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イタリア世界遺産の旅
15 dicembre 2010
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
Centro storico di Roma, le Proprieta' della Santa Sede che godono dei diritti di extraterritorialita', e San Paolo Fuori le Mura

ラツイオ州 Lazio
ローマ県 Roma
登録年1980
登録基準 文化遺産(T)(U)(V)(W)(Y)


文・写真 牧野宣彦

2500年の歴史を誇る永遠の都ローマは、(T)(U)(V)(W)(Y)などの登録基準で1980年に世界文化遺産に登録され、1990年に範囲が拡大された。
写真トップ:ローマの「フォロ・ロマーノ」

●ローマの歴史
建国以来のローマの歴史をざっと紐といてみよう。
ローマは伝説によれば紀元前8世紀頃神の子孫であるトロイアの英雄アエネイアースが、ギリシャ軍によって滅ぼされた祖国を逃れ、新しいトロイアの建設をする為にテヴェレ川河口にやって来た。土地の王たちを打ち負かし、その後ヴェスタの巫女とマルスの神が結ばれて、誕生したのが双子の兄弟レームスとロムルスで、2人はテヴェレ川に捨てられ、その後流されてパラティヌスの丘の岸辺に打ち上げられ、雌狼に育てられた。後にロムスは、この場所に堀を掘って、印をつけ、そこに新しい町が建設される事になった。レームスは町の神聖な城壁をふざけて飛び越えた為にロムルスに殺されたといわれている。

ロムルスは彼の村の人口を増やすために無法者たちをカピトリーノの丘に住まわせ、妻としてサビニ人の女を彼らに与えた。ラテン人の王とサビニ人の王は同盟関係を結び、エトルスキ人がローマにやって来るまで交互に統治した。その後2世紀の間エトルスキ人はこの地を支配したが、ローマ人は海外との通商で経済力を高め紀元前509年にはエトルスキの王タルクィニス・プリスクス王を追放し、ローマは5世紀に渡る共和制の時代(紀元前509〜前31)に突入、共和制を実施し、領土拡大に努めた。しかし紀元前2世紀から1世紀にかけて、共和政体は内部抗争が激しくなり、政治的対立によって、分裂したローマは、征服した新しい領土を有効に活用できなくなっていた。即ちそれを解決するには、人望、政治力、雄弁で軍事の才に優れたカエサルの様な人物が出現しなくてはならなかった。

写真左: カラカラ浴場、右: サン・ピエトロ寺院

カエサルは、政治的対立に終止符を打ったが、志半ばにして前44年3月15日テロリストの刃に倒れた。その後、彼の養子オクタヴィアヌスが前27年皇帝に就任、元老院でアウグストゥスの称号を授けられ、帝政に移行して行った。彼は軍事の才能はなかったが有能でローマ帝国繁栄の基礎を造った。その後ローマはトラヤヌス帝(在位98〜117)の時代最大の帝国になるが、3世紀以後、蛮族の侵入、民族大移動や、帝国内の矛盾が現れ、約1000年の長い間繁栄した西ローマ帝国は476年に滅亡するが、西暦313年に行われたコンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認と国教化は、ローマをカトリック教徒の聖地として再生させ、新たな繁栄が始まった。

カトリックの首都となったローマには、現在でも300を超える教会が点在している。ルネッサンス時代の歴代の教皇は、文化を愛し、ブラマンテ、サンガッロ、ミケランジェロ、ラファエッロなどの天才を呼び寄せ、ローマの街を装飾した。17世紀に入り、1623年に教皇に就任したウルバヌス8世はガリレオに地動説を撤回させた事で悪名を残したが,バロックの建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニにサン・ピエトロ大聖堂の内陣の天蓋(バルダッキーノ)、スペイン広場の前にあるバルカッチャの噴水、バルベリー二広場にあるトリトーネの噴水などを制作させ、またフランスの二コラ・プーサン、クロード・ロランらをローマに招いて活動させた。

この時代ローマではバロック建築が隆盛を極め、建築家ボッロミー二、ベルニーニらがバロック建築の傑作を次々に建設した。ベルニーニGian Lorenzo Bernini(1598〜1680)は、彫刻家としても優れ、ボルゲーゼ美術館にある「アポロンとダフネ」、「プロセピナの略奪」「ダヴィテ」、叉建築家として楕円形のサン・ピエトロ広場、現在のイタリアの下院であるモンテチトーリオ宮などを造った。またフランチェスコ・ボッロミー二Francesco Borromini(1599〜1667)は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会の改修、サンタ二ェーゼ聖堂建設などに携った。1644年に就任したインノケンティウス10世はこの二人の建築家を保護し、ベルニーニはナヴォーナ広場に大河の泉Fontana del Fiumiを制作した。インノケンティウス10世の後を継いだアレクサンドル7世も政治よりも学問、芸術を好み、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのパトロンになりサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の装飾、サン・ピエトロ広場を囲む2重の柱廊などを造らせた。18世紀に入り、1730年に教皇に在位したクレメンス12世は、ローマ市内の道路の舗装工事を行い、叉、彫刻家二コラ・サルヴィにローマ最大の名所になっているトレヴィの泉を制作させた。18世紀のローマは現在各広場に見られる豪華な噴水等も既に出来ていた。

この時代ローマを統治していたのは教皇ピウス6世で、彼は、1775年に教皇に就任したが、難問山積で1789年にはフランス革命に遭遇、その後ナポレオンが1797年に教皇領に侵入し、ナポレオンに人質にされフランス各地を転々とさせられ、1799年にフランスのヴァランスで、失意のうちに世を去ったが、歴代の教皇と同じように芸術、文化の愛好者で、現在のヴァティカン美術館は教皇ピウス6世が創設した。その後ナポレオンの侵入でローマの文化遺産が大分持ち去られた事もあったが、1871年には統一イタリアの首都になり、現在に至っている。

●ローマの主要記念物
「永遠の都」と呼ばれ、全ての道はローマに通ずるといわれるローマは、2500年の歴史が息づき、直径約5k位の街の中にローマ時代の遺跡、中世の建造物、ルネッサンス時代の遺産、バロックの建築、美術館など各時代を代表する記念物が多数存在し、世界最大の文化遺産の宝庫である。ローマは7つの丘の上に建てられたといわれるが、その一つジャ二コロの丘から夕陽で金色に包まれたローマを見ると、その都市計画がいかに壮大で永遠の都と呼ばれるのに相応しいかわかる。世界遺産に登録されているローマの記念物を紹介しよう。

写真左:カピトリーノ博物館所蔵の「カピトリーノの雌狼」、右:ポポロ広場

Piazza del Campidoglioカンピドーリオ広場は共和政時代の7つの丘の一つで、二つの丘からなり、ユノー、ユピテルの神殿が聳えていた。この広場でミケランジェロが設計したものは、奥のセナトリオ館、現在はローマの市庁舎で、左はヌォーヴォ館、右はコンセルヴァトーリオ館で、現在カピトリーノ博物館になっている。広場には1981年まで古代ローマ時代の唯一の現存する騎馬像「マルクス・アウレリス帝の騎馬像」があった。現在はコピーが広場の中央に立っている。中世の時代にローマ時代の記念物などは殆ど破壊されたが、この像だけは破壊されなかった。というのは、この像は最近までコンスタンティヌス1世の像だと思われていたからで、彼はいうまでもなくキリスト教を国教化した人だったからだ。西斜面の丘に大きな階段があり、この階段もミケランジェロの設計で、ジャコモ・ダ・ポルタが変更を加えたものである。階段を昇って行くと最上階に2つの彫刻がある。これはコンスタンティヌス帝と息子コンスタンティヌス2世の彫像で、夕日を浴びた時、彫像、階段の織り成す景色は限りなく美しかった。また左にはアラコエリ教会がある。

カピトリーノ博物館Musei Capitolini は、コンセルヴァトーリオ博物館、ブラッチョ・ヌォーヴォ博物館、新博物館、カピトリーノ絵画館等5つを総称してカピトリーノ博物館という。彫刻部門は、前5世紀から18世紀頃までの作品があり、その中には、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「ウルヴァヌス8世」など素晴らしい作品が多い。しかし私の一番興味を惹いたのは、ローマを建国した2人の兄弟を育てた雌狼の像で「雌狼の間」に展示されていた。作品は「カピトリーノの雌狼」と呼ばれ、紀元前5世紀初めに制作されたブロンズの像で、狼の乳を飲んでいる双子の赤子は15世紀にポライオーロが付け加えた。この像がローマのシンボルになって普及して行ったので、眺めていると一層感慨深かった。

絵画部門もドッソ・ドッシ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、ティッツィアーノ、ティントレット、グイド・レーニ、ヴェラスケスなど美術史を飾る巨匠の作品が多いが、私の一番惹かれたのはグエルチーノの「埋葬され天に昇る聖ペトロニラ」で、聖女の屍が墓穴からあけられ、彼女は復活して天国で、若者キリストに迎えられるところを描いた絵で、2人の男が聖女を引き出すシーンはリアルに描かれ、キリストがマリアを迎えるシーンは敬虔な雰囲気が漲っている。青い色が効果的に使われ、全体的に清澄さを感ずる絵になっている。ゲーテが絶賛したこの絵を見られた事は、私にとって最高の幸せだった。他にこの美術館には、カラヴァッジオの描いた「女占い師」「洗礼者聖ヨハネ」の2枚の絵があり、この2作品とも若者の姿を生き生き描いた傑作だと思った。

ポポロ広場 Piazza del Popolo は、19世紀初頭ジュゼッペ・ヴェラルディが行った都市開発の際に整えられた。広場中央にはフラミニオ・オベリスク「紀元前1200頃造られた」があり、ここからローマの3本の主要道路バブイーノ通り、コルソ通り、リペッタ通りの出発点になっていて、シクトゥス5世の命で建てられた。入り口はポポロ門で、この門は1000年以上ローマの入り口の役目をしており、北方から来る旅行者は、必ずこの門からローマに入る事になっていた。外側のファサードは、1561年から1562年にナンニ・ディバッチョ・ビジオによって建てられ内側のファサードはジャン・ロレンツォ・ベルニーニが1655年に建設した。モーツァルトもゲーテもローマを訪れた時は、ここからローマへ入っている。

私も2003年彼らに倣ってポポロ門を通過し、すぐ左にあるサンタ・マリア・デル・ポポロ教会を訪れた。11世紀から12世紀民衆の寄付によって出来た教会で、イタリアの語のポポロは民衆を意味し、それ故この名前が付けられた。内部にあるキージ礼拝堂はラファエッロが設計した。又カラヴァッジオの2枚の絵「聖パウロの回心」「聖ぺテロの磔刑」がある。前者は、キリスト教徒を迫害していたサウロ「後のぺテロ」が、ダマスカスで、突然イエスの声を聞いて、回心したという劇的な場面を描いている。天からの突然の声と共に強い光が、ペテロを射し、驚いて彼が落馬した瞬間が描かれ、画面の中央にある馬を大きく描く事によって凄まじいドラマティックな作品になっていて胸を打つ。後者は、十字架に架けられたペテロの十字架を3人の男が、立てようと必死になっている場面、ペテロは苦しげな顔をして、彼方のイエスに哀れみを乞うている場面で、十字架を逆さに押し立てようとする構図が劇的な印象を与え、素晴らしかった。

ナヴォナ広場Piazza Novonaの名前は「古代ローマ時代の競技会Agnese in Agone」に由来している。17世紀から19世紀にかけてここは貴族や聖職者達のエベント会場で、広場中央にジャン・ロレンツォ・ベルニーニが1651年に製作した大河の泉がある。円錐形の水盤の岩礁の上に水を飲む馬とライオンが配置され、ドミティアヌス帝のオベリスクを支えている。行くといつも勢いよく水が噴出し、また4大大河、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川、ガンジス川を表現している寓意の像は、まさしくバロック的で、迫力を持って迫ってくる。その前にあるサンタニューゼ・アゴスティーノ教会は、ベルニーニと同時代に活躍したフランチェスコ・ボロミーニが建てた事を考慮すると、4大大河の泉はベルニーニのボロミーニに対するライバル心、強い気概の様なものを感ずる力強い作品だといつも思う。広場の南にあるモーロの泉もベルニーニが設計した。

写真左:ボルゲーゼ美術館所蔵のカラヴァッジョ作「「果物籠を持つ少年」
右:同ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「アポロンとダフネ」

Galleria Borgeseボルゲーゼ美術館は、枢機卿シピオーネが、1608年から1617年にかけて建築家のフランミニオ・ポンツィオの設計に基づいてボルゲーゼが造営した広大なヴィッラ(約1万平方キロ)の敷地内に、建てさせ、それが美術館になっている。以前は古代ローマの作品部門も膨大な作品があったが、ナポレオンがローマに侵攻後、カミッロ・ボルゲーゼからフランスに寄贈?略奪?された。そして現在これらのコレクションはルーブルの古代ギリシャ、ローマ部門の重要な展示物になっていて、その中には有名なミロのヴィーナスもある。ボルゲーゼ美術館は名画の宝庫でボッティチェリの「聖母子」、ラファエッロ「十字架降下」、カラヴァッジョの「パラフレニエーリの聖母」「ダヴィテ」「バッカス」「果物籠を持つ少年」などの傑作がある。

この美術館は何度行っても新しい発見があるが、特にジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻「アポロンとダフネ」が素晴らしい。恋をする矢の影響で激しい恋心を秘めるアポロン、恋を嫌う矢を撃たれ、アポロンから逃げるダフネ、そしてアポロンは、どこまでもダフネを追いかけるが、最後にダフネを妻にする事を諦め、ダフネに自分の木になって欲しいと願い、ダフネが月桂樹になって行く様子が、劇的に表現されている。アポロンとダフネのしなやかで優美な肢体、本当にこれが人間の創作したものかと疑う程完璧で、ベルニーニによってバロック芸術は完成したと思った。

国立美術館 Galleria Nazionale は、バルベリーニ宮殿にあり、この建物は1625年カルロ・マデルノによって建設が開始された。その後ジャン・ロレンツォ・ベッリーニは、柱廊の上にあるガラス張りの開廊と館内に設けられている国立美術館に上がる階段、フランチェスコ・ボッロミーニは、ファサード右側の螺旋階段を設計した。この宮殿は17世紀盛期バロックを代表する3人の建築家によって建設された記念碑的建築で、設けられている国立美術館には、フィリッポ・リッピの「受胎告知」、ラフェエッロが自分の恋人を描いた「ラ・フォルナリーナ」、マッティア・プレーティ「ラザロの復活」などの名画があるが、やはり一番心に残ったのはカラヴァッジオの「ホロフェルネスの首を斬るユーディット」だった。

エルサレム郊外のべトリアに住む美しい寡婦ユーディットは、唯一の神を敬虔に信仰していたので、周囲の人々から尊敬されていた。アッシリアの王ネブカドネザルは自分に協力しなかった民族の討伐のために司令官ホロフェルネスを派遣し、彼はべトリアの町を包囲し、水源を断った。べトリアの指導者オジアは、降伏を決意するが、ユーディットは、人々を励まし、一計を案ずる。神に祈り、寝返ったふりをしてホロフェルネスの陣地に入って行ったユーディットは、エルサレム進軍の道案内を申し出た。ホロフェルネスはユーディトの美貌に惹かれ彼女は酒宴に呼び出された。ホロフェルネスは、ご機嫌になり、泥酔し寝込んでしまった。2人だけになったユーディットは、ホロフェルネスの短剣を取り、首を切り落とした。その後ユーディットの英雄行為に触発されたユダヤ人は反撃に転じアッシリア軍を敗走させた。カラヴァッジオの描いたのはまさにユーディットの剣がホロフェルネスの首を切り落とす劇的な瞬間を描いている。

2006年夏初めてこの絵を見た時、首から勢いよく流れ出す鮮血、ホロフェルネスの苦悶の表情などを見て愕然とした。これ程強烈な印象を受けた絵画はかってなかった。カラヴァッジオの絵はローマやマルタ島のバレッタで見た「キリストの斬首」なども凄い迫力だったが、この絵はそれをはるかに凌駕していると思った。全体のまとまり、色彩の美しさは「キリストの斬首」の方が優れているが、強烈さ、リアルさにおいてはこの絵の方が凄い。この主題は神への信仰の重要性を説いた旧約聖書ユーディト記の一説だが、ボッティチェッリ、カラヴァッジオと同時代の女流画家アルテミジア・ジェンティレスキ、ルーカス・クラナッハ、クリムト、音楽ではモーツァルト、ヴィヴァルディが、このテーマで作品を書いている。

又この絵が飾られている大広間の天井画も素晴らしかった。3匹の蜂をあしらったバルベリーニ家の紋章が、徳の女神によって天国に誘導される絵は「神の摂理の勝利」といわれ、バロック時代の豪華絢爛たる絵画に仕上がっていた。これは、画家、建築家でもあったピエトロ・ダ・コルトーナによって、1633年から1639年にかけて描かれた。

写真:ローマのシンボル、コロッセオ

●古代ローマの遺跡
Colosseoコロッセオは、紀元72年頃ヴェスパシアヌス帝が建設を始め、80年にティート帝が完成を祝った闘技場で、主に剣闘や野獣の戦いなどの見世物、サーカスが行われた。外周は527m、長さ188m、幅156mある楕円形で、高さは48.5m、約5万人の観客の収容が出来たという。ローマ時代戦争に勝った皇帝が凱旋式を行った場所である。この円形闘技場は、イタリアで一番大きい古代ローマ時代の遺跡で、私も2004年9月に初めて中に入って見た時ゲーテが感じた様にその大きさに驚いた。

Foro Romanoフォロ・ロマーノは紀元前7世紀末には共和制ローマの商業、司法、宗教、政治の中心で公共の建物が立ち並ぶ場所であった。カエサルとアウグストゥスの下で、整備され、古代後期まで町の中心としての機能を果たしていた。その後地震、蛮族の侵入などにより、破壊され、中世初期には、フォロ内部の石などは建築資材として運び去られた。又一部は家畜用の牧草地になっていたが、19世紀初頭発掘が行われ、古代都市が姿を現した。

私はここを何度も訪れ、特に2004年の秋にはセプティミウス・セウェルス帝の凱旋門、アントニヌス・ファウスティーナの神殿、フォロ広場など詳細に見て回った。カエサルの神殿はカエサルが火葬された場所にオクタビアヌスが建設し、紀元前29年この神殿を奉納した。私は一番よくこの遺跡全体を見渡せる場所を見つけた。それはヴィットリアーノにあるカフェで、アラコエリ教会脇の右側の階段を昇って行く。高い広いテラスがあり、そこからトロヤヌス帝のマーケット、フォロ・ロマーノ、コロッセオなどの古代ローマの遺跡が一望に見渡せる素晴らしい場所である。

フォーリ・インペリアーリFori Imperialiは、諸皇帝の広場を意味する場所でヴィッリアーノからコロッセオ間に通る道フォーリ・インペリアーリ通りの右側にあり、最初にフォロ(広場)の建設を始めたのはカエサルで、その後アウグストゥスなど歴代の皇帝が引き継いで、それぞれ名前のついたフォロを建設した。フォロ・ディ・トライアーノにはトロヤヌス帝の市場があり、設計したのは、ダマスコのアポロドロス、アーケードを開いた半円形の建物が残されており、最盛期には150以上の店が出展し賑わっていた。ここも何度も訪れたが、とても保存のよい遺跡だと思った。

このフォロには他にフォロ・ディ・アウグスト、フォロ・ディ・ミネルヴァなどがあり、トラヤヌス帝記念円柱が一際高く聳えている。これは、西暦101年から103年にかけてトロヤヌス帝のダキア戦の勝利を祝して建てられ、高さは約40mある。

カラカラ浴場 Terme di Caracallaは、西暦217年頃カラカラ帝によって完成したローマのテルメの中では最も豪華で大きい。全体の大きさは、333m x 328m、浴場全体だけでも220m x114mある。左右に運動場があり、中央に3種類の温度差の違う温泉があった。温泉としては6世紀まで使用されていた。その後ここでローマ時代の彫像が多数発見された。現在カラカラでは夏に仮設の舞台が造られ、オペラの上演が行われている。2006年の8月私は初めてカラカラで上演されるオペラを見に行った。古代の遺跡である大きな石と石の間に舞台が造られ、古代の遺跡を上手に取り込んだ舞台造りのうまさに感動した。

パンテオンPantheon は、現存する完全な形で残っている唯一のローマ時代の建物で、前27年マルコ・ヴィスパニオ・アグリッパが建設し、118年から125年にハドリアヌス帝により改築された。教皇ボニファキウス4世(在位608〜615)は、この建物をサンタ・マリア・アド・マルティレスという名前の教会に造りかえた。建物の前面にはプロナオスがあり、コリント式の1本の石柱16本が三角形のぺディメントを支えている。レンガ造りのロトンダ(円堂)は、高さが43.3mあり、高さと同じ直径のクーポラで覆われている。床の大部分は建てられた当時のまま残っている。

現在はイタリア王室の墓所になっていて、イタリア王国初代国王ヴィットリオ・エマヌエル2世の墓、国王ウンベルト1世、マルゲリータ王妃の墓などがある。他にラファエッロが、自分自身の墓のためにロレンツェットに委託した「石の聖母」がある。私は2度訪れたが、内部の空間はとても調和が取れていてここにいるだけでローマの喧騒を忘れ、荘厳で清冽な気分になった。

コンスタンティヌスの凱旋門 Arco di Costantinoは、コンスタンティヌス帝が、マクセンティウスを西暦312年破った事を記念して315年頃建設された。3つのアーチと美しい形が目立つが、装飾のモニュメントは過去の作品から持ってきて使った。コロッセオの近くにあるので、何度か見たことがある。

アウレリアヌスの城壁 Mura Aurelianeは、アウレリアヌス帝が、蛮族の侵入を防ぐために西暦271年から275年にかけて建設した。建設当初は、高さ6〜8m,全長18.84km。14の門、383の見張り塔は、100フィート毎に建てられた。以前から建っていた建物もとり込まれ、何度も修復補強が繰り返された。1527年のローマ椋奪の後は特に念入りに強化された。私はアッピア街道に近いサン・セヴァスティアーノ門の近くに広がる城壁を見た事がある。

写真左:トレヴィの泉 、右:サンタンジェロ城

●その他の史跡
Fontana di Treviトレヴィの泉
ローマは噴水が多いが、最も有名な噴水がトレヴィの泉で1762年に二コロ・サルヴィの設計で造られた。三叉路の所に開けてあるので、Trivio[三叉路]で、トレヴィと呼ばれる。建物に取り付けられる形で造られた噴水は、中央にピエトロ・ブラッチの制作した美しい彫刻、海馬の引く戦車に乗った大洋の神オケアノスの像があり、臨場感に溢れ、いかにもバロックの傑作という風情があり、ローマ最大の名所になっている。私は何度もここを訪れているが、何度見ても再びローマに戻って来たという心が躍動する気分になる。そしていつも縦で撮影するか、横で撮影するか、全体を撮影するか、近距離で撮影するか悩む。この噴水の雰囲気をうまく撮影するのは意外に難しい。

Piazza di Spagnaスペイン広場は、ローマで最も人気のスポットでこの階段は正式にはトリニタ・ディ・モンテ階段といわれている。それはこの階段の上にある16世紀に建てられたトリニタ・ディ・モンテ教会に由来している。どうしてスペイン階段と呼ばれているのかというと近くにスペイン大使館があったから。この階段は1723年から1726年にかけてフランチェスコ・ディ・サンティスの設計で造られた。オードリー・ヘップバーン主演の映画「ローマの休日」ではアン王女がジェラートをなめながら階段を下りて来る。下には、ピエトロ・ベルニーニとジャン・ロレンツォ・ベルニーニが教皇ウルヴァヌス8世の為に1629年に制作したバルカッチャの泉がある。この泉も斬新な印象的な彫刻でバルベリーニ家の象徴である太陽と蜂が見られる。

写真左:スペイン広場のトリニタ・ディ・モンテ階段 、右:スペイン広場下のバルカッチャの泉

Basilica Sant’Andrea della Valleサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会は、17世紀初頭の建築で、ファサードはライナルディとフォンタナの作、クーポラはサン・ピエトロにつぐ第2の高さを誇る。ジョヴァン二・ランフランコが描いた「楽園の栄光」は傑作。天井に描かれたドメ二キ―ノの「聖アンデレの物語」などのフレスコ画が美しい。またピウス3世とピオ2世の墓がある。プッチーニのローマを舞台としたオペラ「トスカ」の第一幕の舞台となった場所であり、私は何度かここを訪れている。

Palazzo Farneseファルネーゼ宮殿を私は何度も訪れたが、現在フランス大使館なので、内部には入れなかった。前に2つの泉のある美しい建物で、16世紀にアントニオ・ダ・サンガッロの設計で枢機卿アルフレッド・ファルネーゼ(後の法王パウルス3世)の為に建設された。1546年にサンガッロが死去した後はミケランジェロが引き継ぎ巨大なコーニス、建物の側面、中庭の上階などを制作した。2階にはアン二バーレ・カラッチとアゴスティーノ・カラッチらがマニエリムスの様式で描いた。

Castello S.Angeloサンタンジェロ城は、西暦123年頃ローマの皇帝ハドリアヌス帝が自身と後継者の廟として建設した。その後ルネッサンス時代に改築され、要塞として使われていた。「聖天使城」という名前は、590年にローマにペストが流行し、教皇グレゴリウス1世が、行列を組んで通りかかったところ廟の頂上で天使がペストの終焉を告げ、剣を鞘に収めるのを目撃したという伝承から来ている。ここにはサンタンジェロ国立博物館がある。私は何度かここを訪れ、晴れた日は屋上からサン・ピエトロ寺院の美しい外観が見えた。真っ直ぐな道がサン・ピエトロ広場まで通りその延長線上にサン・ピエトロ寺院があるが、その姿はいつ見ても最高に美しいと思った。

写真左:サン・ピエトロ寺院、右:サン・ピエトロ広場

●世界最小の独立国ヴァティカン市国
又1984年に世界文化遺産に登録された世界最小の独立国ヴァティカン市国には、カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂、サン・パウロ・フォリー・レ・ム―ラ聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ教会、サン・ジョヴァン二・イン・ラテラ―ノ教会などがある。

サン・パウロ・フォリー・レ・ムーラ教会堂San Paolo fuori le Muraは、ローマの4大聖堂の一つで、司教座聖堂の中では、サン・パオロ教会についで大きな規模を誇る。コンスタンティヌス帝の時代に聖パウロの遺骸が葬られていた場所に324年に建てられた。その後改装が度々行われたが、1823年火事で消失し、その後元の設計図を頼りに完全に再建された。内部は奥行き131.66m、幅65m、高さ29.7mあり、一面大理石で装飾されている。内部の主祭壇には、アルノルフォ・キャンビオ作の浮き彫りや彫刻があり、ピエトロ・カヴァリーニが制作したといわれるキリストの木像、復活祭の大燭台は、12世紀にヴァルサレット一族が制作したロマネスク芸術の作品である。

2004年9月にここを訪れた時は、教会堂の大きさに驚き、中庭は開廊になっていて、中央には噴水が涼しげに水を噴き上げ、庭には色とりどりの花が咲いていた。この美しい庭は人間の天国を表現しているのであろう。内部には豪華な黄金のモザイクがあり、この教会がビザンチンの影響をかなり受けているような気がした。

サンタ・マリア・マッジョーレ教会Basilica di Santa Maria Maggioreは、ローマ4大教会の一つで、言い伝えによれば356年の8月に奇跡的に夏に雪が降ったのを記念して創建され、エフェソス公会議以降にシクトゥス3世(在位 432〜440)が聖母マリアに奉献した。右に立つ高い鐘楼は、1375年から1376年にかけて造られた。内部の中央身廊は12世紀に造られた床面、天井は16世紀に造られた黄金で塗られているが、この金はアメリカ大陸から初めてもたらされた黄金を使用しているといわれ、見るとこれは本当に豪華で美しかった。1931年の改装の際、一部現れたものに、ニッコロ4世の翼廊があり、そこに若き日のジョット、ピエトロ・カヴァッリーニ、チマブーエなどが描いたといわれる「預言者達」のフレスコ画がある。又1564年から1573年にかけてミケランジェロが設計したスフォルツァ礼拝堂もある。私が行った時は丁度土曜の夕方のミサが行われていてあまり奥まで行けなかったが、雰囲気はとても敬虔な感じがした。最初にイタリアを訪れた当時14歳の少年モーツァルトはこの教会で、1770年7月8日教皇クレメンス14世に謁見した。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会San Giovanni in Laterano は、コンスタンティヌス帝が、313年から318年にかけて、1から3世紀の建物の上に建設した建物で、その後何度か改修された。シクトゥス5世の時代にドメニコ・フォンタナは、祝福の開廊が追加し、1646年から1657年にかけてフランチェスコ・ボッロミーニが大きな改装に携わった。15体の彫像が見られるファサードは、サンドロ・ガリレイが1732年〜35年にかけて制作したもの。内部には聖ペテロと聖パオロの頭部の聖遺骨が納められている。また告解室には、マルティヌス5世(1443年)の墓がある。

2006年8月に訪れた時は、金張りのブロンズで出来た古代の立派な円柱のある聖体の秘蹟の礼拝堂、ジョット派のフレスコ画の断片,マニエリムス様式で描かれたフレスコ画などを見た。又、1586年に再建されたラテラーノ宮殿にも行く事が出来た。ここは、フランスのアヴィニヨンに強制移転させられた教皇が帰還するまで教皇の宮殿であった。部屋は10室位あり、壁や天井はいずれの部屋も美しいフレスコ画で飾られていた。ここはガイドが説明してくるツァーが1時間毎に出ていたが、豪華な部屋の数々には、圧倒された。全体を撮影するか、近距離で撮影するか悩む。この噴水の雰囲気をうまく撮影するのは意外に難しい。

写真左:ヴァティカン博物館所蔵 ラファエッロの傑作「アテネの学堂」
右:システィーナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」

サン・ピエトロ大聖堂とヴァティカン館博物館 Basilica di San Pietoro e Musei Vaticani
ローマに来る観光客が一番訪れるのが、サン・ピエトロ大聖堂とヴァティカン博物館、サン・ピエトロ大聖堂は、カトリック界の中心の建物で現在の建物は1506年ユリウス2世の下でブラマンテの設計で始められ、その後ラファエッロ、バルダサーレ・ペルッツィ、アントニオ・ダ・サンガロ、・イル・ジョーヴァネが設計に携わったが、最終的にはミケランジェロに設計が委託され、その後何人かの建築家に受け継がれ、最後にウルヴァヌス8世が1626年にこの大聖堂を献堂した。大聖堂の前に広がるサン・ピエトロ広場にある柱廊は、1656年から1567年にバロックの建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって建設された。

ヴァティカン博物館はエジプト館、アポロンやラオコン群像などの古代の彫刻などが展示されているピオ=クレメンティーノ博物館、エトルリア博物館、ナポレオンによって優れた作品はフランスに持ちされたヴァティカン絵画館には、ラファエッロの「キリストの変容」、カラヴァッジオ「キリストの埋葬」「グイド・レーニ「ペテロの磔刑」などがあり、またラファエッロの傑作「アテネの学堂」のあるラファエッロの間などがある。

その中で私にとって特に印象深かったのが、システィーナ礼拝堂、私が初めてここに描かれた絵を知ったのは、1965年に製作されたキャロル・リード監督、チャールストン・ヘストン主演の映画「華麗なる激情」、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の「天地創造」や「最後の審判」の絵などを制作する時の苦悩を描いた作品だった。その時映画の中で「天地創造」や「最後の審判」の絵が詳細に見られ、それ以来いつかこれらの絵を間近に見たいと思った。それが実現したのは1972年、その後何度も見ているが、いつもその劇的迫力に圧倒される。

ミケランジェロは若い頃レオナルド・ダ・ヴィンチと絵画の論争をした時「絵画は彫刻に近づけば近づく程優れ、彫刻は絵に近づけば近づく程駄目になる。」と言ったが、その彼の芸術感がそれらの作品に特徴的に見られる。人物の筋肉の盛り上がり、また立体的画面は大理石の彫刻のようだ。この絵が完成し、それを見た教皇は「これは人間技ではない。神自ら筆をとって描いたに違いない。」と語ったといわれるが、私もこの絵を見た時、同じ感動を味わった。ゲーテはこの絵を見て「僕はその瞬間すっかりミケランジェロに心を奪われ、彼を見たあとでは自然さえも味わいを持たないほどだった。それは僕には自然を彼ほどの偉大な目を持って見ることはできないからだ。」との述べ絶賛している。
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ユネスコが認定しているローマの世界遺産は以上の様な場所である。1786年11月にローマを訪れたゲーテがローマに魅せられ、一年以上の長期にわたって滞在し、名著「イタリア紀行」を執筆した。私は1972年に初めてこの偉大な都を訪れて以来15回位訪れているが、2006年に「ゲーテ イタリア紀行を旅する」の本を執筆する為に9月に4日間訪れた事が忘れられない。

それまでもローマは色々な場所を訪れ、その都度ゲーテの訪れた場所を取材し、撮影していたが、この時はそれまで行けなかった場所を全て訪れなければならなかった。しかし最初の3日間は天気が悪く、絶望的な日々が続いた。最後の日天の恵みか快晴になり、私は妻をホテルに残し朝8時からタクシーをチャーターして、それまで訪れていない場所を徹底的に撮影した。古代ローマの遺跡、バロックの遺跡などおそらく一つの街をあれだけ集中的に散策したことはかってなかった。しかし今思い出すとあの時が人生の最も充実した時間だったような気がする。

現在イタリアの世界遺産は、イタリア国内にあるサン・マリノ共和国を含めて46である。
これから又増えるかもしれないが、私のイタリア世界遺産の紹介はゲーテと同じようにローマで終わります。皆様3年間おつきあいいただきどうも有難うございました。またイタリアの世界遺産が追加されたらその都度、追加して書くことをお約束します。

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