランス王にフィレンツエを受け渡す約束をしたことで、フィレンツエ市民の怒りをかい追放された。その後フィレンツエはサボナローナの政治的影響力が強まり混乱の時代をむかえる。シャルル8世は1495年2月22日、ほとんど抵抗なくナポリに入城し征服した。ここに、イタリアの平和は崩壊し近隣の大国同士がイタリアの覇権をめぐって断続的に闘争する「イタリア戦争」が始まった。

●「フォルノーヴォ」の戦い
この時点になって初めて、イル・モーロはイタリアにおける外国勢力の持つ危険性を理解したようだった。同年3月、アレクサンドル6世教皇、スペイン王、ヴェネツイア共和国、神聖ローマ帝国とともに、反フランスの「イタリア神聖同盟」を結成し、イル・モーロは豹変してシャルル8世に対抗することになった。
シャルル8世は、この「イタリア連盟」誕生を知るとフランスへ戻る道を遮断されることを恐れ帰国を急ぐことを決めた。勝利の入場からわずか3ケ月後にナポリを去り、北上するが、1495年7月、パルマの西北、ターロ川沿いの「フォルノーヴォ」で、フランス王軍をイタリア連盟軍が待機していた。連盟軍指揮は、ベアトリーチェの姉、イサベッラ・デステの夫、マントヴァのフランチェスコ2世ゴンザガである。
フランス軍と「反フランス神聖同盟」の戦いはイタリア側12500名に対し、仏側は8000名程度。何世紀もの間はじめて、イタリア軍は外国軍隊と正面対決することになり、フランス側は少なくとも死者千名、負傷者2400名、イタリア側は死者、負傷者ともに2000名以上の大惨状となった。シャルル8世と軍隊はイタリアから撤退した。すぐにナポリ王国ではフェッランテ2世(王位1495-96)がナポリ王に復帰した。
「フォルノーヴォ」の戦いの勝ち負けについては、両者とも「勝った」としているため判断は難しい。いずれにしてもフォルノーヴォの戦いは、イタリアの歴史の悲劇的ターニングポイントとなった。フランス軍側はフランス王指揮下、当時最も進んだ近代的武器や火薬を大量利用していた。それに対し、イタリア側は傭兵隊の歴史を形成してきた、甲冑着用騎兵隊、長く続く小競り合い、犠牲者をあまりださない戦闘方法や古い軍事技術では対応ができなくなっていたのだ。そして、何よりもイタリア半島で多数の国家が互いに争い細分化し対立している政治的弱さを露呈した。 とはいえ、イタリア情勢は、ひとまず、以前の状態に戻ったかのように見えた。

●イル・モーロ 「ミラノ公爵」タイトル叙任
この間ミラノでは大事件が起こっていた。1494年10月21日、前々から病におかされていた甥のジャンガレアッツオ・マリアが死亡したのだ。その直後、イル・モーロは、死去した甥の長男フランチェスコはまだ3歳の幼児であることを理由に、自分自身をミラノ公国の後継者とし、同時に、マクシミリアン皇帝から「公爵位」を授与されたことを初めて公表した。          

1495年5月24日、公爵タイトル授与特権状を持った神聖ローマ帝国皇帝特使がミラノに到達し、公爵位叙任式典が盛大にとりおこなわれた。長年にわたる、スフォルツア家の正当性の問題は、ここにきてようやく解消されるようにみえた。仏王のイタリア侵攻をまずは退散させ、これでミラノ公国もそれなりに安泰かとみえたその時が、イル・モーロの栄華の頂点であったかもしれない。

「スフォルツア家祭壇画 la Pala Sforzesca」

イル・モーロが1494年-1495年頃、「サンタンブロージョ・アド・ネムス教会Chiesa di Sant’Ambrogio ad Nemus」に奉じた祭壇画。イル・モーロが妻ベアトリーチェ、二人の子供を伴い、聖母子と4人の教会博士の前で祈る姿を描いており、スフォルツア公爵家と自己賞賛を強く表明した作品である。著者は1490年から1520年にかけてロンバルディアで活躍した画家としかわかっていない。

写真上30)「スフォルツア家祭壇画」 ブレラ美術館所蔵 

●レオナルドにスフォルツア家高揚のための2作品を委嘱
イル・モーロはこの時期、スフォルツア家の偉大さを象徴するフレスコ画を二つ、レオナルドに委嘱する。一つがサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会の「最後の晩餐」である。同教会隣接の食堂奥壁に描かれたレオナルドの「最後の晩餐」制作は、1494年に始まり1497年に完了する。レオナルドは壁面全体の配置を深く構想し「最後の晩餐」の高所の「リュネット」には、スフォルツア家を称揚するため、同家の紋章や果実を伴う花網装飾を施している。

写真上31)「最後の晩餐」上部の「リュネット(半月窓)」には、スフォルツア家紋章が描かれている。

もう一つは、スフォルツエスコ城の「アッセの間」であり、この仕事は1498年春に着工しているが、その企画や試作は1495年あるいは1497年には初めていたとされている。「アッセの間」は城の北東角にある225平米の大きな板張りの広間で重要な記念行事などが開催されていた。公爵タイトルを得たことで、スフォルツアのイメージ高揚のため、城の心臓部であるこの場所を選び、葉と蔓(つる)の繁茂する樹木の広がりをあらわした、空想力豊かな驚くべき壁画を委嘱したとされている。

写真上32) レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「アッセの間」の樹木の茂り広がりをあらわした装飾  スフォルツエスコ城

イル・モーロが、「権力と栄華」を表明する上で決定的な2作品をレオナルドに「任せ」、それに対しレオナルドが渾身の作品の実現で応じたことで、ミラノに不朽の名作が残されることになった。

4.終わりの始まり
●傭兵隊長の離反

繁栄の絶頂の裏で、「きしみ」が始まっていた。まずは何年か前からミラノ有力貴族で公国最強の傭兵隊長トリヴルツイオとイル・モーロの間に罅が入り、悪化の一途をたどっていたことだ。ついに彼はフランス王の招聘を受けてフランス軍側の傭兵隊長として転籍したため深刻な結果を生むことになる。イル・モーロはトリヴルツイオの能力を知るからこそ、彼の野心と憎悪が自分に向けられることの危険さも知っていた。また、もう一人の最良指揮官で「フォルノーヴォの戦い」総司令官をつとめたマントヴァ侯爵フランチェスコ・ゴンザガとも不和を起こした。

●ベアトリーチェ、23歳で死去
イル・モーロにとって最悪の一撃は、1497年1月2日、妻のベアトリーチェ・デステが三子目を死産し23歳で本人も亡くなったことだ。イル・モーロは抑制を失い絶望し喪のために長く居室に籠った。モーロとベアトリーチェとの間は政略結婚で年の差も大きかったが、互いに深い信頼と愛情関係が生まれた。イル・モーロは多数の愛人をもったが、ベアトリーチェを非常に敬愛し彼女の品の良さや知性、力量を評価し、1494年、ミラノ公国とヴェネツイアの間の連携の交渉役として彼女をヴェネツイアに公式派遣するほどだった。
これ以降、一つまた一つと大きな過ちを繰り返しすべてが悪い方向に向かった。

●フランス王ルイ12世 ミラノ征服の悲願実現へ
1498年4月7日、フランスのシャルル8世が28歳で子を残さず急死したことで、フランス王冠には、従兄弟のオルレアン公ルイ2世が、フランス王ルイ12世として継ぐことになり形成が逆転した。オルレアン家は、1447年にヴィスコンティ家の直系男子後継者が断絶した際にも、ミラノ公爵公位の唯一で真の後継者であることを主唱している。なぜなら1389年にジャンガレアッツオ・ヴイスコンティの娘ヴァレンティーナが、オルレアン公ルイ1世に嫁いだ際の結婚契約書に、ヴイスコンティに男系相続人が亡くなった際は、オルレアン家に相続権が移行するという但し書きがあったためだ。これを根拠に、オルレアン家はこれまでもミラノ公国相続権を主唱してきたが、軍事面政治面でそれを実行に移す機が熟さないままであった。ところが、ヨーロッパ最大の専制国家フランスで、不意に、思いがけなくも、なんとしてでもスフォルツア家を追放し、ミラノ公国を掌握することを決心した君主が王位につくことになったのだ。彼はイタリア侵攻の第一目的をミラノ公国征服、第二をナポリ王国征服と宣言した。

ルイ12世はすでに、サヴォイア公を自らの配下におき、ミラノ公国の分割をねらう教皇アレクサンドル6世やヴェネツイア共和国との同盟を合意していた。すなわち、ヴェネツイアとルイ12世の連盟は、ミラノ公国に対し敵対する陣容の連盟を批准し、以前からミラノの覇権に耐えられなくなっていた小国群がそれに加盟した。そしてスフォルツア統治内部の主要反対派にも接触を行っていた。上記したようにモーロと対立関係にあった傭兵隊長トリヴルツイオはそれ以前からすでにフランス側の指揮官の座を得ていた。

●孤立するミラノ、イル・モーロの最後
実質上、ミラノは孤立してしまった。本来なら味方である皇帝マクシミリアン2世は、帝国からの独立を求めて戦うスイスと戦争の真っただ中で以前からの財政危機にあり実質的援助は得られないままだった。
イル・モーロ側は敵側の強力な陣容に匹敵する軍隊の整備に尽力したが、時すでに遅かった。フランスとヴェネツイアの軍隊に攻められ、ミラノの城を城守に託し、マクシミリアン皇帝の助けを求めてインスブルックに向かった。

一方、トリヴルツイオが指揮官として率いるフランス軍は、まったく抵抗のないミラノを征服しし、10月18日ルイ12世はミラノに凱旋入城する。まもなく、ミラノ貴族層は、外国勢力の横暴に対し不満を示し、民衆は、課税やフランス軍駐在維持の負担に不満がつのった。モーロの出発を喜んだミラノ人も、今はモーロに対し、早く戻ってほしいと頼む始末であった。インスブルックでは、イル・モーロは皇帝からは具体的な返事を得ることもなく、我慢の限界に達していた。そこへミラノからの要請を受け、その復帰を進めるため、イル・モーロはスイス傭兵8000名とボルゴーニャ兵500名などを急遽雇い、イタリアに南下した。モーロがコモに到達したという知らせをきき、ミラノでは総督を任じられていたトリヴルツイオの威嚇にもかかわらず、人々が蜂起し、フランス勢をノヴァーラにおいやった。

1500年2月4日、イル・モーロはミラノ人からあたかも「解放者」のように歓迎され、スイス傭兵の力を借りて一時ミラノを回復した。しかし、体制を取り戻したフランス軍により、まさにそのスイス傭兵の裏切りのためもあり、ノヴァーラの戦いで捕虜となりフランスにおくられ、1508年フランスのロシェズ城で囚人として亡くなった。

ところで、ベアトリーチェ逝去後、イル・モーロは、自分とベアトリーチェの葬儀記念碑をサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会への設置を命じ、ベアトリーチェの遺体は、同教会合唱席の奥の高部に暫定的に配置させ、クリストフォロ・ソラーリに夫妻の横臥像を制作させていた。イル・モーロ失脚後、墓碑は解体され行方不明となった。唯一残されている部分が、1564年にパヴィア修道院に設置され、現在も保存されている夫妻横臥像の部分である。

写真上33)イル・モーロとベアトリーチェの夫妻横臥像  クリストフォロ・ソラーリ作  パヴィア修道院所蔵

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今回は、期間は短いながら波乱に満ちた「スフォルツアの時代」の動きを追った。タイトルを「権力、栄華、そして」としたが、ヴイスコンティ家と同様、スフォルツア一族の「権力」に対するあくなき固執とエネルギーには驚かされる。

エミリア・ロマーナ小村の農民出身の若者が、戦乱の世を巧みに生きて、中部イタリアや南イタリアで傭兵隊長として出世する。彼とトスカーナの職人の娘との間に生まれた長男フランチェスコは、フェッラーラやナポリ宮廷で育ち、父の傍らで戦いの技や政治的手腕を磨き、ナポリ王国やイタリア各地で最強の傭兵隊長として名声を高め、ついにはミラノ公国と決定的な出会いを得る。そして彼はミラノ公国掌握を紆余曲折の果てに実現するのだ。

ミラノにとって「よそ者」のフランチェスコ・スフォルツアは、よそ者で名門出身でないことが常にハンディになったのは事実だ。半面、イタリア全域の政治地理や文化風土を知り尽くし、各地の主要人物と切磋琢磨してきた経験は彼の強みともなり、それゆえに「カンパニリズム」の強いミラノ社会を刷新し外部の新潮流をとりこむ必要性を痛感し、自ら取り組むことになる。また、興味深いのは「戦争のプロ」として成長してきたゆえに、政治力・外交手段を駆使した「平和の達人」に大変身できたことだ。

とはいえ、その「偉すぎる父親」の存在は、長男ガレアッツオを不幸な運命に終わらせ、その後、権力を掌握したイル・モーロも、父親を乗り越えること、そのために父親の果たせなかった悲願である「公爵位」取得の実現に確執する。そして彼もまた、ミラノに外部からルネッサンスの動きを積極的に取り組み「偉大なるミラノ」とすることで、自らの権力と栄華を表現しようとする。

イル・モーロはその「権力と栄華の頂点」で、突然に失脚し、ミラノ公国のみならず、イタリア各国を「イタリア戦争」に巻き込むきっかけをつくり、その後何世紀にもわたる外国勢力によるイタリア支配の時代が始まってしまう。

ただ、時代はすでに、新しいヨーロッパ体制を形成しつつあった巨大な専制国家の前には、地域君主国が対立しあっていたイタリア体制は、遅かれ、早かれ、終わる運命にあった。ミラノ公国は、その地理的ポジションが、アルプスを背にして国境沿いに位置し、ヨーロッパのイタリア半島への主要道路が集まり交流する地点にあったことで、その恩恵を誰よりも活用したが、同時に、新しいヨーロッパの動きに真っ先に巻き込まれることになったといえよう。

いずれにしても、「スフォルツアの時代」は「50年間」と短期間ながら、ミラノに建築や芸術作品で大きな業績を残した。「権力と栄華」の関係を改めて考えさせられる非常に興味深い時代である。


著者紹介
大島悦子(Oshima Etsuko)

東京外語大イタリア語学科卒。日本オリベッティ広報部、生活科学研究所を経て1990年ミラノ・ボッコーニ大学客員研究員。現在、ジャパン・プラス・イタリア社代表取締役。2000年より「イタリア旅行情報サイト(JITRA)」主宰。イタリア社会・産業・地域事情などの委託調査研究、日伊間ビジネス・文化観光交流事業の企画コーディネートに従事。著書に日経研月報にて「もう一つの市場を創るイタリアのミクロトレンド」連載(日本経済研究所発行)、共著「そこが知りたい観光・都市・環境」(交通新聞社発行)他。

知ってほしい「ミラノの歴史」データ
Dati
■スフォルツェスコ城博物館  Musei del Castello Sforzesco
所在地:Piazza Castello
開城時間:城内入城 7:00-19:30 無休 入城無料
開館時間:博物館 10:00-17:30 月曜休館 有料
https://pinacotecabrera.org/en/

■ブレラ絵画館  Pinacoteca di Brera
所在地:Via Brera, 28 20121 Milano
開館時間:9:30-18:30 月曜休館 有料
https://www.duomomilano.it/

■サンタ・マリア・インコロナータ教会 Chiesa di Santa Maria Incoronata
所在地:Corso Giuseppe Garibaldi 116, Milano, 20121
開館時間:07:30-12:00 16:00-19:00

■サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会 Chiesa di Santa Maria presso San Satiro
所在地:ViaI Torino, 17/19 20123 Milano
開館時間:09:30-17:30 月曜休館 

■サン・テストルージョ聖堂  Basilica di Sant'Eustorgio
所在地:Piazza Sant'Eustorgio 1 - 20122 Milano
開館時間:07:30-12:00 15:30-18:30
http://www.santeustorgio.it/ 
ポルティナリオ礼拝堂Cappella Portinari 
見学には「Il Museo di Sant'Eustorgio」入館必要 有料
開館時間:10:00-18:00、月曜休館
http://www.museosanteustorgio.it/il-museo/ 

■サンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会 Basilica di Santa Maria delle Grazie
所在地:Via Giuseppe Antonio Sassi, 3 20123 Milano
開館時間:月-土 7:00-13:00 15:30-19:30 日曜7:30-12:30 16:00-21:00
http://www.museosanteustorgio.it/il-museo/

■ミラノ国立大学 Universita degli Studi di Milano
所在地:Via Festa del Perdono 7 - 20122 Milano
https://www.unimi.it/en

■レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館 
Museo Nazionale della Scienza e della Tecnologia
所在地:Via San Vittore, 21 - 20123 Milano
開館時間:10:00-18:00 月曜休館  有料
https://www.museoscienza.org/it

■チェルトーザ・ディ・パヴィア Certosa di Pavia
所在地:Viale Monumento 4 , 27012 Certosa di Pavia
開館時間:11月-2月 9:00-11:30 14:30-16:30  月曜休館 https://www.certosadipavia.it/contatti/

■クレモナのシジスモンド教会  Chiesa di San Sigismondo
所在地:Largo Bianca Maria Visconti 3 - 26100 Cremona
開館時間:6:45-12:00 15:00-18:30
Tel 0372 801700
https://www.turismocremona.it/it/san-sigismondo

注:上記の開館時間は変更になる場合があります。また、入館にあたってグリーンパス(コロナワクチン接種証明書、コロナ陰性証明書など)や身分証明書等の提示が必要な場合があります。事前予約が必要な場合もあります。訪問にあたっては事前にご確認ください。

<画像について>
著者撮影:1,4,6,7,8,11,12,13,14,15,16,17,18,19,23,25,26,27,28,29,30,32,33
出典 Wikipedia:
2,3,5,9,10,20,21,22,24,31




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