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イタリア世界遺産の旅
15 Settembre 2013
メディチ家ヴィラ群と庭園
Ville e Giardini Medicei


登録年 2013年
登録基準 文化遺産(ii) (C) (E)


文・写真 牧野宣彦

2013年6月フィレンツェ市内とその郊外に点在するメディチ家の2つの庭園と12のヴィラ群が、エトナ山と共に世界文化遺産に登録された。これでイタリアの世界遺産は、全部で49カ所になった。メディチ家ヴィラ群と庭園は、登録基準の(II(IV)(VI)の条項に当てはまる。

前記の3つの条項とは、以下のものである。
(A)ある期間を通じて、またある世界の文化圏で、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観の発展に関し、人類の重要な価値の交流を示すもの。(美術的に優れた絵画、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた「最後の審判」など)

(C)人類の歴史上重要な時代を例証する、ある様式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観などの顕著な例。(シチリア西部のヴァル・ディ・ノートや他の町に見られるバロック様式の建築など)
(E)顕著な普遍的な意義のある出来事、現存の伝統、思想、信仰や芸術的、文学的作品と、直接に明白に関連する重要なもの。(フィレンツェの歴史的地域など)                                              

写真トップ 8)のヴィラ・ディ・アルティミーノ

1.メディチ家の沿革
イタリア語でメディチ(Medici)とは「医学」「医者」を意味し、メディチ家の先祖は薬などを扱う問屋か医師であったといわれる。そのメディチ家が、1397年メディチ銀行を創設したジョヴァンニ・ディ・ビッチGiovanni di ‘Bicciの時代に銀行業で台頭し、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、莫大な財を築いた。ジョヴァンニの息子コジモ(1389-1464コジモ・イル・ヴェッキオCosimo Il Vecchio)は政敵によって一時フィレンツェを追放されるが1434年にフィレンツェに帰還し、政治の実権を握る。(1434年から一時期を除き、メディチ家は実質1737年までフィレンツェ共和国の政治を支配した。)当時のメディチ家は、イタリアだけでなくロンドン、ジュネーブ、アヴィニョンなどに銀行を出店し、ヨーロッパ有数の富豪となった。

コジモの息子ピエロ(1416-1469)は、病弱であったが、メディチ家の黄金時代を築いた一人だった。そして芸術家のパトロンとしてアルベルティ、べノッツォ・ゴッツォリ、彫刻家ドナテッロ、画家フィリッポ・リッピなどを彼の時代に保護して、優れた作品を制作させた。コジモの孫のロレンツォ(1449-1492)は、偉大なるロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニーフィコLorenzo il Magnifico)と呼ばれ、政治外交に優れ、ボッティチェリ、ミケランジェロなどを保護し、この時代がメディチ家の絶頂期であったが、本業の銀行業は、巨額の赤字になり、メディチ銀行は破綻寸前に陥った。ロレンツォが43歳で病死し、跡を継いだのは長男のピエロだったが、1494年フランス軍の侵攻に対する対応がフィレンツェ市民の怒りを買い、一時追放され、メディチ銀行も破産した。ピエロは1503年に亡くなり、その後メディチ家の当主は、ロレンツォの次男のジョヴァンニ枢機卿が継承した。ジョヴァンニは、ハプスブルク家の援助を得て、1512年フィレンツェに復帰し,彼はローマ教皇レオ10世として即位し、メディチ家は、ローマ教皇領とフィレンツェを支配するイタリア屈指の門閥となった。

その後メディチ家は再度フィレンツェを追放されるが、1532年クレメンス7世の息子アレッサンドロが「フィレンツェ公」となりメディチ家は正式な君主となった。メディチ家が支配していた15世紀から18世紀に建設された庭園やヴィラ群が今回世界遺産になった。それらの建物はフィレンツェとその郊外に建設され、主なヴィラ、メディチ一族の要塞,狩猟、農業、住居、サロンとし利用していたヴィラだけでも16を数え、小さなヴィラ、主に農業や狩猟などに使われた短期滞在のヴィラは11あり、またそれ以外にメディチ家が実質使用していたヴィラの中にはメディチ・リッカルディ宮、ヴェッキオ宮、ピッティ宮、カジーノ・ディ・サンマルコなど歴史的に重要な建築が含まれている。今回はそのうち12のヴィラと2つの庭園が世界文化遺産になった。

世界遺産になった庭園と建築物は以下の通りである。(尚年号はヴィラのメディチ家所有期間を示す。)

<庭園>
1. ボーボリ庭園Giardino Boboli (1549-1738) (フィレンツエ)
2. プラトリーノ庭園Giardino di Pratolino (1568-1738) (ヴァーリア、フィレンツエ)

<ヴィラ>
1. ヴィラ・デル・トレッビオVilla del Trebbio (14世紀半ば - 1738) (サン・ピエロ・ア・シエーヴエ、フィレンツエ)
2. ヴィラ・ディ・カファッジョーロVilla di Cafaggiolo (14世紀半ば - 1738) (バルベリーノ・ディ・ムジェッロ、フィレンツエ)
3. ヴィラ・ディ・カレッジVilla di Careggi (1417 - 1738)  (フィレンツエ)
4. ヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレVilla Medici di Fiesole (1450?1671) (フィエゾレ、フィレンツエ)
5. ヴィラ・ディ・ポッジョ・ア・カイアーノVilla di Poggio a Caiano (1470?1738) (プラート)
6. ヴィラ・ディ・カステッロVilla di Castello (1480?1738) (フィレンツエ) 
7. ヴィラ・ラ・ペトライアVilla La Petraia (16世紀前半 ? 1738) (フィレンツエ)
8. ヴィラ・ディ・チェッレート・グイディVilla di Cerreto Guidi (1555?1738) (フィレンツエ)
9. ヴィラ・デル・ポッジョ・インペリアーレVilla del Poggio Imperiale (1565?1738)  (フィレンツエ)
10. ヴィラ・ラ・マジアVilla La Magia (1583?1738) (クアッラータ、ピストイア)
11. ヴィラ・ディ・アルティミーノ Villa di Artimino (1596?1738) (カルミニャーノ、プラート)
12. ヴィラ・ディ・セラヴェッツァ Villa di Seravezza (1560?1738) (セラヴェッツァ、ルッカ)

2.メディチ家庭園とヴィラ群探訪の旅
2013年8月16,17日、妻と私は、メディチ家の庭園とヴィラを訪問する事にした。ヴィラのあるフィレンツェへは、私の住んでいるボローニャから高速列車FrecciaRossaで35分である。早速日程を作り始めた。しかし調べると、車のない個人がこれらのヴィラを全部訪問するのは、かなり大変だという事が分かった。この中でルッカ郊外のヴィラ・ディ・セラヴェッツァVilla di Seravezzaは、所在がルッカ地方の小さな街なので除外した。あとのヴィラの訪問時間などを調べると土、日曜日しか開いていないヴィラや、午前中しか開かない場所、グループしか訪問を受けつけない場所、個人の家なので事前の了解がいる場所などがあった。それで、まず場所をフィレンツェ市内にある場所とプラート周辺地区に分け、2日間フィレンツェに宿泊し、回る事にした。

1)ヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレVilla Medici di Fiesole
初日朝フィレンツェに8時頃着いた妻と私は、ホテルに荷物を預け、すぐ最初の訪問先ヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレに向かった。フィエゾレは、以前一度訪れた事があり、ローマ時代の劇場などを見学している。フィレンツェ郊外の丘の上にあるフィエゾレは、高級なヴィラが立ち並んでいる。私たちの乗ったタクシーは、最初フィエゾレのホテル・サン・ミケーレに停まった。どうも様子からして私たちの訪れたいヴィラ・メディチとは違う。運転手に場所が違うといい、ヴィラ・メディチに電話をしてもらった。幸いその場所からすぐの所にヴィラ・メディチはあった。後でこのホテルを調べたら一泊1200ユーロもする超高級ホテルで、写真などを見ると庭の作りなどがヴィラ・メディチに似ていた。5分後ヴィラ・メディチに着き、ブザーを押すと事前に訪問の予約をしておいたので、音もなく大きな門が開いた。

写真上 ヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレ

内部は一本の道が通っていて、200m位先に花やレモンが植えられた庭園とヴィラが見えた。丘の斜面に建てられたヴィラは、夏の陽光を浴び、とても美しかった。このヴィラは、1451年から1457年にかけてコジモ・ヴェッキオの息子ジョヴァンニによって建てられた。ヴィラの最初のデザインは、レオン・バッティスタ・アルべルティによる。その後ミケロッツォ一族やヴァザーリなどによって改築された。ヴィラ・メディチ・フィエゾレは、典型的なルネッサンスの最初のヴィラで、西のテラスには、恐らくドメニコ・ギルランダイオの作と思われる聖母マリアの被昇天のフレスコ画がある。ジョヴァンニの死後跡を継いだのは、ジョヴァン二の甥のロレンツォ・イル・マニーフィコであり、このヴィラには当時を代表する人文学者等が集まった。

また忘れてならないのは、メディチ家のロレンツォとジュリアーノがドゥオーモのミサの最中にパッツィ家に襲われ、ジュリアーノは命を落とし、ロレンツォは聖具室に逃げ込み助かったという事件が1478年に起こった。この悲劇的事件の前日ロレンツォとジュリアーノは翌日暗殺者となるパッツィ家の2人をこのヴィラでの夕食に招待していた。夕食の時にパッツィ家の2人は、毒殺を試みたが、ジュリアーノの体調が悪くなった為に成功しなかった。

このヴィラを大変素晴らしいと思ったのは、庭園の右の彼方に花のサンタ・マリア・フィオーレと呼ばれるフィレンツェのドゥオーモが見える事だった。それは燦然と朝の光を浴び輝いていた。今まで色々なヴィラを訪れたが、これ程の美しいヴィラにお目にかかったのは初めてであった。ヴィラに着くと東洋系の男性が出て来て、書類にサインをし、入場料を一人10ユーロ徴収された。私は、庭にあるブドウの棚や、建物の少し下方にある庭園などを見て、この美しいヴィラに別れを告げた。

2) ヴィラ・ディ・カレッジVilla di Careggi
次に訪れたヴィラはヴィラ・ディ・カレッジだった。着いてみると鬱蒼とした樹木に包まれた庭があり、外からは建物が全く見えない。門の所に「Villa di Careggi」という表示があり、鍵があったが、よく見ると鍵は閉めてなかったので、幸運にも中に入る事が可能で建物の外観の撮影もできた。

写真上:ヴィラ・ディ・カレッジ

ヴィラ・ディ・カレッジは、1325年頃建てられ、メディチ家の所有になったのは、1417年のジョヴァンニ・ディ・ビッチの時代だった。ジョヴァンニが1429年に亡くなった跡を継いだのは、コジモ・ディ・ヴェッキオで、彼はミケロッツォに命じて、館を台形から長方形に改築させた。1459年コジモ・ディ・ヴェッキオは、新プラトン・アカデミーをヴィラ内に創設した。このヴィラには当時の優れた哲学者、人文学者であったマルシリオ・フィチーノ、クリストフォロ・ランディーノ、ピコ・デッラ・ミランドラらが集まり、毎夜議論が行われた。特に会の中心人物だったマルシリオ・フィチーノは、この近くに住み、コジモ家の人々と深く交流していた。コジモ・イル・ヴェッキオの後、ヴィラはルネッサンス芸術の黄金時代を演出したロレンツォ・ディ・マニーフィコが継承した。彼は1492年に亡くなるまでの人生の大半をここで過ごした。現在ヴィラは病院になりカレッジ大学病院Azienda Ospedaliera Universitaria di Careggiが管理している。

3) ヴィラ・ラ・ペトライアVilla La Petraia
フィレンツェの中心から少し離れたセスト・フィオレンティーノSesto Fiorentino付近に建てられているヴィラ・デッラ・ぺトライアを次に訪れた。 このヴィラは1362年には既に存在しており、元の所有者はブルネレスキ家、ストロッツィ家など数家族にわたっている。メディチ家の所有となったのは、追放されたていたメディチ家が、フィレンツェに戻った1530年、その後1568年にコジモ1世の息子フェルディナンド(後のトスカーナ大公)が庭園を拡張し、現在見られるような美しいイタリア式庭園となり、ジャンボローニャの製作した「髪を絞るニンフ」などの彫刻のある噴水や色とりどりの花の咲く庭園を見る事ができる。庭園はなだらかな傾斜なっていて小高い場所にヴィラが建っている。

写真上左: ヴィラ・ラ・ペトライア    写真上左 同ヴィラの1階広間

現在ヴィラの内部は公開され、室内に入るとすぐ4方が美しいフレスコ画で装飾された部屋があり、中央に豪華なクリスタルのシャンデリアが輝き、心地よい空間になっている。イタリアが1861年に統一され、フィレンツェがイタリア王国の首都になった一時期、このヴィラにイタリア初代国王ヴィットリオ・エマヌエル2世の住居になった時代があり、その部屋や美しいフレスコ画が描かれている教会などを見る事ができた。

4)ヴィラ・ディ・カステッロVilla di Castello
ヴィラ・デル・カステッロは、ヴィラ・ラ・ぺトライアのすぐ近くにあるので、ヴィラ・ラ・ぺトライアを訪問した後に訪れたが、その日は、閉まっていて、翌々日再訪した。着いて見ると太った声の小さい女性が、館を管理していた。内部は見学を許可していないので、庭だけしか見られなかったが、この庭園はコジモ1世が、特に気に入り、彼が権力に上り詰めた1538年以降にトリボロ、ヴァザーリ等により改造された。庭園にはニコロ・ロチボーロによって始められ、ヴァザーリが完成した「動物達の洞窟」、その上の林の中の泉にはジャンボローニャがアペニン山脈を模してブロンズで制作した「冬」の像があった。

写真上 左:ヴィラ・デル・カステッロ 右:300年以上もこのヴィラに飾られていたボッティチェリの傑作「春」 

このヴィラは1427年には既に存在し、メディチ家のピエールフランチェスコとジョヴァンニが購入したのが1477年。庭園には、黄色、赤、ピンクの花が咲き、レモンの木が植えられていた。英語のGardenは、Gar Eden(エデンの園)で囲まれた楽園を意味するが、この庭園は、まさに地上の楽園を建設しようとしたコジモ1世の情熱が伝わってくるようだった。またこの城には、現在ウフィッツィ美術館にあるボッティチェリの描いた「ヴィーナスの誕生」、「春」の2つの傑作が、300年以上も飾られていた。現在この場所はクルスカ学会Accademia della Cruscaの所有となっている。

5)ヴィラ・デル・ポッジョ・インペリアーレVilla del Poggio Imperiale
上記したヴィラは、フィレンツェの北西に位置していたが、ヴィラ・ポッジョ・インぺリアーレは、フィレンツェの南に位置する。このヴィラは、バロンチェリ家、パンドルフィ家、サルヴィアーティ家などが所有していたが、1565年コジモ1世の所有となり、パオロ・ジョルダーノ・オルシーニと結婚した娘イザべラに与えられた。その後1622年にコジモ2世の妻であるオーストリア・ハプスブルク家のマリア・マッダレーナが、このヴィラを収得した。ヴィラは彼女に敬意を表し、「ポッジョ・インぺリアーレ(皇帝の丘陵)」と呼ばれるようになった。

写真上 ヴィラ・デル・ポッジョ・インペリアーレ 

今回私がこのヴィラを訪れた時は、夏季休暇で閉まっていたが、私は以前ここを訪れた事がある。2006年はモーツァルトが生まれて250年の記念の年で、私はモーツァルトの辿ったイタリアの街を撮影して歩いた。この時は室内に入り、モーツァルトが演奏した部屋や彫刻などが配置されている庭園などを見た。

1770年3月30日フィレンツェに着いたモーツァルト父子は、4月2日トスカーナ大公の夏の離宮ポッジョ・インペリアーレに招かれ、演奏会が開催された。ポルタ・ロマーナから続いている道Viale Poggio Imperialeは少しなだらかな坂道になっていて、それを登って行くと大きな建物が見える。これが離宮である。現在は女性の教育機関Collegio della SS.Annunciataになっている。建物の外壁にモーツァルトがこの場所で1770年の4月2日に演奏した事が書かれた碑があった。

6)ボーボリ庭園.Giardino di Boboli
ボーボリ庭園は、ピッツィ宮、ベルヴェデーレ要塞とローマ門にまたがる庭園で、イタリアで最も優雅で、広大な庭園といわれる。面積は45000u。1549年メディチ家のコジモ1世が妻のエレオノーラ・ディ・トレドの為にピッティ宮と共に買い与えた。1550年ニコロ・トリボロNicolo Triboloの設計で、庭園の建設が始まり、彼がその年亡くなった後は、当時の一流の建築家、彫刻家のジョルジョ・ヴァザーリ、バルトロメオ・アッマナーティ、ベルナルド・ブオンタレンティなどが、建設に参加した。1634年にはジュリオ、アルフォンソ・バリージ父子によって大円形劇場が完成した。そのこけら落しは、1637年メディチ家のフェルディナンド2世の婚礼を祝うオペラが上演された。庭園はその後も改装を繰り返し、18世紀後半には一般に開放され,その頃沢山の古代の彫刻が配置された。庭園は19世紀初頭一時イギリス式庭園に改装されるが、ロレーナ家の帰還とともにフェルディナンド3世は庭園を本来のイタリア式庭園に戻した。

写真上 ボーボリ庭園  

20世紀に入ると庭園は野外劇場として利用され、1906年にはピエトロ・マスカン二によるコンサート、1933年からはフィレンツェ5月祭の会場として使用された。夏には現在オペラフェスティバルが開催され、6年位前私は一度それを見に行った。その時上演されたのは、ヴェルディの「リゴレット」だった。ボーボリ庭園といっても広大な場所で、上演場所を探すのに苦労した記憶がある。庭園には「ジュピターの泉」「ネプチューンの噴水」「バッコスの泉」「ブオンタレンティの岩窟」などがあり美術史的に貴重な作品を見る事が出来る。その中には、バッチョ・バンティネッリ「ケレアスとアポロ」、ジャンボローニャ「ヴィーナス」、ヴィンチェンツォ・ロッシ「パリスとヘレネ」、そしてミケランジェロ作「囚人」のコピーなどもある。また入場料は、10ユーロ払ったが、ボーボリ庭園の他にこのチケットで、銀器博物館、陶磁器博物館、衣裳美術館、バルディーニ庭園等が見学可能である。

7) ヴィラ・ディ・ポッジョ・ア・カイアーノVilla di Poggio a Caiano
この日は2日目でフィレンツェから少し郊外のヴィラを回る事にした。朝食を取り、ホテルを出たのが8時、プラートには8時半頃着き、すぐタクシーで、プラートの南8kmの場所にあるヴィラ・ディ・ポッジョ・ア・カイアーノに向かった。走る事およそ20分、入り口を入ると巨大なヴィラが建っていた。

写真上 ヴィラ・ディ・ポッジョ・ア・カイアーノ

このヴィラは、1479年までストロッツィ家が所有していたが、1480年にメディチ家のロレンツォ・イル・マニーフィコが購入した。ヴィラは最初要塞として利用されていたが、ロレンツォはジュリアーノ・ダ・サン・ガッロGiuliano da San Galloに命じて、大改造させた。中央の広間はアンドレア・デル・サルトAndrea del Sarto、フランチアビジオFranciabigio、ポントルモPontormo、アレッサンドロ・アローリAlessandro Allori等による一連のフレスコ画で装飾されている。それは輝かしいローマ時代の物語を描きながらメディチ家の栄光を讃えた作品で、建物の外部の頭上にはメディチ家の紋章と美しい色彩に包まれたテラコッタのフリーズがあるが、これはサンソヴィーノSansovinoの作といわている。

このヴィラは、数あるメディチ家のヴィラの中でも最も重要なヴィラで2代目のトスカーナ大公フランチェスコは、妻と共にこのヴィラで亡くなり、初代イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエル2世も利用した。またヴィラには、ヤン・ブリューゲルなどが描いた素晴らしい静物画のコレクションなどもあるが、今回は時間がなく、見る事が出来なかったが、いつかゆっくり再訪してみたい。

8)ヴィラ・ディ・アルティミーノ Villa di Artimino
ポッジョ・ア・カイアーノから次の訪問地ヴィラ・アルティミーノまでは、約30分位だが、道は細い道になり、人家も殆どなくなり、葡萄畑とオリーブ畑という典型的なトスカーナの田園風景が続く。昔この地域は狩猟に最適な場所だったと思った。やがてT字路に着き、Villa Ferdinandaと考古学博物館の表示が見えて来た。私たちは、Villa Ferdinandaの方向に行くと目指すヴィラがすぐ見えて来た。

写真上 ヴィラ・ディ・アルティミーノ

ヴィラ・アルティミーノは、ヴィラ・フェルディナンダとも呼ばれている。それはこれを建設したのが、フェルディナンド1世だからだ。このヴィラが建設されたのは1596年から1600年、メディチ家の建築家ベルナルド・ブオンタレンティによる。フェルディナンドはこの館を狩りや夏の離宮として利用した。サロンの中央や大公の住まい、チャペルなどは、フランドルの画家ジュスト・ウテンスGiusto Utensのフレスコ画で装飾されている。1608年にはガリレオ・ガリレイが、若い王子コジモ2世に数学を教えるために、このヴィラを訪れたという。
現在ヴィラは結婚式場、コンベンション、ビジネスミーティング等に使用されている。

9)ヴィラ・ディ・カファッジョーロVilla di Cafaggiolo
次の訪問地ヴィラ・ディ・カファッジョーロは、フィレンツェの北バルベリーノ・ディ・ムジェッロBarberino di Mugelloという所にある。ヴィッラ・ディ・アルティミーノからタクシーで約1時間位の長距離だった。運転手のフランチェスコは、わからない所は地元の人に聴き、完璧に無駄なく目的地に連れて行ってくれた。ヴィッラ・ディ・カファッジョーロは、内部に入る事はできなかったが、外から写真撮影が可能で、よい写真が撮れた。

 写真上 ヴィラ・ディ・カファッジョーロ

このヴィラは、メディチ家の所有した最も古いヴィラで、14世紀には存在し、1349年にはフィレンツェ共和国の要塞の一つだった。1359年メディチ家のアヴェラルド・デ・メディチAverardo de ‘Mediciがこのヴィラをメディチ家の所有とした。その後ジョヴァンニ・ディ・ビッチ、コジモ・デ・メディチが引き継ぎ、1451年彼はミケロッツォに命じて「城(Castello)」から「ヴィッラVilla」へ改築した。即ちヴィラは要塞からより快適な住まいになった。歴代の所有者はこのヴィラを狩猟や農業の拠点として活用したらしい。ここには昔チーズ工場などもあった。メディチ家出身の法王レオ5世は幼年時代をこのヴィラで過ごした。ヴィラは現在個人の所有で、セレモニーや会議などに使用されている。私はこの建物を見た瞬間塔が目についた。これは明らかに以前要塞だった事を示す痕跡だった。

10)ヴィラ・デル・トレッビオVilla del Trebbio
私たちの次の目的地はヴィラ・デル・トレッビオでヴィラ・ディ・カファッジョーロからわずか2km位の距離だった。通って来た道を少し先に行くと右に曲がる細い道があった。舗装もしてない道で石がごろごろしている悪道でこの道をゆっくり上って行くと、あたりは森で深い緑に包まれていた。15分も走ると目的地に着いた。着くと写真で見た塔のある美しいヴィラが見えた。小さな入口の中は紫や赤い花等が咲いていた。一段下がった南の庭園には、素晴らしい葡萄棚があり、まだ緑の葡萄がたわわになっていた。ヴィラでは、オーナーのロレンツォ氏とその友人が庭園やヴィラの内部を案内してくれた。とても親切な人たちで、沢山の資料をくれた。

写真上 ヴィラ・デル・トレッビオ  

ヴィラ・デル・トレッビオは、1364年には既に存在していた。四角い塔は9世紀、ヴィラを囲む城壁は12世紀にはあったといわれる。ヴィラはフラミニア街道沿いにあり、通行人を見張る要塞としての役割を担っていた。1427年ヴィラは、コジモ・ディ・メディチの所有になり、彼はミケロッツォに命じてこの城を、狩りや鷹狩等をするのに適したヴィラに改築し、現在の外観になった。

ルネッサンス期の偉大な探検家でアメリカの名前の語源となったアメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512)は、ヴィラ・デル・トレッビオの下のすぐ近くに住んでいた。ヴェスプッチ家はメディチ本家と分家に仕えたが、彼は最終的には分家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・メディチに仕えた。彼はメディチ家の人とも親しく、彼の叔父さんと共にこのヴィラに宿泊し、フィレンツェにいた彼の父親にラテン語で手紙を書いている。その手紙は今でも古文書館Uffizi Archivesにて保存されている。

11) プラトリーノ庭園 Giardino di Pratolino
プラトリーノ庭園は、1568年メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世により建設され始めた。1575年彼はこの庭園の設計をベルナルド・ブオンタレンティに委ねた。この庭園は、自然やテクノロジーなどを駆使して造られ、トスカーナ大公の夢が象徴的に紹介されている。総面積は、20ヘクタール、アペニン山脈の麓にあり、1569年から15年の歳月をかけて建設され、最終的な費用は78万スクード、なんとウフィッツィ美術館の2倍の費用がかかったといわれ、当時ヨーロッパで最大規模の庭園だった。

写真上 プラトリーノ庭園の「アペニンの巨人像」  

広大な敷地には、彫刻や噴水、グロッタ等が配置され、見応えがあるが、その中で一番有名なものはジャンボローニャが1579年から1580年にかけて製作した「アペニンの巨人像Colosso dell’Appennino」これは、イタリア半島の擬人化の像で約10m近い高さのある巨大な像である。私は写真で見たこの像の写真が撮りたくてここを訪れたが、残念ながら像は修復中で網がかかっていた。前の池には所狭しと大きな淡いピンクの蓮の花が咲き、まるで楽園の様だった。背景にアペニン山脈が見えるこの巨大な像を本当に見たかったので、その日は悲しくて寝られなかった。是非修復後にまた訪れたいと思った。

12) ヴィラ・ディ・チェッレート・グイディVilla di Cerreto Guidi
8時半からスタートして、最後のプラトリーノ庭園を見てフィレンツェのサンタ・ノヴェッラ駅に着いたのは、13半頃だった。さすがに午前中これだけのヴィラを訪問するのは疲れたが、すぐ汽車でエンポリに行った。そして私達は直ちに郊外にあるヴィラ・ディ・チェレート・グイディに向かった。タクシーで約20分、こげ茶色の建物が町の公園の前に建っていた。

写真上 ヴィラ・ディ・チェッレート・グイディ

このヴィラは、グイディ伯爵によって建てられ、彼の名前はヴィラとこの街の名前となって残っている。1555年コジモ1世が狩猟の館に建て替えた。その後ヴィラはトスカーナ大公の所有となった。1576年7月トスカーナ大公の娘イザべラ・デ・メディチが、不倫が理由で夫のパオロに暗殺されたという事件が起こったのもこのヴィラであった。現在はチェッレート・グイディの歴史・狩猟博物館になっていて室内には絵画、肖像画や彫刻等が飾られ、天井なども美しい模様が彫られている。また狩猟の館らしく、猟銃、短砲や動物の首の剥製等も展示されていた。

13) ヴィラ・ラ・マジアVilla La Magia
ヴィラ・ラ・マジアには訪問出来る日をメイルで問い合わせしたら8月24日が都合がよいという事で、またボローニャからプラートに行き、タクシーでヴィラのあるクアッラータQuarrataへ行った。ヴィラに着くと小柄な男性が待っていてヴィラを案内してくれた。名前はダ二エーレさんといいフィレンツェの大学で美術を勉強し、その後大学で教鞭を取っていた。ヴィッラ・ラ・マジアがアルバ―ノ山の北の麓に建てられたのは、14世紀で、ピストイアのパンチャティッキ家Panciatichiによる。ダ二エーレさんの話だとヴィラの役割は住民を監視する為だったという。1427年から1465年にかけて庭園は拡張され、中央に噴水のある中庭などが造られた。その後このヴィラは重要な場所になり、1536年には名誉な事にカルロ5世が狩猟の為にこのヴィラを訪れている。また1579年にはフランチェスコ1世とビアンカ・カぺッリの結婚式が行われた。

写真上 ヴィッラ・ラ・マジア

1581年パンチャティッキ家が経済的に破綻し、その数年後の1583年メディチ家のフランチェスコ1世の所有になり、彼は建築家のベルナルド・ブオンタレッティに改造を命じ、彼は庭園の背後に人口の湖を造った。

1645年には所有者がアッタバンティ家Attavantiに変わり、新たにイタリア式の庭園が造られた。その後リカソリ家Ricasoliなど数家族がこのヴィラを所有し、2000年にQuarrata市の所有となり、修復され現在博物館として公開している。それ以後現代彫刻にも力を入れ、外にある庭園や広大な敷地にFabrizio Corneli、 Daniele Buren,日本人の彫刻家長澤英俊さんなどの現代彫刻やモニュメントなどを配置した。ダ二エーレさんの話だと修復のための予算がなくまだ修復できてない場所も多いという。彼の1時間にわたる親切な説明で、このヴィラをよく理解できたし、とても嬉しかった。

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私は、メディチ家の11のヴィラと2つの庭園を4日間で回ったが、どのヴィラも庭園にも色とりどりの花が咲き、ヴィラにある各庭園は、それを所有した君主の理想が象徴的な形で表現されていた。ルネッサンスに活躍した建築家レオン・バッティスタ・アルベルティは、理想のヴィラについて以下の様に述べたという。
「貴族の住居は、地所の中でも、特に肥沃でなくてもよいが、他の点で傑出している場所に建てるとよい。すなわち風通し、日当たり、眺望がよく、快適なところ。持ち主の農園をつなぐ平坦な道、それからお客を迎えるのにふさわしい並木道があること、よく見える場所にあり、都市、城砦、海または広い平原を見渡せる場所にあること、また名だたる丘や山の頂、美しい庭園にも視線を馳せることができること、さらに釣りや狩の豊富な機会を与えてくれること」。

私にとって最も印象に残ったヴィラは、最初に訪れたフィエゾレのヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレだった。ここにはアルベルティの理想とした全ての条件が満たされ、そして何よりも彼方に見えるフィレンツェの街が美しかった。尚今回の訪問で入場料を払ったのは、ヴィラ・メディチ・ディ・フィエゾレ10ユーロ、ボーボリ庭園10ユーロだけだった。


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