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イタリア世界遺産の旅
15 novembre 2008
フィレンツェの歴史地区
Centro storico di Firenze



トスカーナ州 Toscana
フィレンツェ県 Firenze
登録年 1982年
登録基準 文化遺産(T)(U)(V)(W)(Y)



文・写真 牧野宣彦

人類の歴史上文化が最も輝いたのが、フィレンツェのルネッサンス時代であろう。現在その栄光を伝える沢山の記念物が町に残っている。フィレンツェは1982年(T)(U)(V)(W)(Y)等の基準で世界文化遺産に登録された。中世封建体制から早く抜け出し、ルネッサンスの運動が何処よりも早く始まり、その運動はイタリアのみならず、他のヨーロッパ諸国にも大きな影響を与えた事が高く評価されている。そしてフィレンツェには、その証となる建築物、絵画、彫刻、メディチ家が残した町並みなどが今なお当時と変わらぬ姿で現存している。また絹織物業などで栄えた資産家の宮殿、邸宅、橋なども既に消滅した遺産として価値を認められている。

●古代ローマの殖民都市として建設
フィレンツェは、紀元前1世紀にカエサルによって建設された古代ローマの殖民都市として、「フィオレンツァ」と呼ばれ、ヴェッキオ橋の周辺に人々が住んでいた。6世紀の終わり頃ランゴバルト人が北、中部イタリアを征服した時、フィレンツェもその支配下に入り、厳しい時代に突入し、街は荒廃した。8世紀のカロリング王朝時代フロレンティアは神聖ローマ帝国の一部になり、市の城壁も造られ、10世紀頃洗礼堂、サン・ミニアート教会などロマネスク様式の建築が建設された。

1115年フィレンツェを領有していたマティルデ女伯爵が没後、自治都市になり、その後フィレンツェでは毛織物工業と絹織物工業が発達し、更にこれらをヨーロッパ各地、以外にも輸出し、銀行業事業を拡大し最初の為替手形、フィレンツェ市の紋章入りのフィオリーノ金貨などを発行した。この時代の主要な銀行家は、100年戦争の初期イギリスに多額の金を貸し付けたバルディ・ペルッツィ家、ピッツィ家、ストロッツィ家、パッツィ家、そしてその後メディチ家が、台頭して来た。12世紀から13世紀フィレンツェは、産業は繁栄していたが、内乱に見舞われ、ドイツ皇帝に味方するギベリーニ党と教皇を支持するグエルフィ党が激しく対立した。教皇党の人々は一時共和制を樹立したが、その後も教皇党白派、教皇党黒派などが対立し、教皇党白派を支持していたダンテは、1302年以後永久にフィレンツェから追放されるという悲劇が起こった。

写真トップ:フィレンツェの大聖堂から見たパノラマ(手前は「ジョットの鐘楼」)
写真左:ポンテ・ヴェッキオ  写真右:ダンテ像

●15世紀にルネサンス芸術頂点に
この時代フィレンツェは1269年にシエナ、1289年アレッツォ、ピサなどを制圧し、13世紀半ばから14世紀前半にかけて、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、サンタ・クローチェ教会、花のサンタ・マリア・デル・フィオーレ、パラッツォ・ヴェッキオなど現在見られるルネッサンスの壮麗な建物が建てられた。そしてこの建物を装飾する為にチマブーエ、ジョット、アルノルフォ・キャンビオ、アンドレア・ピサーノなどの芸術家が呼び集められた。当時フィレンツェの人口はどんどん拡大し、第2期、第3期の城壁が建設され、1333年には完成した。そしてその面積は以前の8倍になり、これ以上500年は拡大する必要がない程であった。1343年フィレンツェ市民は、アテネ公の追放に成功し、その繁栄と平穏な時代は長く続くと思われたが、1342年から1345年にかけて銀行の破産、1348年ペストの流行、1378年に起こった下層労働者チョンビの乱などが起こり、人口は半分に激減し街は危機的状況になったが、トスカーナの大半を治め、その覇権は揺るがなった。

1434年前年に一市民として追放されていたメディチ家のコジモ・イル・ヴェッキオが、亡命先のヴェネツィアから故国フィレンツェへ凱旋将軍のように迎えられ、帰国しフィレンツェは、共和制から事実上の独裁体制に移行してゆく。彼は自由都市フィレンツェを、表面上は共和主義体制を維持しつつ、君主としてフィレンツェを支配した。彼は、ヨーロッパ初の公共図書館の創設、プラントン・アカデミーなどを創設し、古典を研究させた。その後彼の孫に当たる"イル・マニフィコ""偉大"と称されたロレンツォ・メディチが、祖父の事業を継承し、1469年から1492年まで支配は続いた。そしてこの時代は人類の歴史上最大の文化の花が咲いたルネッサンスと呼ばれる芸術運動が頂点に達したのであった。イタリア中から偉大な才能が呼び集められた。その中にブルネレッスキ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、ミケロッツィオ、べネデット・ダ・マイアーノ、ジュリアーノ・サンガロなどの建築家、マザッチョ、ベアート・アンジェリコ、アンドレア・デル・カステーニョ、パオロ・ウッチェロ、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、フィリッピーノ・リッピ、べノッツォ・ゴッツォーリの様な画家たち、ドナテッロ、ヴェロッキオ、ポッライウオーロ、ルカ・デッラ・ロッビア、ギベルティなどの彫刻家が活躍した。

写真左:フィレンツェの町を流れるアルノ川、右:シニョーリア広場にあるネプチューンの噴水

●レオナルドやミケレンジェロなど巨匠が活躍
偉大な君主だったロレンツォは1492年に亡くなりフィレンツェのルネッサンスは事実上終焉し、第2次ルネッサンスはローマと北イタリアが中心になるが、その準備をしたのはフィレンツェで、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロなどの巨匠もフィレンツェでその名前が知られるようになった。フィレンツェは、1494年メディチ家の追放、サヴォナローラの登場、その後フィレンツェは1527年から1530年まで、メディチ家の追放に成功するが、1531年神聖ローマ帝国皇帝カール5世の軍隊に支援されて、メディチ家のアレッサンドロが、フィレンツェに復帰し、初代のフィレンツェ公に就任し、共和主義体制は崩壊した。フィレンツェは1569年メディチ家のコジモ1世の下で、トスカーナ公国に昇格し、1555年シエナを併合する。そしてこのコジモ1世の時代にフィレンツェは、栄光ある自由都市としての繁栄の幕を閉じたといわれている。

16世紀フィレンツェは再びアンマンナーティやヴァザーリが現れ、街を飾るが、当時の第一級の芸術家達レオナルドはミラノ、フランスへ、ミケランジェロはローマへとその活動の拠点を移し、再びフィレンツェには戻らなかった。17、18世紀フィレンツェは経済的にも文化的にも没落し、1737年トスカーナ大公としてのメディチ家は断絶し、その後トスカーナ大公国は、ハプスブルクのロートリンゲン家に継承され、1737年からイタリアが統一される1860年までナポレオン、フランスなどの一時的支配を除いて100年以上の期間その統治が続いた。1860年イタリア王国に併合されたフィレンツェは1865年から1870年までイタリア王国の首都なった。

写真左:ミケランジェロ広場から眺めるフィレンツェの町、右:夕暮れ時のフィレンツェ

●感動的なミケランジェロ広場からの光景
私がフィレンツェを初めて訪れたのは、1972年、それ以来テアトロ・コムナーレへオペラを見に行くために訪れた事は10回以上に上る。1998年にボローニャに住み始めてからは、汽車で1時間のフィレンツェは訪れる機会が多いので、20回以上は訪れた計算になる。私の一番好きな場所はミケランジェロ広場から見るフィレンツェ。フランスの文豪ロマン・ロランはこの丘からフィレンツェを眺め、名作「ジャン・クリストフ」のインスピレーションを得たといわれている。私は何度もここを訪れているが、花のサンタ・マリア・デル・フィオーレの丸いドーム、ヴェッキオ橋、高いパラッツォ・ヴェッキオの塔などが配置された街を見ていると、この街が如何に素晴らしいかいつも実感する。

1771年フィレンツェを訪れたモーツァルトの父親レオポルドは妻に宛てた手紙で「フィレンツェ、人はここで生き、そして死ぬべきです。」と妻にフィレンツェの印象を書き送っているが、ミケランジェロ広場からフィレンツェを見ていると彼の言葉が、本当にその通りだと思う。私はこの街を度々訪れているが、まだ訪れていない場所がかなりあり、最近はボローニャから日帰りで、教会、美術館などひとつずつ訪れている。すると個人の財力でこれだけの町にしたメディチ家の人々が如何に偉大であったと推察される。
写真左:大聖堂のファサード、右:ヴェッキオ宮殿

●花の聖母マリア大聖堂とドゥオーモ美術館
サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア大聖堂=ドゥオーモ)は、1296年にアルノルフォ・キャンビオによって建設が開始され,1413年に聖堂、1436年にブルネレスキによって巨大なドームが付けられ、1887年にファサードが完成した。去年の12月に久しぶりにここを訪れ、クーポラに上がり、ヴァザーリの描いた絵を間近に見た。そしてジョットの鐘楼84.7mに上った。空は曇っていたが、上から見るフィレンツェは、赤茶けた色のレンガの屋根と彼方の丘などの織り成す景色が素晴らしく、この街の偉大さを身をもって実感できた。その後私はドゥオーモ美術館に行った。ここには、フィレンツェの重要な彫刻作品が収められていて、ミケランジェロのピエタはやはり素晴らしかったし、特に私にとって印象的だったのは、ドナテッロとルカ・デッラ・ロッビアが競作した「聖歌隊席」で、浮き彫りのような感じだが、とても精巧に出来ていて、立体感があり、素晴らしかった。それと地上階にあった、ギベルティ作の「天国の扉」は、造られてから500年以上も経過しているにもかかわらず、燦然と黄金に輝いていた。

この日はその後サンタ・マリア・ノヴェッラ教会に行った。1246年から1360年にゴシック様式で建設された。内部にはギルランダイオの描いた「マリアと洗礼者ヨハネの物語」、ブルネレスキが製作した「磔刑像」などがあったがこれも素晴らしかった。

写真左:ウフィッツィ美術館所蔵のボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」
写真右:同「プリマヴェーラ(春)」

●ヴェッキオ宮殿とウフィッツィ美術館
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・キャンビオが設計したといわれ、1299年から1314年にかけて共和国の市庁舎として建設された。94mのアルノルフォの塔は、フィレンツェの景観の美しさに花を添えている。内部にはヴァザーリの描いたマニエリズムの絵で装飾された500人の間がある。建物の前はシニョーリア広場があり、入り口にはミケランジェロの「ダヴィデ」のコピー、向かって左にあるネプチューンの噴水はアンナマナーティが製作した。その隣にはジャンボローニャの製作した「コジモ1世の騎馬像」がある。この広場は、政治的なエベントが行われ、ここで1498年に修道師サヴォナローラが火あぶりの刑に処され、その場所には碑がある。

ウフィッツィ美術館は1560年から1580年にかけてヴァザーリによって、トスカーナ大公国の役所として建設された。イタリアでもボルゲーゼ美術館と並ぶ最も重要な美術館で、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ,ラファッエロなどの傑作もあるが、やはりこの美術館を代表するのがボッティチェリの描いた「ヴィーナスの誕生」と「プリマヴェーラ」であろう。ギリシャ神話の物語だが、フィレンツェの盛期ルネッサンスの息吹が伝わってくる傑作だと思う。私は、若い頃辻邦生著「春の戴冠」を読み、すっかりボッティチェッリファンになり、何度もこの絵を見ているが、「プリマヴェーラ」は色々な解釈があり、当時のメディチ家の複雑な人間関係など考えなら見ているといつも新しい発見をする。この美術館が今沢山の作品を所蔵しているのは、18世紀半ばメディチ家最後の子孫アンナ・マリア・ルイーザが亡くなる時「メディチ家のコレクションがフィレンツェに留まり、一般に公開される」事を条件とする遺言を残したからで、もし彼女の遺言がなかったなら、これらの作品はウィーンに行っていたかもしれない。

ヴェッキオ橋は、現存するアルノ河にかかる最も古い橋、ドイツ軍が爆破しなかった唯一の橋で1345年に建設された。昔は生鮮食品が販売されていたが、現在は宝石店、金銀細工の店などが立ち並ぶ。
サン・ロレンツォ聖堂は、ブルネレスキが1442年から1446年にかけて設計した聖堂で、内部にはドナッテロの最後の作品やヴェロッキオの作品がある。

写真左:ピッティ宮殿、右:サンタ・クローチェ聖堂

●ピッティ宮殿とパラティーナ美術館
ピッティ宮殿は、1458年に建設された豪華な宮殿で、ピッティ家が破産したためメディチ家に買い取られ、1545年以降トスカーナ大公の住まいとなった。中にはパラティーナ美術館があり、ピエトロ・ダ・コルトーナの描いた壮麗な天井画は目を見張る。展示されている絵画も素晴らしく、ラファエッロの「小椅子の聖母」「ベールを被った女」、ティントレット、ヴェロネーゼ、アンドレア・サルト、ティッツィアーノなどイタリア美術史を代表する名画が展示されている。また、ここはオペラの歴史でも重要な場所でオペラ史上2番目のオペラ、ヤコポ・ペーリとジュリオ・カッチーニ作「エウリディーチェ」が1600年10月6日初演された。

メディチ・リッカルディ宮殿は、ルネッサンス時代のフィレンツェ建築の代表的なモデルとなった建築で、コジモ・イル・ヴェッキオが、建築家のミケッロツィに依頼し1444年から着手した。メディチ家はトスカーナ大公となったコジモ1世の時代までここを住居としていたが、1659年にリッカルディ家に売却され、その後ロレーヌ家の所有になり、現在はフィレンツェ県の県庁として使われている。内部にはミケロッツォの建てた礼拝堂があり、これは初期ルネッサンス建築の傑作と言われ、天井、椅子、中庭も彼が設計した。壁に描かれた壁画がべノッツォ・ゴッツォーリの有名な「東方3博士の礼拝」で、この絵はそれまで画集などで見ていたが、予想以上に美しい色彩の絵で、今描かれたように生き生きしていた。描かれている人物は皆メディチ家の人といわれ、彼らの残した業績と顔を対比して見ていると一人一人個性があって面白かった。

サンタ・クローチェ聖堂は、1294年アルノルフォ・キャンビオによって建設された。ジョットの壁画、ドナテッロの有名な木彫り(キリスト磔刑)などがあるが、ここにはダンテの記念碑、ミケランジェロ、マキャベッリ、ガリレオ・ガリレイ、ロッシーニなどが、葬られている。

●アカデミア美術館の傑作「ダヴィデ」像
アカデミア美術館は、1784年ロートリンゲン大公レオポルドの遺言によって1784年に開場した。隣に美術学校があり、学生たちに作品を鑑賞させる為に多くの作品を展示した。13世紀のフィレンツェの絵画、フィリッピーノ・リッピの「十字架降下」アンドレア・サルトの「ピエタ」などの傑作があるが、ミケランジェロの傑作「ダヴィデ」がある。この作品は、彼の25歳頃の作品で、旧約聖書に登場する英雄ダヴィテが巨人ゴリアテを打ち倒さんと、相手を睨んでいる作品で、ルネッサンスの自由な空気を表現している作品といわれる。捨て子養育院は、ルネッサンス建築を代表する最も優美な建築といわれ、1419年ブルネレスキが建設を始め、フランチェスコ・デッラ・ヌーナが1445年に完成した。ここには絵画館があり、私はこの場所をまだ訪れていないが、ボッティチェリの「聖母子」ドメニコ・ギルランダイオの「東方3博士の礼拝」などの作品がある。

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会は、去年の6月初めて訪れたが、この教会に飾られているマザッチョ、マゾリーノの絵は素晴らしかった。ピンクを使った美しい絵で、特にマザッチョの「楽園追放」は、画集などで何度見ていたので、本物を見る事が出来てとても感動した。この絵は想像以上にソフトで優美に描かれていた。この他にもメディチ家礼拝堂には4体のミケランジェロの彫刻があり、フィレンツェにはおびただしい絵画、彫刻などの優れた作品が見られる。

写真左:レップブリカ広場、右:日没時のアルノ川

●「オペラ発祥の地」フィレンツェ
フィレンツェは、偉大な美術に隠れがちだが、音楽でも偉大な貢献をした町だった。フィレンツェでは、オペラ以前にインテルメディオという音楽劇が宮廷の子女の結婚式などで上演されていた。
オペラは古代ギリシャ悲劇を復活しようと、音楽を伴奏として朗誦する劇を創作したのがその初まりといわれている。当時フィレンツェではパルディという貴族が、邸を人文主義者、哲学者、詩人、音楽家などに解放し、一種のアカデミーの様なものを主宰していた。ここに集まった人たちはカメラータと呼ばれ、古代ギリシャの音楽劇を復興しようとしていた。劇作家、作曲家としての才能に恵まれたバルディは、1592年ローマ教皇の招請を受け、教皇の宮廷楽長になり、フィレンツェを去った。

会合の場を失ったカメラータの後を引き継いだのが、コルシで、彼の邸から人類史上最初のオペラが誕生するのである。最初のオペラはカメラータのメンバーだった詩人ルヌッチーニが劇的パストラーレ「ダフネDafne」を書き、作曲家ヤコポ・ペーリが曲を付け1598年の謝肉祭に期間にコルシ邸で上演された。内容的にはインテルメディオの延長であったと言われる古都の作品の楽譜は、消失してしまっているが、これが史上初のオペラ上演といわれる。このコルシ邸は、現在バンカ・インテーザのフィレンツェ支店になっている。次に上演されたのが、前述した「エウリディーチェ」で1600年に上演されたが、これもリヌッチーニが台本を書き、ヤコポ・ペーリ、ジュリオ・カッティーニが曲を付け、これが現存する世界最古のオペラになっている。この2つのオペラの成功を見た貴族が自分の館でもオペラなるものを上演しようと試みたのがオペラの発祥である。

●「ピアノ」の発明もメディチ家の功績
フィレンツェには1656年にペルゴラ劇場、恐らくイタリアで現存する一番古い劇場が出来るが、その後オペラの中心は、モンテヴェルディがヴェネツィアに行き、中心はヴェネツィアに移動し、それ以後フィレンツェがオペラの中心になる事はなかった。もう一つのフィレンツェにおける音楽上の偉業は、現在のピアノというものが、この街で発明されたの事である。

ピアノ歴史は、11世紀に中東からヨーロッパに伝えられたダルシマーといわれる。その後14世紀にはクラヴィコードが誕生し、4から5オクターブの音域があった。1500年頃イタリアでチェンバロが発明され、その後フランス、フランドル、ドイツなどヨーロッパ各地に広まった。現在のピアノの原型を作ったのはバルトローメオ・クリストーフォリ(1655〜1731)で、彼は1655年パドヴァで生まれ、1687年にトスカーナ大公コジモ3世の長男フェルディナンドに出会う。彼の作った楽器を見たフェディナンドは、クリストーフォリをフィレンツェに招請し、メディチ家の楽器管理を、任せた。そして彼は1700年にはピアノを完成し、1709年までには、少なくとも3台のピアノを完成したといわれる。彼は生涯ピアノの改良を続け、1726年までに音の強弱を調節できるピアノを完成した。その後ピアノは、ドイツやヨーロッパ各地に広がって行き、多くのピアノの名曲が作曲されるが、このピアノとオペラの発明は、メディチ家の功績といえる。


データ
Dati

■フィレンツェへのアクセス
<電車>
ローマからはユーロスターES利用で約1時間45分、ミラノからは約2時間45分。

■ツーリストインフォメーション
フィレンツェ観光局APT  Ufficio Informazione Turistica
http://www.firenzeturismo.it/

1. Via Manzoni 16
Tel: 055-23320
営業時間:月〜金 9:00-13:00

2. Via Cavour 1 Rosso 
Tel: 055-290832/ 055-290833
営業時間:月〜土 8:30-18:30、日・祭日 8:30-13:30

3. Piazza Stazione 4/a  
Tel: 055-212245 Fax: 055-2381226
営業時間:月〜土 8:30-19:00、日・祭日 8:30-14:00

4. Borgo Santa Croce 29 Rosso
Tel: 055-2340444 Fax: 055-2264524
営業時間:(4月〜10月)月〜土 9:00-19:00、日・祭日 9:00-14:00 (11月〜3月)月〜土 9:00-17:00、日・祭日 9:00-14:00

■その他
大聖堂 ブルネレスキのクーポラ Cupola
開館時間: 月曜〜金曜 8:30-19:00、土曜 8:30-17:40、第一土曜 8:30-16:00、5月1日 8:30-17:00
閉館:日曜、1月1日、1月6日、復活祭の日曜、4月25日、6月24日、8月15日、9月8日、11月1日、12月26日
入館料: 6.00ユーロ

ヴェッキオ宮殿 
Palazzo Vecchio
Piazza della Signoria
Tel: 055-2768465
開館時間: 平日 9:00-19:00、木曜・祝日 9:00-14:00
閉館: 1月1日、1月6日、復活祭の日曜、5月1日、8月15日、12月25日
入館料: 6.00ユーロ

ウッフィツィ美術館
Galleria degli Uffizi
Piazzale degli Uffizi, 6
開館時間: 火〜日曜 8:15-18:50
閉館: 月曜、1月1日、5月1日、12月25日
Tel: 055-2388-651/652 予約電話: 055-294883
入館料: 11.50ユーロ  予約料: 5.75ユーロ
http://www.uffizi.firenze.it/welcomeE.html

サンタクローチェ教会 教会付属美術館 
Chiostri Santa Croce, Museo Dell'Opera di Santa Croce
Piazza Santa Croce, 16
Tel: 055-2466105
開館時間: 平日 9:30-17:30、日曜・祭日 13:00-17:30
入館料: 4.00ユーロ(教会、美術館共通)

アカデミア美術館
Galleria dell'Accademia
Via Ricasoli 60
開館時間: 火〜日曜 8:15-18:50
閉館: 月曜、1月1日、5月1日、12月25日
Tel: 055-2388-609/612 予約電話:055-294883
入館料: 6.50ユーロ
http://www.firenzemusei.it/accademia/index.html

パラティーナ美術館
Galleria Palatina (ピッティ宮殿内)
Piazza Pitti, 1
開館時間: 8:15-18:50、月曜休
電話: 055-2388614 予約電話: 055-294883
入館料: 8.50ユーロ
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